色なき分岐-3
知らされた真実。
とっさに笑い飛ばそうとして失敗した。GRは不自然になっているだろう表情筋から力を抜き、ハウヤを見据える。
「俺は……あいつ自身の口から、自分は天使じゃないって聞いた」
ささやかな反撃はあっさりと返り討ちに遭う。
「だろうねぇ。天界には戻らないつもりだし、天使であることを捨てたんだから否定するのは当然だよ」
「でも天使なんだろ? 羽なんてどこにもないじゃねえか」
「天使には変身能力がある。人間に化けるなんて造作もないことだよ。といっても、アッシュの場合は違うけどさ」
ハウヤがテーブルの端に目をやる。
「メイ、そのポット貸してくれる?」
すぐさまメイが腰を浮かして、まだ紅茶が入っているポットを彼に差し出した。ハウヤはカップに入っている紅茶を飲み干し、GRの前にポットと一緒に並べてみせる。
「アッシュは変身してるんじゃなくて、人間を模した器の中に入ってる状態なんだ。ここで重要なのは、天使の力は人間が内に抱えたままいつまでも正常な状態を保てるほど小さくないってことだよ」
ポットを持ち上げ、
「天使として存在してるときは余裕で抱えていられる力も────」
カップに傾ける。なみなみと注がれた紅茶は、こぼれるかこぼれないかというところまで満たされた。
「人間の体にはぎりぎりの状態でしか入らない」
ポットを置く。
「力が別の性質なら……外界に放つものだったらこれでも問題ない。せいぜい窮屈だなって感じる程度だよ。けど、彼の力は違う。受け止めるんだ。こんなぎりぎりの状態に、さらに紅茶を注ぐようなものだよ。しかも問題はまだある」
ハウヤはソーサーをつまんだ。
「さっき話したとおり、受け止めた他人の感情はアッシュの精神に影響を及ぼす。優しくて温かな感情に触れたときはいい。温め、彼を癒してくれるから。けど負の感情は駄目だ。万が一にでもまともに受け止めてしまったら……」
ソーサーを前後に揺らす。
「心が荒れ、力が乱れる。そして────」
当然、こぼれる寸前で均衡を保っていた紅茶が飛び散り、テーブルを汚した。
「暴走した天使の力は肉体を突き破って外に溢れるわけだ」
ハウヤはため息まじりにそう言って、手を離す。
「もちろんアッシュは力の暴走を防ごうとする。内から外へと流れ出る力をせき止めようとする。力の本流は激流。となれば押さえ込む力も相当なものになるよね。しかもアッシュは死んでも外に出すまいと必死だ。だから必要なことすら忘れる。止めてはいけないものまで止めてしまう。結果、きみも知ってる発作が起きる」
ソファーの背に体を投げ出し、両手を天井に向けて肩をすくめた。
「窒息なんて可愛いもんだよ。心臓が止まったことだってあるんだから」
ハウヤはカップを取り替えたメイに礼を言って、紅茶を口に運ぶ。
「彼は他者を際限なく受け入れてしまう。しかも拒否したり見捨てたりすることができない不器用な性質なんだ。無限に近い許容量を持つ天使なら問題ないそんな癖も、人間の体じゃ負荷が大きい。……実際、綱渡り状態で生きてる。僕に言わせれば奇跡だよ」
場に満ちる重い沈黙。
しかしハウヤは容赦がなかった。
「GR、もしかしてアッシュに触った?」
「あ、ああ」
「きみさ、剣士でもある彼がなんであんな動きにくそうな服を着てるか、理由を考えなかったの?」
「………………」
「触れると相手の感情が伝わりやすいからだよ。だから極力素肌を隠して、少しでも不用意な事態を避けようとしてるんじゃないか。特にきみみたいな激しい気性、ちょっとでも中に入れたら命取りだ」
「っ」
微笑みの奥に剣呑な光を宿して、ハウヤが静かに呟く。
「彼は、天使の中にあってさえ特別な存在だ。その力はある意味、神に匹敵する。……呼吸困難程度の症状で済んで良かったと思いなよ。もし暴走してたら、アッシュを死なせるどころか世界そのものを消し飛ばしていたかもしれないんだから」
「ンな、大げさな……」
かろうじて鼻で笑い飛ばすも、
「そう思う?」
切り返されて終わりだ。
ハウヤはそっと翠の目を伏せた。
「本当はこんなとこにいてはいけないんだよ、彼は。天界のいちばん高いところで聖歌を歌い、世界を慈しんでいるべき天使だ。けれど決意を胸に、自ら地に墜ちた。人として生きて闘って死ぬことを架した。でもやっぱり……彼はあまりに『人』からかけ離れすぎてる。存在そのものが純粋すぎるんだ」
両手を祈りの形に組む。
「生物は生きるのに綺麗な空気や水が必要でしょ? アッシュはそれと同じように、ううん、それ以上に、綺麗な感情が……愛情が必要なんだ。愛のない世界では彼は死んでしまう。怒りや哀しみ、嘆き、憎しみ、疑念、邪悪な思念は、彼にとっては毒でしかないんだよ」
そして静かに手を解き、向き直ってくる。冷静な中に深い怒りを内包した瞳で。
「GR、ここから出てってよ。きみの精神は荒すぎる。激しすぎる。猛毒みたいなものなんだ。アッシュの命を危険にさらしてしまう。そんなこと……主治医としても友人としても、僕は許可できない」
正直なところ、ハウヤの言をすべて鵜呑みにはできない。安直に信用してしまえるほど彼のことを知らないのだから。けれど、自分の目で見たことならば信じられる。圧倒的ですらあった魔法。触れることをかたくなに拒む態度。そして発作と、メイの激昂とぶつけられた言葉。たった一日半で知った出来事は、GRの首を縦に振らせるには充分すぎた。
「わかった」
視界の端で青い髪が震えた。
けれど決断は変えない。
「でも、勝手に帰ったとか思われンのはヤだからな。その辺のフォローはお前がしろよ」
「もちろん」
ハウヤの即答に頷くとGRは、隣に目を向けた。
少年の顔がくしゃくしゃになっていく。
「っ、な、なんでぇ?」
唇が、声が、歪む。
「やだ……やだっ。なんでっ? なんでぇっ?」
大粒の涙がいくつも転がり落ちていく。
「やだよぅ、やだぁっ。ばいばいなんてやだぁぁーっ!」
フェリスが叫び、GRの胸にしがみついた。
「フェリス……我慢して。ね?」
ハウヤが優しく言い聞かせてくる。
「アッシュのためなんだよ。GRがいたらゆっくり休めないから、おうちに帰ってもらうのがいちばんいい────」
「はぅや、なんでじーゆにいじわゆすゅのっ?」
なおいっそう強くすがりつく。
「あしゅ、じーゆのことすきだもんっ。いっぱいいっぱいすきだもんっ。いってないけど、いってたもんっ!」
何度も何度も首を振って、そして顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになった顔が必死の形相で懇願してくる。
「ほんとだよっ。あしゅ、じーゆのことだいすきだよっ。ぼくも、めいも、みんなじーゆのことすきだよっ。そぇでもだめなの? ばいばいしなきゃだめなのっ? ねぇ、ねぇじーゆぅっ」
ひときわ大きな涙が落ちた。
「ぼく、がんばゆかやっ。じーゆのおなまえ、ちゃんといえゆように、いっぱいいっぱいがんばゆかやっ、だかやっ……だかや……っ、どっかいっちゃ、やだぁっ!」
抱き寄せたらこらえきれなくなったか、フェリスが大声で泣き始めた。
なんだか、感動する。半日も一緒にいなかったのに、ここまで別れを惜しんでくれるなんて。
けれど嗚咽がおさまってきたところで体を離した。顔を覗き込む。
「ほら、もう泣くな。男だろ」
「だ、だってぇっ」
「お前が泣いてたらあいつが心配すンだろ。せっかく寝てンのに、慰めてやんなきゃって思って起きちまうかもしンねーぞ?」
髪をおおざっぱに撫でる。
「お前の仕事は、病気の奴が元気になれるように頑張ることだぜ? それなのに逆に邪魔してどうすンだ。そうだろ」
「………………うん……。でもっ────」
「だったら」
さらに強く撫でる。
「いつまでもめそめそしないっ。それに、もう一生逢えないってわけじゃねえんだ。あいつが元気になったら、ウチに遊びに来りゃあいい」
悔しげですらあったフェリスの表情が、ふっと軽くなった。
「おうち?」
「きっとミューイとディルも喜ぶ。いつでも来いよ。な」
「あしゅとめいも、いっしょにいっていい?」
さすがに一緒にというのはアッシュローズが承諾するとは思えないが、ここでGRが拒否する理由もない。笑顔で頷く。
「いろんなとこに連れてってやっから、楽しみにしてな」
「ぜったいねっ。やくそくねっ」
「おう。でもその代わり、メイたちに我儘言わずにあいつの看病をすること。できるよな?」
「うんっ、がんばゆっ」
「よし、約束だ」
指切りをしたら、フェリスの目から涙がなくなっていた。
もう大丈夫だろう。判断し、今度はメイに顔を向ける。
「じゃあ、そういうことで。いいよな」
メイが、はっきりと眉を八の字にし、大きな耳を頭につくほど寝かせ、エプロンを握りしめてうつむいた。
「ごめんね」
「お前が謝ることじゃねえだろ」
フェリスの上を越えて手を伸ばす。灰色の髪をくしゃりと混ぜた。
「それより、あとのこと頼むな」
「うん。……ありがと」
もう一撫でしてから手を離し、腰を上げる。
「送ってあげるよ」
振り返るとハウヤが、すでに立ち上がるところだった。
「たいした労力でもないからね。それに、隠れて近くに潜まれてても困る」
掌を返したかのように善意を向けられても嬉しくないと思ったが、これである。しかし納得した。それに魔法の力を借りなければ自分の足で走って帰ることになる。どうせなら利用させてもらおう。
「城門の前でいい。あ、服とかがそっちの角部屋に────」
「了解了解。一緒に送ってあげる」
みなまで言わずとも理解してくれたハウヤに、とりあえず礼代わりの会釈をして、ソファーセットから離れる。と、
「……GR」
「あ?」
呼ばれ、再度振り返った先で、ハウヤが開きかけの口をぴたと止めてから首を振った。
「いや、ごめん。なんでもないよ」
とてもそうは見えない。が、何を言おうとしたのかはまったく想像がつかなくて、GRは肩をすくめるだけだ。
リビングに魔法の呪文が響き出す。景色が見慣れたそれに変わったのは、やはり一瞬だった。しかし、慌てて出迎えてくれる者たちにガルシア様、あるいは殿下と声をかけられる中、それが自分の名前であると気持ちが理解するのに時間がかかったのはなぜだろう。
(…………。なんか……)
自分の心理に思い至って、心の奥底で己を嘲笑する。
(俺、ぜんぜん納得できてねえや)
どうやら理性は事実を認識できても、感情にまで認めさせるのは無理だったらしい。
そうだ、納得などできない。なぜGRを騙そうとしたのかがわからないままだ。絶対に理由があったはずなのだ。ないわけがないのだ。アッシュローズの口から答えを聞くまで、納得できるわけがないではないか。
「…………くそ」
だが、いまさら気づいたところで動けない。戻れない。
どうしようも、なかった。




