色なき分岐-4
言葉では知っていた感情、その激しさに、いつの間にか屈していた。
「神様に怒られたとしても、私は好きよ。綺麗で優しくて、情熱的なあなたが好きよ」
変えられない未来。避けられない結末。
知ってもなお手を離すことは考えられなかった。むしろ、だからこそ離れたくなかった。
「天を捨てると言ってくれて、私、罪深いことだとわかっていても嬉しいの。あなたを苦しめてしまうとわかっていても、泣きそうなほど嬉しいの。本当よ? 本当なの」
抱きしめた罪の形は、愛おしすぎた。
「ふふ……きっと私、地獄に落ちるわね。でも、いいわ。望むところよ。どんな責め苦でも受けて立つわ」
微笑む彼女は、陽光を宿した花のようだった。
「好きよ、大好き。愛してるわ……アッシュローズ」
「──……シアリィ……」
「あ、起きた?」
横からかけられたのは、愛しい声とはまったく違うそれだった。
混乱するも、しかし一瞬で通りすぎる。アッシュローズは天井から視線を外して横を見た。
「丸一日眠ってたよ。気分はどうだい?」
控えめに話しかけてくる金の髪と翠の瞳の友人に、そっと微笑む。もちろんほんの少しの嫌味を混ぜることも忘れない。
「悪くない。おかげさまでな」
「それは良かった」
案の定、何のダメージも与えられなかった。
アッシュローズは一息ついて目を閉じ──空気に混ざっている感情の残り香に気づいて飛び起きた。
「フェリスが泣いたのかっ?」
詰め寄るなりハウヤがおどけて肩をすくめた。
「やっぱりわかっちゃうんだねぇ」
「当たり前だろうっ。いったい何があったんだっ」
頭の良い男が、珍しく間を置く。
「GRに帰ってもらった」
即座には言葉が出なかった。
ただ、目の前が暗くなった。
ハウヤはごく冷静な顔で話し続ける。
「アッシュの体のことを考えると、GRの気性の激しさは毒だから。……って、彼には言ったよ」
「……なぜ……」
声が出た。
喉が痛かった。
「なぜ勝手なことをしたっ。ハウヤっ」
「あのねぇ、それは僕の台詞」
友の眉が吊り上がる。
「いったい何を考えてるんだい。事情をほっとんど話さないで、わざと嫌われるように振舞って、本心を隠して騙して……。GRをわざと怒らせてどうするんだい。そんなに自分を傷つけたいの? 死にたいの?」
ベッドの端を叩く。
「言っておくけど、人間として死んだらきみは未来永劫天使には戻れない。永遠の命も力も記憶も何もかも失って、輪廻の輪に組み込まれることになる。決意も誓いも何もあったもんじゃない。死んだら死ぬんだ、すべて」
「…………っ」
息を詰まらせたアッシュローズの代わりに、ハウヤがゆっくりと呼吸を落ち着けた。それから穏やかな口調で問いかけてくる。
「ねぇアッシュ。こんな自殺行為にしか見えないことして、何をやろうとしてたのさ」
言えるわけがない。どうせ反対されるに決まっている。そしておせっかいなこの友人は勝手に事態の収拾に動き出すのだ。言えるわけがない。
長い付き合いの友人はしばしアッシュローズの言葉を待っていたが、ため息ひとつであきらめたようだった。
「ほんっとにきみは頑固だよねぇ。口、堅すぎ」
言いながらサイドテーブルに手を伸ばす。水差しからクリスタルグラスに水を注いで、差し出してくる。
「はい、飲んで。きみがいつ起きてもいいようにって、メイが新鮮な聖水を用意してくれてたんだから。飲んだらすぐに横になること。いいね?」
「……わかった」
素直に受け取って聖水をすべて飲む。陽光の魔力を封じた水晶で清めた水は、自然と全身に染み込んでいった。心も落ち着く。
ほぅ、と息をつき──アッシュローズは唐突に、気づいた。
フェリスの哀しみと動揺がわずかに感じられるものの、空気はひどく静かだ。穏やかで、どこか寂れた沈黙に満ちている。これはGRが屋敷内にいないせいだ。たった一人いなくなっただけなのに、こんなにも空気が変わってしまうなんて思わなかった。それだけ彼に存在感があったということなのだろう。
「……アッシュ? 肩、どうかした?」
「え?」
問われ、初めて気づく。右手が己の左肩を押さえていることに。
そこは嫌でも思い出せる、GRに喰らいつかれた場所だ。しかし痛みはない。違和感すら感じないほど完全に癒したのだから、無意識でもかばうことなどありえない。なのに右手は意地を張るかのように離れてくれず、アッシュローズ自身が戸惑う。
なぜか。
胸の内に問いかける。
動揺する心をなだめて、考えて、そして理由らしきものを見つけて、さらに困惑した。
(温かい……?)
原因はわからない。思い当たる節はない。けれど確かに温かいのだ。触れているだけで驚くほど落ち着く。安心する。
(なぜだ?)
「……アッシュ……ほんとに大丈夫かい? 怪我してるなら診るけど」
「いらんっ」
自分でもびっくりするほどの即答だった。わけがわからないまま慌てて取り繕う。
「……いや、怪我はない。大丈夫。なんでもないから……」
ハウヤはいぶかしそうに見ていたが、医者の目で問題ないと判断したらしく、すんなりとひいてくれた。
「そ。ならいいけど」
訪れた沈黙。
いつもなら気にならないそれが居心地悪くてアッシュローズは、すぐに声を出していた。
「なぁ、ハウヤ」
「ん~?」
「GRに……どこまで話したんだ?」
ハウヤがアッシュローズの手からグラスを取る。
「きみが天使だってことと、体のこと。混乱してたけど、いちおうは納得してくれたみたいだったよ。自分から国に戻ってくれたしね」
「……そうか」
「きみがGRを拒絶してるみたいだったから、僕も合わせてきつくあしらっといた。おかげでフェリスに怒られちゃったよ。もしこのままみんなに嫌われちゃったら、きみのせいだからね」
これでもかというくらいに眉を寄せて、めっ、などと叱られると、どうにも調子が狂ってしまう。アッシュローズは久方ぶりに吹き出した。
「すまない。私からも言っておこう」
「そうしてよ。ほんとに」
肩が落ちるほどの嘆息をしたハウヤが不意に、彼らしい柔らかな表情に戻る。
「言っておくけど、GRを帰らせたのは彼が悪いからじゃない。きみが、彼を受け入れまいと意固地になったせいで精神バランスを崩したからだよ。わかってるよね?」
「………………」
「……ねぇ、なんでGRに冷たくしてたのさ。そりゃあちょっと馬鹿っぽいとこがあるけど、度量も大きいし、正義感に溢れてて、まっすぐで、いい奴だと思うけど? それにきみとGRは──…………。ま、いいや」
グラスをサイドテーブルの盆に伏せて、席を立つ。
「下にいるから、何かあったらいつでも呼んで。くれぐれも無理はしないでね」
彼はそれ以上何も言わず、訊かず、部屋を出ていった。
アッシュローズは意識して右手を肩から外し、横になる。目に入るのは真っ白な天井だけだ。色がない。味気ない。愛する人がさまざまな色彩を好んでいた理由が、今ならわかる。
体ごと左を向いて丸まって、目を閉じた。が、すぐに目蓋を上げる。また無意識のうちに手が左肩に触れていた。
途方に暮れてしまう。いっそ泣いてしまいたい。
(なぜ、こんなに温かいのだろう。なぜ、こんなに、こんな、……日差しのような……)
『じーゆ、やさしくって、おひさまみたい! ぽかぽかなのっ』
脳裏に流れたのは、いとし子の言葉。
そして、言葉の意味と、思い出した理由を理解して、本当に、泣きたくなった。
(あぁそうか。GRか)
このぬくもりは彼の心だ。たった一日とはいえ、彼が放つ強烈でありながら心地良い熱をずっと感じていたのだから間違えない。きっとアッシュローズが眠っているときに触れたのだろう。優しい気持ちを込めて、肩に。だからこんなに温かい。
痛いほどにぬくもりを掴んで、アッシュローズはいっそう小さく丸くなる。
(GR……)
リビングで話をしていたときから感じていた。シアリィとは少し違う。けれど彼もまた太陽のような人だ。シアリィが太陽色の花だとしたら、GRは太陽そのもの。強く、輝かしく、公明正大で、慈悲深い。
同じ理想を持っていることもすぐに気づいた。優れた戦闘能力は夜の段階でわかっていた。
考慮は一瞬で済んだ。充分だった。
もしも自分が途中で力尽きても、彼があとを継いでくれる。メイとフェリスを見守ってくれる。この男にならば獣人と人間の未来を託せる。そう思った。
けれど、
(GR、どうしてお前は私を嫌ってくれなかった。どうして憎んでくれなかったのだ。あんなにひどい言葉をぶつけたのに。怒って当然の扱いをしたのに……っ)
与えてくれた優しさ──肩のぬくもり。それはGRがアッシュローズを、完全にとまではいかなくとも受け入れてしまった証拠だ。このようなことは、かけらたりとも望んでいなかったのに。
(……私は、どこで間違えてしまったのだろう。いったい、どこで……)
肩に頬を擦り寄せる。
心が穏やかになってしまうのが哀しい。
残滓にすぎないGRの心が温かすぎて、すがりつきたい気持ちが強くなるばかりで、弱っていく己の心が怖い。
アッシュローズは強く強く目を閉じる。
(もう、あいつに関わるのはやめよう)
フェリスたちは悲しむかもしれないが、こうなってしまった以上、彼に関わるわけにはいかない。
黙っていてもGRならば獣人族の未来のために闘うだろう。アッシュローズにもしものことがあったときも、最期に伝言のひとつも送ればフェリスとメイを引き取ってくれるに違いない。だが、歪んでしまった望みだけは無理だ。
(殺せない……GRにはもう、私を殺せない)
関わったらいつ、非情な役目を背負わせることになるかわからない。そしていざ直面したとき、GRはきっとためらうだろう。アッシュローズを殺さずに済む方法をと悩むに違いない。けれどためらっては駄目なのだ。その一瞬の隙で自分が彼を殺してしまう。この世界から消してしまう。
アッシュローズはシーツに顔をうずめた。
GRがいなくなっても問題はない。ほんの少し前、彼の存在を知る前に戻るだけだ。ただそれだけのことだ。この約一年、発作に襲われながらもずっと独りでやってこれたのだから大丈夫だ。問題など、あるわけがない。
自分に言い聞かせる。何度も、何度も。大丈夫なのだと。
それでも掌は離れてくれない。忘れてくれない。あきらめてくれない。
(どうして、私は……こんなにも弱いのだろう……)
泣きたくて泣きたくて、
怖くて、
震える唇を噛みしめた。
(……助けて……)
声にならなくとも、言葉は心で溢れかえる。
それが誰に向けた願いなのか──わかって、けれど認めるわけにはいかなくて、アッシュローズは顔を覆った。




