巣食う棘-3
理性は認識していない。けれど本能が感じ取っている。何かがまずい。わからないが早く手を打たないと何かが手遅れになる。
「しっかりしろっ。おいっ、聞いてるかっ?」
ずっと繰り返し呼んでいるのだ、声に反応したわけではないだろう。それでもやっとアッシュローズが動いてくれた。白い指が胸元に爪を立てる。己を抱きしめていた右手が移動し、喉を押さえ────
気づく。
まずいと感じた何かがわかった。静かすぎるのだ。さっきまであんなに荒かった呼吸音がかすれている。しかも不規則で不自然。まともに息ができていないのだ。
もう我儘に付き合っている場合ではない。放っておいたら呼吸困難で死に至る可能性が出てくる。強引であろうがなんとかして肺を動かしてやらねば。自分のことをあからさまに嫌っている人間でも信用しきれない相手であったとしても、目の前で死にそうになっている者を放置できるほど神経は図太くない。
GRは両手でアッシュローズの肩を掴んだ。力任せに押し倒す。
白髪が乱れ、舞い広がった。
降りかかる髪を払ってアッシュローズを左腕一本で押さえると、彼の腹部を指で軽く叩く。
(ここだ!)
見つけた横隔膜に拳を叩き込んだ。
「がは──ッ」
ふたつに折れた体。
衝撃で息を漏らした口。
再度地に倒れて、散る白髪。
アッシュローズは激しく咳き込みながら逃げるように転がった。急に入ってきた酸素に体がびっくりしたのか腹の痛みがつらいのか、足を曲げて丸くなる。
めちゃくちゃに咳き込んでいる彼の背に手を伸ばした。
「慌てンな。ゆっくり息しろ。できるな?」
さすってやるうちに呼吸は正常なそれに変わっていく。
「ごほっ……ごほっ、けほっ……」
背中からひときわ大きな力が抜けた途端、白い体がくずおれた。横向きになった彼の顔から前髪が滑り落ち、現れたのは──双眸。
「──────」
いったい何が起きたのか。
気がついたときには、GRはその場で無様にも尻餅をついていた。
声は出なかった。思考も働かなかった。ただ腰が抜け、汗が噴き出し、恐怖を感じた。それだけはわかった。理由を認識したのはそのあとだ。
(なんの冗談だ? こりゃ)
縫い付けられたかのように、白い男から目を外せない。
(なんだよこれ)
目を逸らすことさえ許してくれない呪縛の中、咳のおさまったアッシュローズが動いた。髪と服を引きずり、体を起こす。
まっすぐに向けられた瞳は、まるで朝霧に包まれた薔薇の色。長い睫毛は薔薇に降り積もった季節外れの粉雪のようだ。色の悪さを補って余りあるほどなめらかな肌を縁取る髪は乱れてもなお輝きを失わず、木漏れ日のような柔らかさで彼の体を包んでいる。
すうっと通った鼻筋も、噛みしめられた唇も、青ざめている頬も、何もかもがこれ以上ないほどのバランスだ。これではまるで人形である。生きた人間だなど信じられない。信じたくもない。何かが間違っている。
けれどアッシュローズは確かに息をし、動き、GRを懸命に睨んでいた。
「……馬鹿犬め」
眉が歪んだ。哀しみの形に。
「下僕風情が……許しもなく主人に触れるな」
伏せた目が前髪の向こうで揺らぐ。
「お前は、黙って私に従っていれば、いいのだ」
顔を背け、うつむいた。
「今すぐここから、出て行け。……二度と、私に触れようなどと考えるな。虫唾が走る」
肩が強張っている。乱れ、めくれ上がった袖から覗く拳は、強く握りすぎているせいで震えている。
(………………。えーと……)
なぜだろう。ひどいことを言われているはずなのに腹が立たない。今胸に宿っている感情は怒りではない。まして恐れでもない。どちらかというと呆れだ。
(まいったなぁ)
GRは変わらず視線を縛り付けられたまま、心の中で嘆息する。
よくわからないが、自分はこの男を嫌いになりきれないらしい。ひどい扱いをされ、ひどいことを言われたが、それらすべてを水に流してもいいと思い始めている。本当になぜなのかわからないが。しかし、わからなくとも己の感情は無視できない。直感は捨てられない。
GRは重い体を動かして胡坐をかいた。自分の意志でアッシュローズを見る。
彼がぶつけてきた言葉はどれも不条理で非道で冷酷だ。けれど前髪が乱れたおかげであらわとなった表情は、とても脆くて弱々しい。
どちらが本当のアッシュローズなのだろう。
──結局行き着く疑問はそこなのか、と思うと笑えてくる。
「お前……」
緩んでしまう顔を隠しもせずに、GRは膝の上で頬杖をついた。
「わけわっかんねえ奴だなぁ」
すると、アッシュローズが震えを忘れた。息を呑むのが聞こえる。
そのまま呼吸を止めてしまわなかったことだけ確認してから、GRはうつむくアッシュローズの頭に手を伸ばした。
「体、大丈夫か?」
「触るなっ」
案の定振り払われた手を、また伸ばす。
「あんま無理すンなよ」
「触るなと、言っているっ」
また跳ね飛ばされ、さらにまた伸ばす。
「いちいち怒鳴ンなって。体に響くぞ」
「いい加減にしろっ。お前のその大きな耳はただの飾りかっ?」
「本物に決まってンじゃん」
ぴこぴこと動かしてみせるが、アッシュローズは顔を上げもしない。それどころか離れようとするではないか。
GRは大きく嘆息をして、
「だぁから……逃げンなっての」
頬杖を解き、アッシュローズを捕まえた。引き倒す。
胸にぶつかった彼の頭と肩が、落ち込みたくなるほど硬くなり、震え出す。
「は、離せっ」
「やだ」
腕を回し、抱きすくめてやった。まだ逃げようともがくアッシュローズを逃がさないように、けれど壊してしまわないように、優しく力を込める。
「無理すンな。苦しいときはじっとしてるもんだぜ?」
「離せっ」
「なーにをそんなに怖がってンだよ。失礼だな」
アッシュローズが硬直した。
GRは微笑んで、花の香りのする髪を撫でる。
「大丈夫。どんな病気か知ンねえけど、治ンねえもんはねーよ」
ぽんぽん、と優しくなだめてやる。
「俺の姉貴が言ってたぜ。病気って奴は『幸せ』って気持ちが大嫌いなんだってさ」
「……────っ」
「だから悪いことばっか考えたりなんでもかんでも気に入らねえって文句言ってねーで、笑って暮してりゃあいい。そうすりゃ病気のほうが逃げてくんだってよ」
「……うるさい……っ」
「だからお前も、ンな辛気臭せぇ格好してむっつり黙ってねえで────」
「うるさいっ」
「笑ってろよ。フェリスと一緒にいるときみてぇにさ」
「うるさい……っ、うるさいうるさいうるさいっ、黙れ、もう……っ」
いつしかアッシュローズの声は完全な震え声になっていた。
「泣くなよ」
微笑んで、彼の恐怖も不安も全部、体ごと胸に押しつける。
「ンなことじゃあ病気に負けちまうぜ? な?」
「もう……」
長い髪に頬を寄せた。
「頑張れよ」
「……やめてくれ…………」
アッシュローズの双肩から硬直が溶けていく。ゆっくりと、少しずつ。
「…………──」
力がすべて抜ける最後の一瞬、何か聞こえた気がしたが、問う間もなくアッシュローズは意識を手放してしまった。くたりと崩れ落ちた彼の体を抱え直す。
「………………」
心に去来したのは、眠ってくれたことへの安堵ではなく、痛みだった。仕方ないのだと頭ではわかっていても心はついてこれないらしい。
GRは深いため息を落とす。けれど。
(今はンなこと考えてる場合じゃねえよな)
アッシュローズを両腕に、立ち上がった。




