第9話 国を救えと言われても、俺はホームセンターの店員なんだが
翌朝。
俺が食堂へ下りると、王女がいた。
当たり前のように、窓際の席へ座っていた。
昨日の旅装ではない。白いブラウスに紺色の長いスカートという、比較的簡素な服装だ。
比較的、というのは、襟元に細かな刺繍が入っていたり、袖口を小さな真珠のような飾りが留めていたりするからである。
ラウル村では、どう頑張っても浮いていた。
「……おはようございます」
目が合ったので、仕方なく挨拶する。
エレオノーラは小さく頷いた。
「おはようございます、孝太郎様」
「様はやめてください」
「では、孝太郎殿」
「殿もいらないです」
「しかし、呼び捨てにするのは礼を欠きます」
「昨日会ったばかりの俺を、急に呼び捨てにする王女様も嫌ですけどね」
「それでは、どのようにお呼びすればよいのです?」
「普通に久世さんで」
「クゼとは家名なのでしょう?」
「はい」
「私はグランヴェール王国を代表して交渉に来ています。あなた個人との親交を深めるために参ったのではありません。家名で呼ぶ方が適切でしょうか」
「朝から面倒だなあ」
「そちらが細かい注文をつけたのではありませんか」
「じゃあ孝太郎でいいです」
「呼び捨てで?」
「もう何でもいいです」
「投げやりですね」
「まだ朝飯も食べてないので」
俺は王女から離れた席へ座った。
するとエレオノーラが正面へ移動してきた。
「何で来るんですか」
「お話がありますので」
「朝食中くらい休ませてください」
「まだ食べていません」
「これから食べるんです」
「食べながらでも話せます」
「食事と国の命運を同時に扱わないでくださいよ」
そこへアニタが、木の皿を二つ持ってやってきた。
今日の朝食は、黒パンと豆のスープ。それに薄く切られた腸詰めが二枚。
王女の前にも同じものが置かれる。
付き人のマーサが眉をひそめた。
「アニタ殿。殿下のお食事について、昨夜お願いしたはずですが」
「毒見なら好きにしな」
「そうではありません。せめて白パンと、新鮮な果物を」
「そんなもの、この村に毎朝あるわけないだろう」
「代金はお支払いします」
「金を払っても、ないものは出せないよ」
「近隣の町から取り寄せることは」
「馬で半日はかかるね」
マーサは難しい顔をする。
アニタは腰へ手を当てた。
「王女様だからって、食べ物が畑から急に生えてくるわけじゃないよ。昨日も言ったけど、うちで出せるのは村のみんなが食べてるものだ」
「ですが、殿下のお身体に何かあれば」
「マーサ」
エレオノーラが静かに口を挟んだ。
「これで構いません」
「殿下」
「この国の民が、毎日これを食べているのでしょう?」
「この村ではね」
アニタが答える。
「ならば、私だけ別のものを求める理由はありません」
「お腹壊しても知りませんよ」
俺が言うと、エレオノーラが睨んできた。
「どうして、そう不吉なことを言うのですか」
「固いパンに慣れてなさそうだから」
「パンが固いことと、腹痛は無関係でしょう」
「よく噛まないと胃がびっくりします」
「子供ではありません」
そう言って、王女は黒パンを手に取った。
両手で割ろうとする。
割れない。
もう一度、力を込める。
やはり割れない。
白い頬が、少し赤くなった。
「……これは、食べ物なのですか」
「昨日、耐えるって言いましたよね」
「食べ物ではなく、建築資材に見えます」
「スープに浸すんですよ」
「先に言ってください」
「聞けばよかったでしょう」
「あなたは、女性が困っていても黙って眺めているのですか」
「王女様が固いパンと戦ってるところ、ちょっと面白かったので」
「見ていたのですね」
「見てません」
「今、見ていたと認めたではありませんか!」
エレオノーラが声を上げる。
食堂にいた村人たちが振り返り、くすくす笑い始めた。
王女は気づくと、何事もなかったようにパンをスープへ浸した。
耳だけが赤い。
「笑いものにされました」
「王女様が普通に怒るからですよ」
「怒らせたのはあなたです」
「初対面からずっと怒ってません?」
「あなたが初対面から失礼なのです!」
「だったら国を救えなんて頼まない方がいいですよ。俺、頼られると余計なことまで言いますから」
その瞬間、エレオノーラの顔から、先ほどまでの幼い苛立ちが消えた。
「では、余計なことでも構いません」
「え?」
「我が国の現状について、何でもお尋ねください」
空気が変わった。
俺はスープへ入れた匙を止める。
この人は本当に、諦めるつもりがないらしい。
「朝飯がまずくなりそうだな……」
「食事の味が変わるほど、深刻な話です」
「開き直らないでください」
「昨日は、事情を聞かずに断られました。今日は最後まで聞いていただきます」
「聞いたら、帰ってくれます?」
「内容に納得し、同行を承諾してくださるなら」
「帰る気ないじゃないですか!」
「私も、手ぶらでは国へ帰れません」
穏やかな口調だった。
しかし、その奥には引くに引けない硬さがあった。
俺はため息をつき、パンをスープへ沈める。
「分かりました。聞くだけです」
「ありがとうございます」
「助けるとは言ってません」
「承知しております」
「見に行くとも言ってません」
「ええ」
「その顔、絶対何とかなると思ってますよね」
「少なくとも、話を聞くところまでは進みました」
「前向きすぎて怖いんですよ」
エレオノーラは姿勢を正した。
マーサが革張りの書類入れを卓上へ置く。
中から何枚もの羊皮紙が出てきた。
「三年前、グランヴェール王国では春から夏にかけて雨がほとんど降りませんでした」
「干ばつですか」
「おそらく、あなたの国ではそう呼ぶのでしょう。小麦と豆の収穫量は、平年の六割ほどまで落ちました」
「六割……」
「国庫から備蓄を放出し、隣国より穀物を買い入れました。その年は、どうにか冬を越しました」
「翌年は?」
「今度は長雨でした」
「最悪だ」
「種を蒔いた直後から雨が続き、畑の多くが水に浸かりました。収穫は、平年の半分にも届きませんでした」
「二年連続で不作」
「はい。そして昨年は、黒穂病が広がりました」
「黒穂病?」
「麦の穂が黒く変色し、実を結ばなくなる病です」
俺は記憶を探る。
日本にも麦の黒穂病はある。
菌によって引き起こされる植物病。
種子消毒や耐病性品種、輪作などが対策になるはずだ。
だが、この世界の黒穂病が同じものかどうかは分からない。
「種は毎年どうしてるんです?」
「収穫した麦の一部を、翌年の種として保存します」
「病気になった畑からも?」
「被害の少なかった穂を選別したと報告を受けています」
「見た目だけで選んだなら、病気が残っている可能性があるな……」
「やはり、何かご存じなのですね」
エレオノーラが身を乗り出す。
「可能性を言っただけです。病気の原因も見てないし、土も麦も違うかもしれない」
「ですが、我が国の農務官からは出なかった意見です」
「俺の言葉を、いきなり正解扱いしないでください」
「では、正しいかどうか確かめに来てください」
「そうやって連れていこうとする!」
王女は涼しい顔でスープを口にする。
直後、眉がわずかに動いた。
「薄いですか?」
「……いいえ」
「薄いんですね」
「国民が食べるものなら、私も食べます」
「味の感想くらい正直に言っても、王女失格にはなりませんよ」
「味が薄いのではありません。素材の味を大切にした、素朴な料理です」
厨房からアニタの声が飛んできた。
「そんな気を遣わなくていいよ! 塩が高いから薄いだけだ!」
食堂に笑いが起こる。
エレオノーラは匙を置き、小声で言った。
「この村の方々は、王族を恐れないのですね」
「王女様が虫を怖がるところを、昨日みんな見ましたから」
「あれはミーナが大きさを誇張したせいです」
「本物は手のひらの半分くらいでした?」
「十分大きいではありませんか!」
「退治できました?」
「マーサが」
「王女様は?」
「寝台の上から、状況を監督しました」
「逃げたんですね」
「指揮を執ったのです!」
また声を上げ、また周囲から笑われる。
王女は俺を睨んだ後、諦めたように息を吐いた。
「どうして、あなたと話していると調子が狂うのでしょう」
「俺も同じです。王女様って、もっと何を言われても微笑んでるものかと思ってました」
「それは人前での話です」
「今も人前ですよ」
エレオノーラが周囲を見る。
村人たちは聞いていないふりをしながら、しっかり聞き耳を立てている。
「……この村では、何を取り繕っても無駄なようですね」
「村が小さいので、今日の昼には王女様がパンを割れなかった話が全員に広がります」
「止めてください」
「俺には無理です」
「国を救えない理由より、村の噂一つ止められない理由の方が説得力がありますね」
「嫌味を覚えました?」
「あなたを相手にするには必要かと」
少しだけ笑い合った。
だが、その後、エレオノーラは再び資料へ目を落とした。
「三年続きの不作で、国の備蓄はほとんど尽きました」
「現在の食糧は?」
「春の収穫まで持たせるには、全人口へ十分な量を配ることはできません」
「何人いるんです」
「王都と各領地を合わせ、およそ十二万人です」
「十二万……」
井戸一つの村とは、本当に規模が違う。
ここには百数十人しかいない。
その千倍近い人間が、食べ物を必要としている。
「周辺国から買うのは?」
「二年続けて買い入れました。すでに国の借財は膨らんでいます。さらに今年は周辺国でも収穫が少なく、穀物価格が上がりました」
「輸送は?」
「街道を馬車で。南の大河も一部使いますが、舟は多くありません」
「保存中に腐る量は?」
「正確には……」
「分からない?」
「領主ごとの管理です。国全体で統一した記録がありません」
「そこからかよ……」
「何か問題が?」
「問題しかないですよ。何がどこにどれだけあるか分からないなら、足りてる地域から足りない地域へ運べないでしょう」
「各領主から報告は受けています」
「報告の形式は同じですか?」
「形式?」
「同じ単位を使ってます? 同じ期間ごとに、同じ種類の作物を分けて記録してるんですか」
エレオノーラは答えない。
マーサが資料を確かめる。
「領ごとに、記載方法が異なります」
「やっぱり」
ホームセンターでも、売り場ごとに在庫管理がばらばらだと大変だった。
一箱単位で数える担当。
一個単位で数える担当。
セット品をばらして売る担当。
在庫数が合わず、閉店後に何時間も調べたことがある。
「まず在庫を同じ形式で数え直す必要があります。今ある食糧の量、春までに必要な量、輸送にかかる日数、途中で駄目になる割合。そこが分からないと、何を増やせばいいかも分からない」
「それが、あなたの国の方法ですか」
「どこの国でも、普通は数えると思います」
「ですが、各領主は自身の領地を管理しています」
「国が滅びそうなときまで領主の都合を優先するんですか?」
「簡単ではありません」
「でしょうね」
「反対されると分かっていながら、なぜ平然とおっしゃるのです」
「俺はその領主と会ったことないからです」
「無責任ですね」
「そうですよ。だから国を救えなんて無理だって言ってるんです」
エレオノーラの顔が曇る。
「俺は、思いついた問題を言ってるだけです。それを解決するには、人を動かさないといけない。領主を説得して、農民にも協力してもらって、商人や職人も集める。そんなの、俺にはできません」
「私が行います」
「え?」
「領主を説得し、国の制度を動かすことは、王女である私の仕事です」
「反対されたら?」
「説得します」
「失敗したら?」
「別の方法を考えます」
「王女様が嫌われますよ」
「すでに好かれるだけの立場ではありません」
その言葉は、冗談ではなかった。
エレオノーラは膝の上で手を握っている。
「私はこれまで、民に我慢を求めてきました。配給を減らし、税の納期を延ばす代わりに、翌年の納付を約束させた。兵士の給与も遅れています。王宮の宝飾品も売りました」
「そこまで」
「それでも足りません」
「隣国との結婚は?」
聞くと、王女の指がわずかに動いた。
「ベルガード公国は、私が公子へ嫁ぐことを条件に、穀物と資金を援助すると申し出ています」
「嫌なんですか」
「私個人の好悪は関係ありません」
「それ、嫌だって言ってる人の言い方ですよ」
「関係ありません」
「二回言った」
「関係ありません!」
強い声だった。
周囲が静かになる。
エレオノーラはすぐに口元を引き締めた。
「……失礼しました」
「公子って、どんな人なんです?」
「有能な方だと伺っています」
「会ったことは?」
「二度」
「印象は?」
「国家間の婚姻相手として、不足はない方です」
「人間としては?」
「なぜ、そこへこだわるのです」
「王女様が結婚するんでしょう」
「王女の婚姻は、国家のものです」
「結婚する本人のものでしょう」
「違います」
今度は静かな声だった。
「王族に、自分だけの人生などありません」
なぜか腹が立った。
何に対してなのか、自分でも分からない。
この人の考え方に。
それを当たり前にした国に。
あるいは、そんな話を聞いても、何もできない自分に。
「だったら、何で俺のところへ来たんです」
「何ですって?」
「結婚すれば援助がもらえる。国が救えるなら、それでいいんでしょう」
言い方が悪い。
分かっている。
エレオノーラの顔がこわばった。
「それだけでは、国は救えません」
「食糧はもらえる」
「今年の冬は越せるでしょう。しかし、来年また不作になれば、次は何を差し出すのです」
「……」
「国土ですか。鉱山ですか。関税ですか。それとも、まだ幼い弟を人質として送りますか」
王女の声が震えた。
「援助を受けることを否定しているのではありません。必要なら、私は嫁ぎます。それで一人でも多くの民が助かるなら」
「でも、それだけじゃ駄目だと」
「国が自分の足で立てるようにしなければ、次の冬に同じ苦しみを繰り返します」
「だから俺の知識が必要?」
「はい」
青い瞳が、まっすぐ俺を見る。
「異世界から来たあなたなら、我々が思いつかなかった道を知っているかもしれない」
「知らないかもしれません」
「それでも、確かめたいのです」
「失敗したら?」
「私が責任を負います」
「簡単に言いますね」
「簡単ではありません!」
エレオノーラは立ち上がった。
椅子が大きな音を立てる。
「私だって怖いのです!」
食堂の全員が息を呑んだ。
王女の声は、もう整っていなかった。
「あなたを連れて帰っても、何も変わらないかもしれない。領主たちに笑われるかもしれない。異世界人などに国政を任せるのかと、父にも反対されるかもしれません」
「……」
「ですが、何もしなければ人が死ぬのです。子供が食べられない。親が、自分の分を子供へ与えて倒れる。農民が種にする麦まで口にしなければならない。それを知っていて、私に何ができますか」
「王女様」
「国を救ってくださいと頼むしかないではありませんか!」
最後の声は、ほとんど悲鳴だった。
マーサが立ち上がる。
「殿下」
「触らないで」
エレオノーラは差し出された手を避けた。
「申し訳ありません。少し、外の空気を吸って参ります」
誰とも目を合わせず、食堂を出ていく。
マーサが追おうとする。
しかし、アニタがその前に立った。
「今は一人にしときな」
「殿下をお一人になど」
「あの子、あんたの前じゃ泣けないんだろう」
「殿下は泣いてなど」
「だったら、なおさら少しくらい一人にしてやりな」
マーサは反論しようとした。
だが、結局その場に立ち止まった。
俺は冷めたスープを見つめる。
「言いすぎた」
「いつものことだね」
アニタが言う。
「慰める気あります?」
「あるように見えるかい」
「まったく」
「だったら、さっさと追いかけな」
「何で俺が」
「あんたが泣かせたんだろ」
「泣いてるとは限らないでしょう」
「なら、確認してきな」
「面倒くさいなあ……」
「聞こえてるよ」
「わざとです」
俺は席を立った。
◇
エレオノーラは、村の外れにある柵のそばにいた。
朝露の残る畑を見つめている。
背筋は伸びていた。
泣いてはいない。
少なくとも、俺が近づいたときには。
「王女様」
「来ないでください」
「分かりました」
立ち止まる。
「本当に止まるのですね」
「来るなって言ったでしょう」
「こういうときは、少し強引に来るものではないのですか」
「注文が多いな!」
「独り言です」
「聞こえる声で言わないでください」
俺は数歩近づき、隣ではなく少し離れた柵へ寄りかかった。
「さっきは、すみません」
「何についてです?」
「結婚すればいいみたいに言ったこと」
「事実です。婚姻を結べば、援助は受けられます」
「そうじゃなくて」
「では何です」
「本人の気持ちを無視して、国のためなんだから当たり前だろって言い方をした」
エレオノーラは畑から目を逸らさない。
「王族には、よくあることです」
「よくあるからって、嫌じゃないわけじゃないでしょう」
「嫌だとは申しておりません」
「じゃあ、公子が好き?」
「そういう問題ではありません」
「嫌い?」
「二度しかお会いしていない方を、好きにも嫌いにもなれません」
「だったら嫌ですよね。よく知らない人と結婚するの」
「……あなたは、しつこいですね」
「よく言われます」
「誰に」
「この村のみんなに」
「でしょうね」
少しだけ、王女の口元が緩んだ。
すぐに戻った。
「俺は、国を救う方法なんか知りません」
「先ほども聞きました」
「農業の専門家でもない。政治なんてもっと分からない。偉い人と話すのも苦手です」
「私には、よく分かりました」
「どういう意味です?」
「王女にも平気で失礼ですから」
「今は真面目な話をしてるんです」
「私も真面目です」
エレオノーラが、ようやく俺を見る。
「あなたは、できない理由ばかり並べますね」
「できるふりをして失敗したくないからです」
「誰に失望されるのが怖いのですか」
「え?」
「私ですか。グランヴェールの民ですか。それとも、あなたを役立たずと捨てたアストレア王国の者たちですか」
胸の奥を刺された。
「……嫌なこと言いますね」
「あなたほどではありません」
「見返したいわけじゃないです」
「本当に?」
「少しはありますよ」
正直に答えた。
「役立たずじゃなかったって、思わせたい気持ちはある。でも、それで十二万人の命を背負うのは違うでしょう」
「一人で背負う必要はありません」
「でも、失敗したら俺のせいにされる」
「私も共に責任を負います」
「王女様が責任を負うって、具体的に何をするんです?」
「……」
「首でも差し出します?」
エレオノーラの目が揺れた。
「そういうの、やめてください」
「何を」
「自分を差し出せば責任を取れるみたいに考えるの」
「私は王族です」
「知ってます」
「国のために命を使うのが、務めです」
「だったら、生きて働いてくださいよ」
「簡単に言わないでください」
「そっちも簡単に死ぬ話をしないでください!」
また声が大きくなった。
畑にいた農夫が、こちらを見る。
俺たちは同時に顔を逸らした。
「……すぐ怒鳴りますね、あなたは」
「王女様もでしょう」
「私は怒鳴っていません」
「食堂で思い切り怒鳴ってました」
「忘れてください」
「無理です。俺の能力、記憶再現なので」
「こういうときだけ便利ですね!」
「俺も今、初めて便利だと思いました」
エレオノーラは怒った顔のまま、少しだけ笑った。
「俺から一つ、質問していいですか」
「何でしょう」
「王女様は、俺に何をしてほしいんです?」
「国を救ってほしいと」
「それがでかすぎるんです。もっと具体的に」
エレオノーラは考える。
「まず、グランヴェールへ来てください」
「その次は?」
「畑と倉庫をご覧いただきたい。農民や職人から話を聞き、我が国にない方法があるなら教えてください」
「全部俺の言う通りにするんですか」
「いいえ」
「え」
「国の事情に合わない提案なら採用できません。現地の者にも意見を聞きます」
「そこは素直に従うって言う場面じゃ」
「あなた自身が、知識だけでは何もできないとおっしゃったのでしょう」
「覚えてたんですね」
「私にも記憶はあります」
エレオノーラは少しだけ胸を張った。
「あなたには知識を出していただく。実現できる形へ変えるのは、我々の仕事です」
「失敗しても?」
「失敗した理由を考えます」
「怒らない?」
「内容によります」
「そこは怒らないと言ってくださいよ」
「無責任な失敗なら怒ります。懸命に試して駄目だったなら、次を考えます」
「結構厳しいなあ」
「国民の命がかかっていますから」
俺は畑を見た。
ラウル村の畑。
ここでも、俺は何も一人ではできなかった。
水を運んだのは村人。
薪を集めたのも村人。
石鹸を形にしたのはアニタたち。
俺は、知っていることを話しただけだ。
「考えさせてください」
俺が言うと、エレオノーラの瞳が明るくなる。
「どのくらいですか」
「時間を決めるんですか?」
「いつまで待てばよいのか分からないのは困ります」
「三日」
「長すぎます」
「国を救う話ですよ!」
「一日」
「短い!」
「では二日」
「値切るものじゃないでしょう!」
「二日で」
「三日です!」
「二日半」
「細かいな!」
結局、二日半という意味の分からない期限になった。
「それまでは、村にいるんですか」
「もちろんです」
「国へ帰らなくて大丈夫?」
「国へは、滞在の可能性を伝えています」
「最初から居座るつもりだったんですね」
「交渉とは、相手が断りにくい状況を作ることだと教わりました」
「怖い教育を受けてるなあ」
「王族ですから」
エレオノーラは、何でもないことのように言った。
俺は思わず横顔を見る。
「何です?」
「いや」
「また見ていましたね」
「見てません」
「見ていました」
「人の顔くらい見ますよ」
「その会話は昨日もしました」
「俺は覚えてます。記憶再現なので」
「本当に腹の立つ能力ですね」
王女は村へ戻っていく。
その背中は、昨日より少しだけ軽く見えた。
俺は柵にもたれたまま、大きく息を吐いた。
「国を救う、か」
無理だ。
そう思う。
今も思っている。
なのに、完全に断る言葉が出てこなかった。
問題は、これから二日半、王女が黙って待っているような人間には到底見えないことだった。




