第10話 王女様、三日経っても帰らない
決断まで二日半。
そう約束したはずだった。
俺はてっきり、その間くらいは静かに考えさせてもらえるものだと思っていた。
甘かった。
「孝太郎、これは何ですか」
「今、数えてるので話しかけないでください」
「先ほどから、木片を並べたり崩したりしているだけに見えます」
「七十六、七十七……ああ、もう!」
分からなくなった。
俺は食堂の卓上に並べた小さな木片を、両手でまとめる。
「王女様のせいで最初からですよ」
「私のせいですか?」
「数えてる途中で話しかけたでしょう!」
「ですが、何をなさっているのか説明がありませんでした」
「今ある食糧と、必要な食糧を簡単に考えてたんです!」
「それなら、私もお手伝いします」
「だから一人で考えたいんですよ!」
向かいに座っていたエレオノーラが、わずかに唇を尖らせた。
王女がそんな顔をしていいのか。
この三日で何度か見たので、もう驚かなくなっていた。
「私は邪魔でしょうか」
「かなり」
「即答なさるのですね」
「だって邪魔してますから」
「では、黙って見ています」
「見られてると集中できません」
「目を閉じます」
「そこまでして居座らないでください!」
エレオノーラは本当に目を閉じた。
姿勢を正し、両手を膝の上に置いている。
美人だった。
黙っていれば、絵画に描かれた王女そのものだ。
黙っていれば。
「……まだですか」
「三秒しか経ってません!」
「目を閉じていると、長く感じるのです」
「子供ですか!」
「十七歳です」
「子供に近いでしょう!」
「十九歳の方に言われたくありません!」
やっぱり黙っていられないらしい。
約束をしてから二日半。
エレオノーラは、俺の後ろをほとんど離れなかった。
畑を見に行けばついてくる。
石鹸作りを手伝えば横で質問する。
バルトと柄杓の改良について話していれば、いつの間にか会話へ加わっている。
夜、部屋へ戻ろうとしたときは、さすがにマーサに引きずられていった。
本人は、
「決断を急かしているわけではありません」
と言う。
嘘だった。
全身から急かしていた。
「王女様」
「何でしょう」
「国の仕事は大丈夫なんですか」
「滞在中の政務は、王都の宰相と弟に任せています」
「弟さん、何歳?」
「十二歳です」
「十二歳に仕事を押しつけてきたの?」
「押しつけてはいません。王族としての勉強です」
「言い方を変えただけでしょう」
「王都にいる私の方が役に立たない場合もあります」
さらりと言ったが、その目が少し曇った。
「そんなことないでしょう。王女様がいれば、いろいろ決められるんじゃ」
「決めるための金も、食糧もありません」
「……」
「私が王宮にいても、各地から届く報告書を読み、足りないものが足りないと確認するだけです」
「嫌な仕事だな」
「ええ」
エレオノーラは自嘲するように笑った。
「ですから、ここへ参りました。国に何も持ち帰れないより、弟に政務を任せてでも、あなたを連れて帰る方が意味があります」
「まだ行くとは言ってません」
「承知しております」
「その顔は承知してないですよね」
「どのような顔ですか」
「逃がさないぞって顔」
「そのような下品な顔はしておりません」
「上品に逃がさない顔です」
「それならば否定しません」
「認めた!」
俺が声を上げると、厨房からアニタが顔を出した。
「朝から仲がいいねえ」
「よくないです!」
俺たちの声が重なった。
エレオノーラがこちらを見る。
「意見が合いましたね」
「そこは喜ぶところじゃないでしょう」
「お二人とも、朝食は?」
「いただきます」
王女は素直に返事をする。
この三日で、固い黒パンにも慣れたらしい。
最初はスープへ浸しすぎて、匙ですくえないほど崩していた。
二日目は浸す時間が短く、噛んだ瞬間に顔をしかめた。
今朝は適度に浸し、平然と口に運んでいる。
順応が早い。
「王女様、すっかり村の飯に慣れましたね」
「これくらい当然です」
「初日は建築資材って言ってたのに」
「その話は忘れてください」
「俺の能力、記憶再現なので」
「本当に腹立たしい能力です!」
◇
昼過ぎ。
俺は村の畑を歩いていた。
エレオノーラも、当然のようについてきている。
さらにマーサと騎士が二人。
護衛を連れて畑を歩く王女は、ずいぶん目立った。
「これが小麦ですか」
俺が尋ねると、畑の持ち主である農夫のハインツが眉をひそめた。
「見りゃ分かるだろ」
「俺の国のものと似てますけど、同じとは限らないので」
「異世界には麦もないのか」
「あります。だから確認してるんです」
穂はまだ若い。
俺の知っている小麦と、見た目はほぼ同じだった。
ただし、茎が少し太く、葉の縁に赤みがある。
「毎年、同じ畑で小麦を?」
「ここはな」
「ほかの作物を植えることは?」
「豆を植える畑は別にある」
「交互に植えたことはない?」
「何でそんな無駄なことをする」
ハインツの声が険しくなる。
「無駄と決めつけてるわけじゃなくて――」
「お前が井戸を直したことは感謝してる」
「はい」
「石鹸も悪くねえ。女房が洗濯に使ってる」
「ありがとうございます」
「だが、畑に口を出すのは別だ」
はっきり言われた。
「俺は親父から教わった。親父はその親からだ。この土で何をどう育てるか、余所者よりは知ってる」
「そうですよね」
俺が頷くと、ハインツは拍子抜けした顔になった。
「反論しねえのか」
「俺、農業の専門家じゃないですから」
「では、なぜ聞く」
「知らないからです」
「……」
「俺の国では、同じ作物を続けて植えると、土の中の同じ栄養ばかり減ったり、病気が増えたりすることがある。だから違う作物を順番に植える方法があります」
「ここでも同じだと?」
「分かりません」
「分からんのか!」
「だから聞いてるんでしょう!」
結局、声が大きくなった。
後ろでエレオノーラが小さくため息をつく。
「孝太郎。もう少し穏やかに」
「王女様は黙っててください」
「私も交渉に参加します」
「参加すると余計こじれるんです!」
「なぜですか」
「王女様に聞かれたら、ハインツさんが断りにくいでしょう!」
ハインツが何とも言えない顔をした。
「いや、王女様に命じられたら従うぞ」
「ほら!」
「従っていただけるのですね」
エレオノーラの目が輝く。
「駄目です!」
「なぜ、あなたが止めるのですか」
「失敗したら、この人たちが冬に食べるものが減るんですよ! 王女命令で試させたら、本音も失敗の原因も言えなくなるでしょう!」
エレオノーラが黙る。
ハインツは俺と王女を見比べた。
「変な男だな、お前」
「このひと月で何度も言われました」
「王女様を連れてきたくせに、王女様の口を塞ぐのか」
「連れてきてません。勝手についてきたんです」
「その言い方は失礼です!」
「事実でしょう!」
「私は国を救うために――」
「お二人とも、畑で夫婦喧嘩するのはやめてくれ」
ハインツがうんざりした声で言った。
「夫婦じゃありません!」
また声が重なる。
騎士の一人が咳払いをして、笑いを隠した。
「とにかく」
俺は小麦の穂を見る。
「いきなり畑全部を変えろとは言いません。狭い場所だけ借りて、小麦の後に別の作物を植えたり、肥料を変えたりして比べてみたい」
「結果が出るまで何年かかる」
「……そうなんですよね」
一年。
二年。
輪作の効果をきちんと確かめるなら、それ以上。
グランヴェールには、そんな時間がない。
「今困ってる食糧不足を、農業改革だけで間に合わせるのは無理かもしれない」
俺が呟くと、エレオノーラの表情が曇る。
「では、ほかの方法を」
「保存中の損失を減らす。今ある食糧を数える。食べられるけど利用してないものを探す。輸送を早くする。春までの短期策と、来年以降の長期策を分けないと」
「それを、我が国で調べてください」
「まだ答えは――」
「期限は明日の朝です」
「分かってますよ!」
ハインツが俺の肩を叩いた。
「行ってくりゃいいじゃねえか」
「簡単に言いますね」
「王女様が迎えに来るなんて、一生に一度あるかどうかだ」
「一度もない方が普通ですよ」
「ここで柄杓の色を考えてるより、ましだろ」
「それを言われると……」
少しだけ、言い返せなかった。
◇
三日目の夕方。
王女はまだいた。
村の女たちと一緒に、宿の裏庭で石鹸を混ぜていた。
「殿下!」
マーサの悲鳴が響く。
「そのような作業は、私どもが!」
「見ているだけでは分かりません」
エレオノーラは袖を肘までまくり、長い木べらを握っている。
白い腕に、茶色い液体が一滴ついていた。
「灰汁が入ってるので、肌につけないでください!」
俺が慌てて近づく。
「これくらいは」
「これくらいで火傷することがあるんです!」
エレオノーラの手首を掴み、水桶のところまで引っ張る。
「洗って!」
「自分でできます」
「早く!」
「命令しないでください!」
「火傷するよりましでしょう!」
水をかける。
皮膚に異常はない。
俺は安堵して、ようやく王女の手を掴んだままだと気づいた。
細い。
柔らかい。
そして近い。
エレオノーラも気づいたらしい。
青い瞳が俺を見上げる。
「いつまで握っているのですか」
「すみません!」
慌てて離す。
周囲のおばちゃんたちが、にやにやしていた。
「何ですか」
「別に」
「見世物じゃないですよ!」
「誰も何も言ってないだろう」
「顔が言ってます!」
エレオノーラは濡れた手を布で拭きながら、呆れたように息を吐く。
「あなたは、女性の手を握っただけで、そこまで慌てるのですか」
「慣れてないので」
「正直ですね」
「悪いですか」
「いいえ」
王女がほんの少し笑った。
「それで」
「何です?」
「お答えは決まりましたか」
やっぱり、それか。
「期限、明日の朝でしょう」
「早く決まったなら、早く伺いたいと思いまして」
「まだです」
「そうですか」
エレオノーラは再び木べらへ手を伸ばす。
俺が先に取り上げた。
「もう触らないでください」
「では、何をすれば?」
「王女様は部屋で休んでてください」
「嫌です」
「子供ですか!」
「待っているだけでは落ち着かないのです」
「だったら夕飯の豆でも選り分けてください」
「豆?」
「虫食いや傷んだものを除けるんです。地味ですけど、大事な仕事です」
「分かりました」
王女は本当に厨房へ行った。
マーサが俺へ近づく。
「殿下に豆の選別をさせる方を、私は初めて拝見しました」
「俺も王女様に頼んだのは初めてです」
「当然です!」
「でも、何もしないよりいいでしょう」
マーサは反論しかけ、厨房を見る。
エレオノーラはアニタの説明を聞きながら、真剣に豆を分けていた。
「……殿下は、幼い頃から何かしていなければ落ち着かない方です」
「やっぱり」
「母君が亡くなられてからは、特に」
俺はマーサを見る。
「いつ?」
「五年前です」
「弟さんが七歳の頃か」
「王妃殿下が亡くなられてから、国王陛下は政務へ没頭なさいました。殿下は弟君の母親代わりとなり、同時に王妃が担っていた仕事の一部も引き継がれました」
「十二歳で?」
「王族ですから」
また、その言葉だ。
王族だから。
仕方がない。
当然だ。
「便利な言葉ですね」
俺が言うと、マーサの目が険しくなる。
「何ですって」
「王族だからって言えば、子供に何をやらせても仕方ないことになる」
「殿下を侮辱するおつもりですか」
「逆です」
厨房にいる少女を見る。
豆を一粒ずつ確認している。
おばちゃんに何か言われ、少し困った顔をしている。
十七歳。
日本なら高校生だ。
「この人、いつ休むんですか」
マーサは答えなかった。
「寝ている間も、国のことを考えてるでしょう」
「……殿下は、責任感のお強い方です」
「そういう言い方で誤魔化してません?」
「あなたに何が分かるのです!」
声が大きくなった。
エレオノーラが厨房からこちらを見る。
マーサはすぐに頭を下げた。
「申し訳ございません」
「何を話していたのです」
「俺が失礼なことを言いました」
先に答えた。
「いつものことですね」
「そこは否定してくださいよ」
エレオノーラは小さく笑い、豆の選別へ戻った。
マーサが低い声で言う。
「殿下を傷つけるのであれば、我が国へ来ていただく必要はありません」
「分かってます」
「分かっておられない」
「俺は、国を救えるか分からない。それでも連れていこうとしてるのは、あなたたちでしょう」
「それは……」
「だから迷ってるんです」
期待されるのは怖い。
失敗するのはもっと怖い。
しかし、あの王女が一人で全部背負っているのを見て、何もしないのも後味が悪かった。
本当に面倒だ。
俺も。
あの人も。
人間というのは、どうして自分に関係のない誰かの事情まで、知ってしまうと放っておけなくなるのだろう。
◇
その夜。
俺はなかなか眠れなかった。
狭い部屋。
藁のベッド。
窓の隙間から入る冷たい風。
天井を見上げながら考える。
行く。
行かない。
行ったところで、何もできないかもしれない。
行かなければ、グランヴェールの人間が飢えるかもしれない。
そんなのは俺の責任ではない。
俺だって異世界へ勝手に呼び出された被害者だ。
自分が生きるだけで精いっぱいだ。
「……くそ」
寝返りを打つ。
王女が食堂で叫んだ顔が浮かぶ。
何もしなければ人が死ぬ。
あれは、ラウル村での俺と同じだった。
自信はない。
責任も取れない。
それでも、何もしないまま誰かが死ぬのは嫌だった。
窓の外から、人の声が聞こえた。
こんな夜中に誰だ。
俺は上着を羽織り、部屋を出た。
宿の裏手。
井戸の近くに、エレオノーラが一人で立っていた。
月明かりの下で、肩が小さく震えている。
「王女様?」
呼びかける。
エレオノーラは慌てて振り返った。
「何をしているのです」
「それはこっちの台詞です」
「少し、風に当たっていただけです」
「泣いてた?」
「泣いていません」
「目、赤いですよ」
「寝不足です」
「昨日、九時間寝てましたよね」
「なぜ数えているのですか!」
声はいつも通りだった。
だが、頬には拭いきれなかった涙の跡が残っている。
俺はそれ以上、泣いていたとは言わなかった。
「明日の朝、答えるって約束でしたけど」
エレオノーラの身体が強張る。
「はい」
「見に行くだけです」
「……え?」
「グランヴェール。現状を見る。畑と倉庫を確認して、人の話を聞く」
王女の青い瞳が大きく見開かれる。
「それは」
「救うとは言ってません」
「ですが」
「期待もしないでください。俺が何も思いつかない可能性だってある。思いついても、失敗するかもしれない」
「はい」
「途中で無理だと思ったら帰ります」
「はい」
「あと、俺を神様みたいに扱わないでください」
「扱っておりません」
「期待する目が重いんですよ」
「それは……努力します」
「できるんですか」
「難しいかもしれません」
「正直だな」
エレオノーラの目に、また涙が浮かんだ。
「だから泣かないでください」
「泣いていません」
「増えてますよ」
「寝不足です」
「今起きてるから、これから寝不足になるんでしょう!」
王女は泣きながら、少し笑った。
「ありがとうございます」
「まだ早いです」
「それでも」
「礼を言われると、逃げにくくなるのでやめてください」
「逃がすつもりはありません」
「本音が出た!」
俺は頭を掻く。
「出発は?」
「明朝でも」
「急すぎます!」
「一刻も早く」
「準備があります。俺、着替えすら持ってないんですよ」
「こちらでご用意します」
「サイズも知らないでしょう」
「マーサが、昨日のうちに確認しております」
「いつ!?」
「あなたが眠っている間に」
「怖いよ!」
「測ったのは寝台へ置かれていた上着です」
「先回りしすぎでしょう!」
エレオノーラは、涙を拭って笑った。
初めて見る、王女ではなく十七歳の少女らしい笑顔だった。
「二日半、待ちましたから」
「長い人生みたいに言わないでください」
「私には長く感じました」
「俺には短すぎましたよ」
こうして俺は、滅亡寸前の小国グランヴェールへ向かうことになった。
国を救うためではない。
ただ、見るだけ。
それだけのはずだった。
だが翌朝、出発する俺を待っていたのは、王女の馬車だけではなかった。
「コータロー!」
村の入口には、ラウル村の人々が集まっていた。
バルトが新しい柄杓を押しつける。
「持っていけ」
「国を救うのに柄杓を?」
「色分けしてある。飲み水用が白、洗い物用が茶だ」
「完成したんですね」
「お前が戻るまでに、もっと使いやすくしてやる」
アニタは石鹸を包んだ布袋を渡した。
「向こうでも手を洗わせな」
「こんなに?」
「王女様の国は大勢いるんだろう」
「全然足りませんよ」
「作り方を教えればいい」
マルタは記録板を差し出した。
「病人の数を書いたものです」
「これを?」
「あなたが何をしたか説明するなら、数字があった方がいいのでしょう」
「ありがとうございます」
「戻ってきたら、続きをつけます」
「俺が戻る前提なんですね」
「宿代がまだ残っていますから」
「払ってますよ!」
ミーナが俺の服の裾を掴む。
「帰ってくる?」
「たぶん」
「たぶんは禁止」
「……帰ってくるよ」
「絶対?」
「そこまで言われると困るな」
ミーナの目が潤む。
俺はしゃがみ、その頭を撫でた。
「帰ってくる。約束する」
「うん」
立ち上がると、エレオノーラがこちらを見ていた。
「何です?」
「いいえ」
「また人の顔を見てましたね」
「見ていません」
「目が合いました」
「人の顔くらい見るでしょう」
どこかで聞いた会話を繰り返し、俺たちは馬車へ乗り込んだ。
ラウル村が、少しずつ遠ざかる。
俺は窓から手を振る人々を見つめた。
帰る場所くらい、自分で決める。
そんなことを言えるほど、まだこの世界に馴染んではいない。
それでも。
戻ると約束できる場所ができたことは、少しだけうれしかった。




