第7話 人が死ななくなった。それだけのことで、俺は泣きそうになった
新しく病に倒れる者が、少しずつ減り始めた。
一日目は三人。
二日目は一人。
三日目には、とうとう一人も出なかった。
「……本当に、ゼロですか?」
俺は記録板を持つ女性に、もう一度尋ねた。
彼女――村の粉挽き職人の娘であるマルタは、露骨に嫌そうな顔をした。
「朝から三回目です」
「だって、見落としがあるかもしれないでしょう」
「ありません」
「まだ自分から言ってきてない人とか」
「家を全部回りました」
「お腹が痛いけど我慢してる子供は?」
「母親たちにも聞きました」
「昨日から熱が――」
「ああ、もう!」
マルタが記録板を俺の胸へ押しつけた。
「ゼロです! 昨日の朝から、吐いた人も、お腹を下した人も、熱を出した人も、新しくは一人もいません!」
「怒鳴らなくても」
「誰のせいですか!」
「俺です。すみません」
素直に謝ると、マルタは調子を崩したように口を閉じた。
板に刻まれた印を見る。
最初の頃は、日に九人。
七人。
三人。
一人。
そして、ゼロ。
たった一つの数字だった。
それでも、俺は何度も確かめずにはいられなかった。
「よかった……」
口から出た声は、思ったよりかすれていた。
マルタが俺の顔を覗き込む。
「泣いています?」
「泣いてない」
「目が赤いです」
「昨日、石鹸作りで煙を浴びたから」
「昨日は石鹸を作っていません」
「じゃあ寝不足」
「昨夜、子供たちより先に寝ていましたよね」
「人の睡眠時間を把握しないでください!」
俺が記録板で顔を隠すと、マルタが笑った。
この村へ来たばかりの頃、彼女は俺と目を合わせようともしなかった。
井戸を疑った余所者。
村の習慣を馬鹿にした男。
そう思われていたのだろう。
いや、実際に俺の言い方はかなり悪かった。
笑って話せるようになるまで、何度も喧嘩した。
マルタは俺が決めた記録方法に文句を言った。
俺は字が書けないくせに細かい注文をつけた。
症状の違いを別々に数えてくれと言えば、
「病人を数字みたいに扱わないで」
と怒られた。
俺も、
「数字にしないと、何が効いたか分からないんです」
と言い返した。
二日ほど、必要なこと以外は口も利いてもらえなかった。
それでもマルタは記録をやめなかった。
「マルタさんのおかげです」
「何がです?」
「記録。俺だったら途中で面倒になって、たぶん投げてました」
「自分で頼んだ仕事でしょう」
「頼むのと、自分でやるのは違います」
「堂々と言うことじゃありません」
「でも本当に助かりました。ありがとうございます」
マルタは少し困ったように視線を逸らす。
「……別に、あなたのためじゃありません」
「村のみんなのため?」
「そうです」
「俺も含まれてます?」
「含まれていません」
「即答だ」
「だってあなた、村人ではないでしょう」
その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。
顔に出たのかもしれない。
マルタは慌てて続ける。
「そういう意味ではなくて。まだ村に来たばかりというか、いつ出ていくか分からない人というか」
「分かってます」
「本当に?」
「ちょっとだけ傷つきましたけど」
「面倒くさいですね!」
「正直に言っただけでしょう!」
また言い合いになり、最後には二人とも笑った。
不思議だった。
一週間ほど前まで、名前すら知らなかった人間だ。
それなのに今では、こうして遠慮なく文句を言い合っている。
この世界で初めて、俺は少しだけ居場所のようなものを感じ始めていた。
◇
「だから、まだ終わってません」
村の広場に集まった人々へ、俺は何度目か分からない注意をしていた。
「新しい病人が出ていないのは、今のところ三日だけです。水を沸かすのをやめたり、井戸の横へ豚を戻したりしないでください」
「三日も出てないなら、もう治まったんじゃないか?」
腕の太い農夫が言う。
「その油断が一番危ないんです」
「毎日水を煮るのは面倒なんだよ」
「病気になる方が面倒でしょう!」
「薪だってタダじゃない」
「分かってます。だから一度に大鍋で沸かして、各家へ分けてるんじゃないですか」
「水が煙臭い」
「鍋に蓋をしてください!」
「蓋がない」
「木工職人に頼んでください!」
「仕事が増えすぎだ!」
木工職人の男が遠くから怒鳴った。
「桶を作れ、蓋を作れ、台を作れ! 俺は三人しかいないんだぞ!」
「一人じゃないんですか?」
「息子二人も職人として数えてる!」
「一番下の子、十歳ですよね?」
「十歳なら働ける!」
「児童労働!」
「何だ、それは!」
「俺の国では怒られるやつです!」
広場に笑いが起こる。
最初の頃なら、誰も笑わなかった。
みんな余所者の俺を警戒し、俺も馬鹿にされないよう肩に力を入れていた。
今では、村人が遠慮なく文句を言い、俺も遠慮なく言い返す。
話が通じるようになったのではない。
通じなくても、話し続けられるようになったのだ。
「それと、手洗い用の石鹸ですけど」
「石鹸じゃなくて石鹸もどきだろう」
ロルフが口を挟んだ。
「うるさいな。もう石鹸でいいでしょう」
「あんな臭い物を、王都の貴族が使う香り石と同じ名前で呼ぶのは詐欺じゃねえか?」
「俺は売ってません!」
その横で、エドガーが静かに目を逸らした。
「エドガーさん?」
「何でしょう」
「売るつもりですね?」
「まだ市場調査の段階です」
「勝手に商品化しないでください!」
「もちろん、コータロー殿には正当な利益を」
「そこじゃないです。安全性をもっと確認してから――」
「洗濯に使った布はきれいになりました」
アニタが言う。
「鍋の油汚れも落ちたよ」
赤毛のおばちゃんも続く。
「ただ臭いね」
「それは認めます」
「花を入れたらどうだい」
「香りを入れる前に、刺激が強すぎないよう調整したいです」
「顔を洗えないのかい?」
「まだやめてください」
「髪は?」
「もっとやめてください!」
「身体は?」
「手から試しましょう!」
おばちゃんたちが一斉に不満そうな声を出す。
「若い男のくせに慎重だねえ」
「若いから慎重なんです! 誰かの顔が腫れたら俺の責任になるでしょう!」
「嫁をもらったら尻に敷かれるよ」
「何で石鹸の話から結婚になるんですか!」
「嫁はいないんだろう?」
「いません!」
「恋人も?」
「いません!」
「本当に?」
「何で疑うんです!」
あちこちから笑い声が上がる。
もう慣れた。
慣れたくはなかったが。
それでも、病人が増え続けていた頃には、こんな会話をする余裕すらなかった。
広場に笑い声がある。
子供たちが走っている。
ミーナも、その中にいる。
まだ少し痩せているが、顔色は戻っていた。
「走りすぎるなよ!」
俺が声をかけると、ミーナが振り返った。
「お兄ちゃんじゃないから、言うこと聞かない!」
「変な服のお兄ちゃんって呼んでただろ!」
「コータローはコータロー」
「急に呼び捨てにするな!」
「十九歳だから、子供と同じ!」
「違うよ!」
俺が追いかける真似をすると、ミーナは笑って逃げていった。
その背中を見て、胸が少し温かくなる。
だが、同時に別の顔も思い出した。
俺が村へ来る三日前に亡くなった老人。
名前はオスカー。
俺は一度も会っていない。
知識を使う前に亡くなった人だ。
もし俺が三日早く来ていたら。
助けられたのだろうか。
「コータロー」
ベルン村長の声で振り返る。
「少し来い」
「何です?」
「いいから来い」
「怒ってます?」
「いつも怒っているように見えるのか」
「かなり」
「失礼な男だ」
「村のみんなも同じこと言ってますよ」
「誰が言った」
「俺の立場が悪くなるので秘密です」
村長は鼻を鳴らし、広場を離れた。
俺は少し迷った後、その背を追った。
◇
連れていかれたのは、村の外れにある小さな墓地だった。
木の板や粗い石を立てただけの墓が並んでいる。
ベルンは、その中の新しい墓の前で立ち止まった。
「オスカーだ」
「……亡くなった人」
「ああ」
墓の前には、乾きかけた野花が供えられていた。
「儂より三つ若かった」
「仲がよかったんですか」
「悪かった」
「悪かったんですか」
「四十年前、酒の席で殴り合ってから、顔を合わせるたびに言い争っていた」
「ずいぶん長い喧嘩ですね」
「どちらも謝らなかった」
「それは……」
「馬鹿だと言いたいか」
「まあ、少し」
ベルンは怒るかと思った。
だが、静かに頷いた。
「馬鹿だった」
風が墓地を抜ける。
畑の土と草の匂いがした。
「病が始まった頃、オスカーは井戸が怪しいと言った」
「え?」
「家畜小屋を移せとな。あの男は若い頃、隣国の町で働いたことがある。そこで似た病を見たらしい」
「じゃあ、どうして」
「儂が認めなかった」
ベルンの声は、かすれていた。
「村の井戸を疑えば、人心が乱れると思った。水場を変えるにも、労力がかかる。あいつは昔から、気に入らぬことがあれば大げさに騒ぐ男だった」
「……」
「儂は、また始まったと思った。あいつも意地を張った。それきり、話をしなかった」
「それで、オスカーさんが病気に?」
「ああ」
何と声をかければいいか分からなかった。
大丈夫です。
村長のせいではありません。
そんな言葉は軽すぎる。
実際、村長の判断が遅れたことは事実だ。
俺だって、井戸を使い続けていればまた誰かが倒れると考えた。
「俺が、もう少し早く来ていれば」
「お前が言うことではない」
「でも」
「来ても、儂は聞かなかっただろう」
きっぱりと言われる。
「お前は初日から喧嘩腰だった」
「そこはすみません」
「三日前に来ていたなら、今よりもっと信用されていない。儂はお前を村から追い出したかもしれん」
「ありそうですね」
「否定しろ」
「実際、好きにしろって帰りましたから」
「面倒な男だ」
「村長にだけは言われたくないです」
ベルンの口元がわずかに緩む。
だが、すぐに墓へ視線を戻した。
「人が死ななくなった」
「はい」
「お前が来てから、新しく倒れた者はいた。だが、死んだ者はいない」
「俺だけの力じゃありません」
「分かっておる」
「そこは少しくらい褒めてもらえません?」
「お前一人の力ではないと言ったのはお前だろう」
「そうですけど、言い方があるでしょう」
「村の者が水を運び、薪を集め、病人を看た。アニタたちが石鹸を作った。マルタが記録を取った。お前は余計な口を出しただけだ」
「余計はひどいな!」
「だが」
ベルンは俺を見る。
「その余計な口がなければ、何も始まらなかった」
不意打ちだった。
胸の奥に、何かが詰まる。
「……急にまともなこと言うの、やめてください」
「何だと」
「泣きそうになるので」
「泣けばいい」
「村長の前では嫌です」
「なぜだ」
「一生馬鹿にするでしょう」
「当然だ」
「ほら!」
俺は顔を逸らした。
目の奥が熱い。
人が死ななくなった。
それだけだ。
病気を完全に消したわけではない。
奇跡を起こしたわけでもない。
水を沸かした。
塩と砂糖を混ぜた。
石鹸もどきを作った。
井戸の周りを片づけた。
俺が日本で当たり前だと思っていたことを、みんなで試した。
ただ、それだけ。
それだけで、誰かの子供が死なずに済んだ。
誰かの親が、朝になっても息をしていた。
「もっと早ければよかった」
俺は墓を見ながら言った。
「そんなこと言っても意味ないって、分かってます。でも、思います」
「儂もだ」
「村長でも後悔するんですね」
「儂を何だと思っている」
「頑固で怒りっぽい爺さん」
「半分は合っている」
「残り半分は?」
「お前より長く生きた、頑固で怒りっぽい爺さんだ」
「全部同じじゃないですか」
ベルンは鼻を鳴らした。
「後悔しない人間などおらん。違うのは、その後どうするかだ」
「格好いいこと言いますね」
「若い頃、オスカーに言われた言葉だ」
「仲悪かったんじゃないんですか」
「仲が悪いから、相手の嫌な言葉ほど覚えている」
「人間って面倒くさいなあ」
「お前が言うな」
二人で墓に頭を下げた。
オスカーという男に会うことはできなかった。
それでも、彼が最初に井戸を疑ったことを忘れないでおこうと思った。
俺の知識だけが村を救ったわけではない。
この世界にも、見て、考えて、気づく人間はいた。
ただ、話を聞いてもらえなかった。
話す側も意地を張った。
聞く側も意地を張った。
それで一人が死んだ。
人間の面倒くささは、時々、命より重い。
◇
その日の夕食は、いつもより豪華だった。
大鍋には羊肉と根菜の煮込み。
焼いた鶏。
白いパン。
干した果物まである。
「何ですか、これ」
食堂へ入った俺は、思わず立ち止まった。
アニタが腕を組んでいる。
「村の連中が少しずつ持ってきたんだよ」
「何で?」
「病が治まり始めた祝いだ」
「まだ完全には――」
「今日くらい黙って食べな」
ベルンがすでに席へ座っていた。
「村長もいるんですか」
「儂の村だ」
「いや、宿屋だからアニタさんの店でしょう」
「細かいねえ」
「事実を言っただけです」
「コータロー!」
ミーナが椅子の上で手を振る。
隣には、南の家で倒れていた兄妹もいた。
二人ともまだ痩せている。
だが、自分の手でパンを持ち、笑っている。
「お肉だよ!」
「見れば分かる」
「コータロー、お肉食べたかったんでしょ?」
「誰から聞いた?」
「みんな知ってるよ」
村人たちが笑う。
「俺、そんなに肉の話しました?」
「毎日言ってた」
ロルフが答える。
「昨日も、石鹸を混ぜながら肉が食いたいって」
「腕が疲れてたから、力の出るものを考えてたんです」
「その前の日も言ってたね」
アニタが続ける。
「病人の粥を作りながら、治ったら肉を食わせたいって」
「それはミーナたちの話でしょう」
「自分も食う顔だったよ」
「顔で判断するのやめてもらえます?」
エドガーが杯を掲げた。
「では、ラウル村の快復と、コータロー殿の食欲に」
「俺の食欲を祝うな!」
「乾杯!」
誰も俺の抗議を聞かなかった。
木の杯がぶつかり合う。
俺も、いつの間にか杯を持たされていた。
中身は薄い果実酒だった。
「俺、まだ十九なんですけど」
「この国では十五で成人だ」
ロルフが言う。
「文化の違いを便利に使わないでください」
「嫌なら水にするかい?」
アニタが尋ねる。
「沸かしてあります?」
「あんたが毎日うるさいからね」
「じゃあ水で」
「本当に真面目だねえ」
「日本だと怒られるんです!」
「ニホンには、お前を怒る奴が多いな」
ベルンが呆れたように言う。
「主任、店長、母親、警察……いろいろいます」
「帰りたいか」
不意に聞かれた。
食堂の空気が少し静かになる。
「……帰れるなら」
正直に答えた。
「家族もいるし、仕事もあります。こっちに来たいって頼んだわけじゃない」
誰も何も言わない。
ミーナが心配そうに俺を見る。
俺は慌てて続ける。
「でも、今すぐ帰れないのは分かってます。だから、それまでは飯を食って、生きていくしかないです」
「ここにいてもいいんだよ」
アニタが言った。
「宿代は?」
「取る」
「そこは無料じゃないんですね」
「商売だからね」
「いい話になるところだったのに!」
笑いが戻る。
俺も笑った。
その方が楽だった。
「ほら、肉を食べな」
アニタが羊肉を皿へ山盛りにした。
「多くないですか?」
「毎日うるさかった分だよ」
「俺、こんなに食えません」
「十九の男が何言ってるんだい」
「十九って言っても、胃袋は一つです!」
「残したら明日の朝も出すよ」
「食べます!」
肉を口へ運ぶ。
柔らかい。
香草の匂いが、羊肉の臭みを抑えている。
塩気は少し強い。
それでも、これまで異世界で食べた中では一番うまかった。
「……うまい」
声が震えた。
アニタが俺の顔を覗き込む。
「泣いてるのかい?」
「泣いてません」
「目が赤いよ」
「煙です」
「ここ、煙なんか出てないけど」
「料理の湯気です!」
「湯気は目に入らないだろう」
「うるさいな!」
笑われた。
村中の人間に笑われた。
悔しい。
恥ずかしい。
でも、不思議と嫌ではなかった。
俺は俯いたまま、肉をもう一口食べた。
日本の味とは違う。
コンビニの唐揚げにも遠く及ばない。
それでも、その肉には、村の人たちが持ち寄った感謝と、助かった安堵と、もう死なせたくないという思いが詰まっている気がした。
やっぱり少しだけ、涙が出た。
◇
宴が終わった後。
食堂の隅で、エドガーが帳面を広げていた。
「まだ仕事してるんですか」
「商人に休日はありません」
「さっき結構飲んでましたよね」
「酒と計算は別腹です」
「意味が分からない」
俺が隣へ座ると、エドガーは帳面を閉じた。
「コータロー殿」
「何です?」
「明後日、私はベルクの町へ向かいます」
「そうでしたね」
「当初の予定より、ずいぶん遅れました」
「すみません」
「いえ。この村で石鹸や衛生法を見られたのは、大きな利益です」
「やっぱり商売の話になるんだ」
「当然です」
エドガーは悪びれない。
「ただ、一つ忠告を」
「忠告?」
「あなたの噂は、もうこの村だけには収まりません」
「どういう意味ですか」
「旅人も来ました。周辺の村から、病人の親族も集まった。彼らは帰れば話すでしょう」
「変な服の余所者が、井戸を掃除したって?」
「魔法を使わず、病を止めた異世界人がいる、と」
「大げさですよ」
「噂とは、元の話より小さくなることは滅多にありません」
「嫌だなあ」
「王都へ届く可能性もあります」
手にしていた杯を置いた。
王都。
俺を金貨三枚で捨てた国。
「別に、届いてもいいです。戻る気はないので」
「王都だけではありません」
エドガーは窓の外を見る。
「病、飢饉、貧困に苦しむ土地は、この村だけではない。あなたの知識を欲しがる者も現れるでしょう」
「欲しがられても、俺は何でもできるわけじゃないですよ」
「承知しております」
「エドガーさんは分かってても、噂を聞いた人は分からないでしょう」
「だからこそ、気をつけてください」
珍しく、商人の笑みが消えていた。
「知識は商品になります。しかし商品になるものは、奪おうとする者も現れます」
「脅してます?」
「心配しているのです」
「本当に?」
「半分は」
「残り半分は?」
「あなたの知識を、ほかの商人に先に取られたくない」
「正直すぎるでしょう!」
エドガーがいつもの笑顔に戻る。
俺も苦笑した。
だが、胸の奥には小さな不安が残った。
病を止めた。
その噂が広がる。
誰かが俺を必要とする。
それは、うれしいことばかりではないのかもしれない。
その夜。
ラウル村から二日ほど離れた街道を、一台の馬車が西へ走っていた。
御者台の男は、隣に座る若い従者へ興奮気味に話していた。
「本当だ。魔法を使わずに病を止めたんだ」
「聖職者でも薬師でもないのに?」
「ああ。黒い髪で、妙な服を着た若い男だった。異世界から来たと言っていた」
従者が目を見開く。
「すぐにお嬢様へ報告しなければ」
二人を乗せた馬車には、小さな紋章が掲げられていた。
痩せた麦の穂を、金色の王冠が囲む紋章。
三年続く凶作によって滅亡へ近づいている、小国グランヴェールの紋章だった。




