第6話 石鹸もどきを作ったら、村のおばちゃんたちに囲まれた
「南の家って、どこですか!」
「こっちだ!」
馬で駆け込んできた青年が、来た道を指さした。
俺は走り出したものの、十歩もしないうちに後ろから襟を引かれた。
「ぐえっ」
「待て、コータロー!」
ロルフだった。
「何するんですか!」
「南の家まで走れば、着く頃にはお前が倒れてる。馬に乗れ」
「乗れって、俺、馬なんか――」
「俺の後ろだ!」
「最初からそう言ってください!」
ロルフが馬に跨がり、俺はその後ろへしがみついた。
「腰に掴まれ」
「分かりました」
「もう少し下だ」
「これ以上下だと変な感じになるんですけど!」
「落ちたいのか!」
「嫌です!」
馬が走り出す。
想像以上に揺れた。
速い。怖い。尻が痛い。
そしてロルフの背中が臭い。
「ロルフ、汗臭いです!」
「病人のところへ向かう途中に言うことか!」
「だって近いんですよ!」
「落とすぞ!」
「すみませんでした!」
緊張しているからこそ、どうでもいいことを口にしてしまう。
黙っていると、悪い想像ばかりが頭に浮かんだ。
二人の子供が倒れた。
俺の対策は間に合わなかった。
昨日、もっと上手に村人を説得できていれば。
あのとき怒鳴らず、最初から一人ずつ話していれば。
「考えるな」
前を向いたまま、ロルフが言った。
「何をです?」
「自分が昨日こうしていれば、って顔をしてる」
「後ろなのに見えるんですか」
「お前は考えてることが背中にも出る」
「今、見てるのは俺がしがみついてるロルフの背中ですよ」
「面倒くせえな、お前!」
「よく言われます!」
◇
村の南端にある小さな家では、母親らしい女性が泣いていた。
「朝までは元気だったんです! それが急に、お腹が痛いって!」
寝台には、七、八歳ほどの男の子と、五歳くらいの女の子が横になっている。
二人とも発熱。
下痢と嘔吐。
ミーナとほぼ同じ症状だ。
「井戸の水は飲みましたか」
「当たり前でしょう! ほかに何を飲むっていうの!」
「責めてません。確認してるだけです」
「本当に助かるんですか?」
女性が俺の腕を掴んだ。
爪が食い込む。
「助けてください。お願いです。何でもしますから」
怖かった。
この人は俺を、何でも治せる異世界人だと思いかけている。
違う。
俺には治癒魔法もない。
薬だって持っていない。
「まず、聞いてください」
「でも――」
「俺は医者じゃありません」
女性の顔から希望が消えた。
その変化を見るのが辛かった。
だが、勘違いさせたままではいけない。
「治せるとは約束できない。でも、身体から水がなくなるのを少しでも防ぐ方法は知っています。だから手伝ってください」
「何をすれば」
「きれいな鍋はありますか。それと砂糖と塩。水は必ず沸かします」
女性が動き始める。
俺は子供たちの様子を見る。
呼びかけには反応がある。
まだ意識はある。
「ロルフ、村へ戻って人を集めてもらえますか」
「何人だ」
「水を沸かす人、薪を運ぶ人、病人の家を回る人。あと、病人が何人いるか記録したい」
「記録?」
「誰が、いつから、どんな症状なのか。回復したのか、悪化したのか。分からないままだと、俺たちのやり方が効いているか判断できません」
「文字を書ける奴が必要だな」
「はい。俺、まだこっちの文字は怪しいので」
「本当に使えねえな」
「今それ言います?」
「冗談だ」
「顔が怖くて冗談に聞こえません!」
ロルフが出ていく。
俺は湯を作り、塩と砂糖を加えた。
昨日と同じく、濃さは自分の舌で確かめるしかない。
一口舐める。
「ちょっと塩が多いな」
水を足す。
もう一度。
「こんなものか……」
「そんな適当なもので大丈夫なんですか」
母親が不安そうに言う。
「大丈夫とは言えません」
「またそれですか!」
「嘘をつくよりいいでしょう!」
言い返してから、息を整えた。
「すみません。でも、俺の国でも、家庭で作るときはこうして味を確かめることがあります。しょっぱすぎなければ、少しずつ飲ませてください」
「この子たちが死んだら……」
女性の唇が震えた。
「あなたを恨みます」
「……はい」
「逃げないでください」
「逃げません」
本当は逃げたい。
この場からも、この世界からも。
でも、逃げられない。
母親は娘の身体を抱き起こし、匙で少量ずつ飲ませた。
少女は顔をしかめたが、吐かなかった。
兄にも飲ませる。
「ゆっくりです。一度にたくさんは駄目」
「分かっています」
「十分くらい空けて、また少し」
「分かっています!」
苛立った声。
俺も腹が立ちかけた。
だが、その手が震えているのを見て、何も言えなくなった。
「俺、外にいます」
「どうして」
「ほかにできることを探します」
「逃げるんじゃないでしょうね」
「逃げませんって」
何度言わせるんだ。
そう思ったが、母親にとって俺は、昨日来たばかりの余所者だ。
信用される方がおかしい。
◇
家の外へ出ると、村人たちが集まり始めていた。
ロルフだけでなく、エドガーとアニタもいる。
アニタの父親――村長のベルン老人も来ていた。
「ほかにも三軒で病人が出た」
ベルンが苦い顔で告げる。
「増えてる……」
「だから言ったんです。井戸の水を――」
「分かっている!」
老人が怒鳴る。
俺も怒鳴り返しかけた。
だが、老人は続けた。
「分かっているから、今は言うな」
その声には、昨日までの意地とは違うものがあった。
悔しさだ。
自分が守ってきた井戸を疑わなければならない。
村の教えを曲げなければならない。
しかも、十九歳の余所者に言われて。
「……すみません」
「なぜお前が謝る」
「俺も、正しいことを言えば相手がすぐ納得すると思ってました」
「今も自分が正しいと思っているのか」
「かなり高い確率で」
「謙虚なのか傲慢なのか、分からん男だ」
「俺も自分で分かりません」
ベルンは鼻を鳴らした。
「水を沸かす。病人と子供の分だけではない。村全体だ」
「薪が足りなくなります」
「森へ人を出す」
「井戸の使用も、飲み水だけは一度止めたいです」
「川の上流から運ばせる。ただし遠い。老人と子供には無理だ」
「荷馬車を使えませんか」
エドガーが口を挟む。
「私の馬車を出しましょう。空いた樽があります」
「商売はいいんですか」
「病気の村で商売をしても、買い手が倒れては意味がありません」
「後で料金請求しませんよね」
「信頼とは商人の財産です」
「その台詞、二回目ですよ」
「気に入っておりますので」
笑っている場合ではない。
それでも、誰かの冗談があるだけで、空気が少し軽くなる。
「それから」
俺は集まった村人を見る。
「手を洗ってください」
「手?」
「病人の世話をした後。食事を作る前。井戸から水を汲んだ後も」
村人たちが互いの顔を見る。
「水で洗うだけか?」
「できれば、汚れを落とせるものを使いたい」
「洗浄魔法なら、魔法使いが」
「この村にいるんですか?」
「いない」
「じゃあ使えないじゃないですか」
「だから困っておる」
「石鹸は?」
全員が首を傾げた。
通じていない。
「油と灰から作る、汚れを落とすものです。泡が出て、手や身体を洗える」
アニタが腕を組んだ。
「貴族が使う香り石のことかい?」
「香り石?」
「王都の貴族が身体を洗うときに使う、高価な品だよ。商人が一度持ってきたけど、小さな一つで銀貨二十枚もした」
「高っ!」
「香料と聖樹の油を使うそうだ」
俺の知っている石鹸とは違う。
だが、少なくとも石鹸らしいものは存在する。
「香りはいらないです。木灰と、使い終わった油はありますか」
「廃油なら宿にあるよ」
「灰はどの家にもある」
「作れるのか?」
ベルンが聞く。
「たぶん」
嫌な沈黙が落ちた。
「その『たぶん』はやめろ」
「知らないことを知ってるふりするよりいいでしょう!」
「昨日から、そればかりだな」
「俺の能力は、見たことを思い出すだけなんです。動画で作り方は見た。でも、自分で最初から作ったことはない」
「ドウガとは何だ」
「説明すると長いので、動く絵だと思ってください」
「魔法か」
「俺の世界では道具です」
「お前の世界は何でも道具だな」
「魔法がないので、道具を作るしかなかったんですよ」
ベルンは考え込んだ。
アニタが先に言う。
「やってみな」
「いいんですか」
「今のままじゃ、水で手を濡らして終わりだ。あんたの言うものが使えるなら、作る価値はある」
「失敗したら、油が無駄になります」
「病人がこれ以上増えるよりましだ」
俺は頷いた。
「分かりました。まず灰から灰汁を取ります」
「何人必要だい」
「それが……」
「また分からないのかい」
「いや、作業自体はできます。ただ、強い灰汁は皮膚につくと危険です。目に入ったら特にまずい」
集まっていた女たちが一斉に後ずさった。
「危険なものを手洗いに使うのか!」
「出来上がったものは違います!」
「本当かい?」
「うまく作れれば!」
「うまく作れればって言ったよ!」
「だから最初から完璧にできるとは言ってないでしょう!」
また空気が荒れかける。
そこへ、アニタが手を叩いた。
「騒ぐんじゃないよ!」
村人たちが黙る。
「コータローは一人じゃ何もできない。あたしたちは作り方を知らない。なら一緒に失敗すればいい」
「失敗前提ですか」
「成功を約束できないんだろう?」
「はい」
「だったら失敗も勘定に入れな。油の無駄くらい、あたしが引き受ける」
「アニタさん……」
「その代わり、店を燃やしたら弁償してもらうよ」
「俺、金貨二枚ちょっとしか持ってません」
「身体で払わせるさ」
「その言い方、別の意味に聞こえます!」
村の女たちがどっと笑った。
「何を想像してるんだい」
「俺じゃなくて言い方の問題です!」
「若いねえ」
「十九ですから!」
「やっぱり三十には見えないかい?」
「その話はもういい!」
◇
作業は宿の裏庭で始まった。
木灰を布に包み、桶の上へ置く。
そこへ少しずつ湯を注ぎ、下へ落ちてきた液体を集める。
灰汁。
日本で見た映像を、【記憶再現】で何度も頭の中に呼び戻す。
濃度の測り方として、卵や芋を浮かべる方法があった。
「卵ありますか」
「食べ物をこんな液に入れるのかい?」
「殻ごとです。浮き方で濃さを見る」
「本当に大丈夫なんだろうね」
「後で食べないでくださいよ」
「もったいない」
「食べないでください!」
卵を入れる。
沈んだ。
「薄いな」
「何が?」
「灰汁が。もう少し濃くしないと」
灰を足し、もう一度。
今度はわずかに浮く。
「こんなものかな……」
俺の呟きを聞き、女たちが顔を見合わせる。
「不安になるねえ」
「俺も不安です」
「作る本人が言わないでおくれ」
次に廃油を濾す。
焦げた肉片やパン屑が混じっている。
「これ、臭いですね」
「あんたが肉を焼いた後の油だよ」
「俺が来る前からあるでしょう!」
「細かい男だね」
「異世界に来てから、全員に細かいって言われてる気がする」
「なら事実なんじゃないかい」
アニタの隣で、赤毛の女性が笑った。
「嫁さんは苦労するね」
「いません」
「恋人は?」
「いません」
「十九で?」
「十九なら普通でしょう!」
「うちの亭主と結婚したのは十六だよ」
「文化の違いをぶつけないでください!」
作業を見ていた女たちの目が急に変わった。
病気への恐怖は消えていない。
だが、他人の結婚話を聞く元気はあるらしい。
「どんな娘が好みだい」
「今その話必要です?」
「油を温める間は暇だよ」
「真面目に働いてください」
「真面目に火を見てるじゃないか」
「じゃあ黙って見てください」
「恥ずかしがってるよ」
「顔が赤いねえ」
「火の近くだからです!」
逃げ出したい。
王宮を追い出されたときとは別の意味で。
そんな会話をしているうちに、温めた油へ少しずつ灰汁を混ぜていく。
かき混ぜる。
ゆっくり。
飛び散らないように。
最初は何も起こらなかった。
しばらくすると、液体にわずかなとろみが出始める。
「固まってきた?」
「まだです。もっと混ぜます」
「どれくらい」
「一時間……下手するともっと」
女たちの顔から笑顔が消えた。
「そんなに?」
「腕が死ぬよ」
「交代でお願いします」
「誰が最初にやるんだい」
一斉に俺を見る。
「俺ですか?」
「作るって言い出したのはあんただろう」
「男女平等!」
「若い男の腕を使わない理由がないね」
「この村の女性、強すぎません?」
木の棒で鍋を混ぜ続ける。
十分。
二十分。
腕が重い。
「代わってください」
「もうかい?」
「ホームセンター店員を何だと思ってるんです?」
「重い物を一日中運ぶ男」
「俺、園芸担当ですよ!」
「土袋を運ぶだろう」
「何で知ってるんですか!」
結局、交代しながら二時間近く混ぜた。
とろみは増した。
木箱へ流し込み、一晩置く。
「これで石鹸になるのかい」
「うまくいけば」
「またそれだよ」
「明日にならないと分かりません」
疲れ切った女たちが、恨めしそうに俺を見る。
「失敗したら?」
「もう一度です」
「逃がさないからね」
「怖いなあ……」
◇
翌朝。
木箱を覗き込んだ俺たちは、そろって黙った。
液体のままだった。
表面に油が浮いている。
臭いもひどい。
「失敗ですね」
俺が言うと、アニタが腕を組んだ。
「見れば分かるよ」
「灰汁が薄かったのか、油との割合か、温度か……」
「二時間も混ぜたんだけどねえ」
赤毛の女性が低い声で言う。
「すみません」
「謝って終わりかい?」
「終わりません。もう一度やります」
「今度は成功する?」
「分かりません」
「そこは嘘でも、すると言いな!」
「嘘をついたら怒るでしょう!」
「今も怒ってるよ!」
女たちに囲まれた。
逃げ道がない。
そこへロルフがやって来て、木箱を覗く。
「何だ、この臭い泥は」
「石鹸になる予定だったものです」
「ならなかったのか」
「見れば分かるでしょう」
「失敗か」
「今全員から責められてるので、追い打ちやめてもらえます?」
ロルフは楽しそうに笑った。
「一晩で英雄にはなれなかったな」
「なる気ないですよ」
「なら、もう一度やれ」
「簡単に言いますね」
「お前は昨日、俺たちに何度でも水を沸かせた」
「必要だったからです」
「これも必要なんだろ」
返す言葉がない。
「……そうですね」
二回目。
灰汁をより濃くした。
油との割合も変えた。
温度を上げすぎないよう、火を調整した。
かき混ぜる時間も増やした。
今度はエドガーが持っていた上質な獣脂を、少しだけ譲ってもらった。
「料金は成功後に」
「ちゃっかりしてますね」
「信頼とは商人の――」
「もう聞きました」
三回目。
二回目のものは固まったが、表面がべたつき、灰汁の刺激が強すぎた。
試しに指先へ少しつけた俺は、すぐに水で洗い流した。
「痛っ! これは駄目!」
「何で自分で触るんだい!」
「誰かに試させられないでしょう!」
「本当に馬鹿だね、あんたは!」
「確認しないと分からないじゃないですか!」
アニタに腕を掴まれ、何度も水をかけられる。
皮膚が赤くなった。
「これで手が使えなくなったら、どうするんだい」
「反対の手があります」
「そういう問題じゃない!」
怒鳴られた。
だが、その声は以前の拒絶とは違った。
俺の身を心配して怒っている。
そう気づくと、少しくすぐったかった。
「すみません」
「本当に悪いと思ってるのかい」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「次は直接触らず試す方法を考えてます」
「反省してないね!」
三度目の試作。
濃度を調整し、十分に混ぜ、数日置いた。
固まったものを切り分ける。
色は茶色っぽい。
香りはない。
むしろ少し獣脂臭い。
「見た目は、ひどいね」
「俺の世界の石鹸はもっと白くて、いい匂いなんです」
「それを先に作りなよ」
「できたら苦労してません!」
水をつけ、手のひらで擦る。
泡は少ない。
だが、油汚れは落ちた。
皮膚にも強い刺激はない。
「できた……」
思わず声が漏れた。
アニタが恐る恐る使う。
「泡が少ないね」
「洗浄力はあります。たぶん」
「たぶんは禁止だよ」
「実際に油が落ちたでしょう!」
赤毛の女性も手を洗う。
「本当だ。いつもの水洗いより、ぬるぬるしない」
「臭いは?」
「少し脂臭い」
「そこは今後の改良点で」
「香草を混ぜたらどうだい」
「それ、いいですね」
「じゃあ次は花の香りで」
「待ってください。今は病気対策用です!」
「どうせ作るなら売れるものにしないと」
いつの間にか、女たちの目が商売人のものになっている。
「洗濯にも使えるかね」
「たぶん。でも布によっては傷むかもしれないので、端で試して――」
「鍋の焦げは?」
「油汚れなら」
「髪は洗える?」
「刺激が強いかもしれないから、今はやめてください!」
「顔は?」
「やめてくださいって!」
俺の周りに女たちが群がる。
質問が四方八方から飛んでくる。
「次はいつ作るんだい」
「灰はどの木がいい?」
「豚の脂でもいいのかい」
「売るならいくらになる?」
「待って! 一人ずつ! 俺は一人しかいないんですよ!」
ロルフが離れた場所で腹を抱えて笑っている。
「助けてください!」
「人気者だな、コータロー」
「代わります?」
「断る」
「薄情者!」
騒ぎを聞きつけ、村の子供たちまで集まってきた。
ミーナも、まだ顔色は完全ではないものの、自分の足で歩いている。
「変な服のお兄ちゃん」
「孝太郎な」
「石を作ったの?」
「石じゃない。石鹸」
「せっけん?」
「手を洗うものだよ」
ミーナが小さな手を差し出す。
「使っていい?」
「もちろん。ただし、目に入れないようにな」
水をかけ、石鹸もどきを擦る。
わずかに泡が立った。
ミーナは目を丸くする。
「泡だ」
「少ないけどな」
「きれいになった?」
「たぶん」
「たぶんは禁止だよ」
アニタの真似をしたらしい。
「お前まで言うの?」
「禁止」
「はいはい。きれいになりました」
ミーナが笑う。
その笑顔を見て、三度の失敗も、女たちに囲まれた疲れも、少しだけ報われた気がした。
◇
石鹸もどきが完成してから、村の様子は目に見えて変わった。
病人の家へ入る者は、出るときに手を洗う。
食事を作る前にも洗う。
飲み水は沸かす。
病人には塩と砂糖を混ぜた水を、少しずつ飲ませる。
井戸の周囲から家畜を遠ざけ、汚物を流す溝も掘り直し始めた。
全員が素直に従ったわけではない。
「手なんか洗ってられるか」
「薪がもったいない」
「石鹸が臭い」
文句は毎日出た。
俺も毎日言い返した。
「病気になるよりましでしょう!」
「臭いのは認めます! 今度改良しますから!」
「薪が足りないなら、使う鍋を大きくして一度に沸かしましょう!」
喧嘩もした。
途中で帰ろうと思ったこともある。
それでも、誰かが俺より先に動いてくれるようになった。
ベルン老人は自分から井戸周りの見回りを始めた。
アニタたちは石鹸を作る担当になった。
ロルフは薪運びを手伝いながら、銀貨一枚の追加を要求した。
断ったら、半日だけ働いて昼寝した。
エドガーは樽や鍋を近隣から買い集めた。
もちろん、後で村へ請求書を出すと言っていた。
人間は善意だけでは動かない。
意地もある。
損得もある。
面倒くさい。
だが、だからこそ、一度自分で納得して動き始めた人間は強かった。
そして五日後。
新しく腹を壊す者の数が、初めて前日を下回った。
「三人です」
患者の記録を担当していた若い女性が言う。
「昨日は七人。一昨日は九人でした」
「本当に?」
「数字を数えるくらいできます」
「いや、あなたを疑ったんじゃなくて」
記録板を見る。
確かに減っている。
まだ三人いる。
まだ安心はできない。
それでも、初めて数字が下がった。
「効いてる……のか?」
俺の呟きに、ベルン老人が答える。
「まだ分からん」
「そこは少しくらい喜んでくださいよ」
「一日減っただけだ」
「慎重すぎません?」
「お前がすぐ浮かれるから、儂が慎重でいる」
「俺、そんなに浮かれてます?」
「顔に出ておる」
「この村の人、俺の顔から何でも読みすぎじゃないですか」
ベルンは鼻を鳴らした。
だが、口元がほんの少し緩んでいた。
その晩。
俺は宿の裏庭に座り、石鹸もどきを眺めていた。
形は歪。
茶色い。
臭い。
日本なら売り物にはならない。
けれど、この不格好な塊が、人の手から汚れを落とす。
「役立たず、か」
王宮で言われた言葉を思い出す。
剣は使えない。
魔法もない。
石鹸一つ作るのにも三回失敗した。
しかも、俺一人では作れなかった。
「でもまあ」
手のひらの石鹸を握る。
「何もできないってわけじゃないらしい」
そのとき、宿の入口からアニタが顔を出した。
「コータロー!」
「何ですか」
「ミーナが肉を食べたいってさ」
「本当ですか!」
「ああ。ほかの病人も何人か、粥なら食べられるようになった」
胸の奥が熱くなる。
俺は勢いよく立ち上がった。
「じゃあ、消化のいいものを――」
「その前に」
アニタが腕を組む。
「裏庭の鍋を洗いな」
「何で俺が?」
「あんたが石鹸を作るのに使ったからだよ」
「みんなで使ったでしょう!」
「言い出したのはあんただろう」
「理不尽だ!」
「嫌なら夕飯抜き」
「洗います!」
英雄にはほど遠い。
世界もまだ救っていない。
俺が作ったのは、臭くて泡の少ない石鹸もどきだけだ。
それでも、その日からラウル村では、新しく病に倒れる者が少しずつ減り始めた。




