第5話 水を沸かしたら精霊が死ぬと言われたので、俺が先に飲んでみた
大丈夫だ。
俺が何とかする。
口にした直後から、その言葉を取り消したくなった。
何とかするって、どうやって。
俺は医者ではない。
看護師でも薬剤師でもない。
ホームセンターの店員だ。
熱を出して苦しんでいる子供を前にして、俺が知っているのは、キャンプ用品の売り場で覚えた浄水器の種類や、防災動画で見た経口補水液の作り方くらいだった。
「コータロー、水が沸いたよ!」
アニタの声で我に返る。
厨房では、大鍋から白い湯気が立ち上っていた。
「少し冷ましてください。熱いままじゃ飲めないので」
「分かってるよ。それで、塩と砂糖はどれくらい入れるんだい」
「それが……」
俺は食卓に並べられた木の匙を見比べた。
大きさがばらばらだ。
日本で見た作り方は、水一リットルに砂糖六杯、塩を半杯。
だが、それは小さじでの話だ。
目の前の匙には、大さじほどあるものもあれば、平たく浅いものもある。
「量が分からないのかい」
「俺の国と、匙の大きさが違うんです」
「そんなことも考えずにやろうとしたのか?」
アニタの声が尖った。
俺も言い返しかけて、飲み込んだ。
怒っているのではない。
怖いのだ。
娘が苦しんでいる。
俺のような素性の分からない余所者が、見たこともないものを飲ませようとしている。
信じろという方が無理だ。
「すみません。でも、濃すぎるとよくない。味を見ながら作ります」
「味?」
「涙くらいの塩気です。甘すぎても駄目で、しょっぱすぎても駄目」
「ずいぶん曖昧だね」
「俺も、こんな状態で作るつもりじゃなかったんです」
「じゃあ、やめるかい?」
アニタが俺を睨む。
試しているのではない。
本気で聞いている。
俺はミーナを見た。
椅子を並べた簡易寝台の上で、少女が浅い呼吸を繰り返している。
「やめません」
「失敗したら?」
「……責任は取れません」
アニタの眉が吊り上がる。
「何だって?」
「嘘は言えないです。絶対助かるなんて言えない。俺は医者じゃないし、この病気が何なのかも分からない」
「さっきは何とかすると言ったじゃないか!」
「強がったんですよ!」
思わず声が大きくなった。
アニタが黙る。
俺は自分の膝を握った。
「怖がってる子供を前にして、何もできないって言えなかった。だから、できるみたいなことを言った。格好つけただけです」
「……」
「でも、水を失い続けるのが危ないのは知っています。塩と砂糖を混ぜた水なら、ただの水より身体に入りやすい。それは俺の世界では、子供でも知っていることです」
「子供でも?」
「少なくとも、俺より詳しい母親はたくさんいます」
「母親……」
アニタの表情が少し揺れた。
「あなたと同じです。子供が病気になったら、必死で調べる。医者へ連れていく。俺はその話を見たり聞いたりしただけです」
「自分の知識じゃないと言いたいのかい」
「俺一人で見つけた知識じゃないってことです」
俺は鍋の湯を木の器へ移した。
砂糖を入れる。
少しずつ。
塩もほんの少し。
匙で混ぜ、指先に一滴落として舐める。
「薄いな……」
砂糖を足す。
もう一度舐める。
甘さの奥に、わずかな塩気がある。
正しいかどうか、自信はない。
ただ、飲めない味ではない。
「俺が先に飲みます」
「何であんたが」
「変なものを飲ませようとしてないって、証明するためです」
ぬるくなった液体を一口飲む。
甘い。
少し塩辛い。
決してうまくはない。
だが、想像していた味に近かった。
「毒じゃありません」
「毒を飲んですぐ倒れるとは限らないだろう」
宿の入り口から声がした。
振り返る。
昨日、井戸の前で俺に怒鳴った老人が立っていた。
その後ろには、数人の村人がいる。
「何しに来たんですか」
「アニタの娘が倒れたと聞いた」
「だったら邪魔しないでください」
「余所者が妙なものを飲ませようとしているとも聞いた」
「妙なものじゃありません」
「砂糖と塩を水に入れるなど、妙なものだ」
「だったら、あなたは飲まなければいい」
また言い合いになりそうだった。
俺は息を吐く。
今度こそ怒鳴らない。
「でも、ミーナはもうほとんど水を飲めていない。吐いたり、腹を下したりして、身体の中の水がなくなってるんです」
「水なら井戸にある」
「その井戸が原因かもしれないって言ってるんです」
「また村の井戸を侮辱するのか!」
「侮辱じゃない!」
駄目だ。
もう声が大きくなった。
俺は一度口を閉じ、両手で顔を擦った。
「……すみません。怒鳴らないつもりだったのに」
老人が怪訝そうな顔をする。
「何を謝っている」
「俺、腹が立つとすぐ言い方が悪くなるので」
「自覚があるなら直せ」
「十九年かけてこれなんですよ」
「十九?」
「その話は今いいでしょう!」
周囲の村人が小さくざわついた。
また年齢を疑われているらしい。
本当に失礼な世界だ。
「話を戻します」
俺は老人をまっすぐ見る。
「井戸の水を一度沸かしてください。少なくとも、病気が治まるまでは」
「水を火にかければ、水の精霊が弱る」
「はい?」
「知らぬのか。生きた水には精霊が宿る。煮立てた水は死んだ水だ」
何を言っているんだ、この爺さん。
そう思った。
顔にも出たらしい。
老人の眉間に深い皺が寄る。
「何だ、その顔は」
「いや……価値観の違いって、こういうことかと思って」
「馬鹿にしているのか」
「してません。理解できなくて困ってるだけです」
精霊。
この世界には魔法がある。
なら、水の精霊が本当にいる可能性もある。
俺の常識だけで否定してはいけない。
「水の精霊が死ぬと、何が起きるんです?」
「身体に力を与えぬ水になる」
「飲んだら病気になりますか」
「そこまでは言っていない」
「じゃあ、今は安全な方を選びましょう」
「先祖から伝わる教えを捨てろと言うのか」
「一生捨てろとは言ってません! 病気が収まるまで、試してほしいだけです!」
老人も黙らない。
「お前は目に見えぬ小さな生き物が水にいると言った。儂には見えぬ。お前にも見えぬ。それなのに、お前の言うことだけが正しいと、なぜ言える」
「正しいと断言はしてません」
「なら従う理由もない」
「人が死んでるからですよ!」
今度こそ、店の中が静まり返った。
俺は自分の声に驚いた。
老人の目が細くなる。
「三日前に一人亡くなった。今も二十人以上が苦しんでる。今までと同じことを続けて、また誰かが死んだらどうするんです」
「お前の方法で死んだら、どうする」
「それは……」
言葉に詰まる。
そこが一番苦しい。
俺は責任を取れない。
死者を生き返らせることもできない。
現代日本の知識を持っているからといって、異世界の命を自由に扱っていいわけではない。
「分かりません」
正直に答えた。
「俺だって怖いです。間違ってるかもしれない。ミーナが悪化したら、たぶん一生後悔する」
「なら――」
「でも何もしないで悪化しても、一生後悔します」
老人を見る。
「だから、俺が先に飲みました。今夜も飲む。明日も飲む。水を沸かしたら精霊が死ぬというなら、死んだ水を俺が先に飲み続けます」
「よそから来たお前と、村の者では身体が違う」
「じゃあ、ロルフにも飲んでもらいます」
「おい」
突然名前を出されたロルフが顔をしかめる。
「何で俺だ」
「村人じゃないけど、この世界の人だから」
「勝手に決めるな」
「お願いです」
「嫌だ」
「銀貨一枚」
「飲もう」
「即決かよ!」
緊張していた村人の中から、笑いが漏れた。
ロルフは木の器を受け取り、一口飲む。
顔をしかめた。
「まずい」
「薬だと思ってください」
「薬なのか?」
「薬ではないです」
「じゃあ、まずい水じゃねえか」
「文句が多いな!」
エドガーが肩を揺らして笑っている。
「コータロー殿は、なかなか人を説得する才能がありますな」
「これのどこがですか」
「少なくとも、怒鳴り合って終わった昨日よりは進んでおります」
「昨日のことは忘れてください」
「商人は損と失敗を忘れません」
「面倒くさいなあ」
「あなたほどでは」
また少し、空気が緩んだ。
しかし老人の顔はまだ険しい。
「儂は認めん」
「ええ」
俺は頷いた。
老人が意外そうな顔をする。
「認めないなら、それでいいです。全員に今すぐ従えとは言いません」
「では何を求める」
「まず、ミーナにこれを飲ませること。アニタさんが許してくれるなら」
アニタを見る。
彼女は眠る娘の額に手を当て、長い間黙っていた。
「飲ませるよ」
「アニタ!」
「このままでも、この子は弱っていく」
老人が何か言おうとする。
アニタは首を横に振った。
「父さん、あたしはこの子の母親だ」
父さん。
そういう関係だったのか。
「井戸も、精霊も、村の教えも大事だ。でも今は、ミーナの方が大事だよ」
「……」
「もし何かあったら、あたしが決めたことだ。余所者だけを責めるんじゃない」
その言葉に、俺は胸が痛くなった。
「いや、俺も――」
「あんたは黙ってな」
「はい」
「責任を背負えないくせに、何でも自分のせいにしようとするんじゃないよ。それは責任感じゃなくて、ただの格好つけだ」
「……痛いところ突きますね」
「娘が苦しんでるんだ。遠慮してやる余裕はないよ」
「ですよね」
アニタは木の匙を取り、ミーナの唇へ少量ずつ液体を運んだ。
「ミーナ。少しだけ飲むんだよ」
「甘い……」
「まずくはないかい」
「ちょっと、しょっぱい」
「我慢しな」
ミーナは少しずつ飲んだ。
一度、むせた。
全員の身体が強張る。
だが吐かなかった。
「もっと」
かすかな声。
アニタの目に涙が浮かぶ。
「一度に飲んだら駄目です。少し待ってから」
「どうしてだい」
「吐くかもしれないので」
「分かった」
しばらく待つ。
また一匙。
さらに一匙。
俺は息をするのも忘れるほど、少女の喉を見つめていた。
何時間経ったのか分からない。
実際には、まだ日付も変わっていなかっただろう。
ミーナは途中で眠った。
熱はまだ高い。
腹痛も治っていない。
それでも、飲ませたものを吐かずに眠っている。
「少し休ませましょう」
俺が言うと、アニタは娘の手を握ったまま頷いた。
「コータロー」
「はい」
「ありがとうとは、まだ言わないよ」
「言わなくていいです」
「でも、昨日怒鳴ったことは謝る」
「俺も怒鳴りました」
「あんたの方が大声だった」
「そこ勝ち負けあります?」
「あるよ。あたしの店だからね」
「じゃあ俺の負けでいいです」
アニタは疲れた顔で、ほんの少し笑った。
◇
夜が明ける少し前。
俺は厨房の椅子に座ったまま、うとうとしていた。
肩を揺すられ、目を覚ます。
「コータロー」
アニタだった。
「ミーナが?」
「まだ熱はある。でも、さっき自分から水を欲しがった」
「本当ですか」
「ああ」
立ち上がろうとして、足がもつれた。
「痛っ」
「寝ぼけてる場合かい」
「一晩中起きてたんですよ」
「あたしもだよ」
「母親と比べないでください」
ミーナのところへ行く。
少女は目を開けていた。
昨日より顔色がいい――気がする。
そう見たいだけかもしれない。
「変な服のお兄ちゃん」
「名前覚えてないの?」
「コータロー」
「覚えてるじゃん」
「お水」
「少しずつな」
器を渡すと、ミーナは自分で口をつけた。
数口飲む。
吐かない。
俺はその場に座り込みたくなるほど安心した。
「まだ治ったわけじゃない」
自分に言い聞かせる。
ミーナ一人が少し回復したからといって、俺の考えが正しい証明にはならない。
だが、やれることはある。
「アニタさん」
「何だい」
「今日から、飲み水は全部沸かしましょう」
「村のみんなの分かい?」
「まず病人と子供。それから、できる範囲で」
「薪が足りなくなるよ」
「集めます。俺も手伝う。水を運ぶ人も必要です」
「村の連中が従うと思うかい?」
「思いません」
即答した。
アニタが目を丸くする。
「昨日あれだけ喧嘩しましたから。俺の顔を見ただけで腹を立てる人もいると思います」
「自分で分かってるんだね」
「嫌になるくらい」
「なら、どうする」
「一人ずつ話します」
「全員と?」
「はい。怒鳴られたら、なるべく怒鳴り返さないようにします」
「なるべく?」
「絶対とは言えません」
アニタが呆れた顔をする。
「本当に面倒な男だね」
「よく言われます」
「誰に」
「昨日から、この世界の人全員に」
朝日が窓から差し込む。
村はまだ眠っている。
病気で苦しんでいる人間は、ミーナだけではない。
俺一人では、水一杯を沸かすことしかできない。
それなら、村人に手伝ってもらうしかない。
嫌われても。
信じてもらえなくても。
何度でも説明する。
「まず、井戸の横の家畜小屋を移しましょう」
「大仕事になるよ」
「分かってます」
「汚物を流す溝も?」
「できれば。あと、飲み水を汲む桶と、洗い物に使う桶を分けたいです」
「そんなに桶はない」
「作ってもらいます」
「誰に」
「村の木工職人」
「あの男は頑固だよ」
「この村、頑固じゃない人いるんですか?」
「ミーナ」
「病人と子供を数に入れないでください」
アニタは笑った。
昨日まで俺に向けられていた刺々しい笑いではない。
ほんの少しだけ、同じ側に立つ人間へ向ける笑いだった。
その日の朝。
俺は村の広場に立った。
集まった村人たちの顔は険しい。
老人――アニタの父親は、腕を組んで俺を睨んでいる。
逃げたい。
胃が痛い。
それでも、俺は鍋で沸かして冷ました水を木杯に注いだ。
「この水を飲んでくださいとは言いません」
ざわめきが起こる。
「ですが、俺は飲みます」
杯を持ち上げる。
「今日も。明日も。病気が収まるまで。精霊が死んだ水で俺が弱るのか、井戸の水をそのまま飲んだ人が病気になるのか。見ていてください」
「実験台になるつもりか」
老人が言う。
「格好よく言えば」
「本当は?」
「ほかに、説得する方法を思いつきませんでした」
何人かが笑った。
馬鹿にされたのかもしれない。
それでもいい。
昨日よりは、俺の話を聞いている。
俺は杯の水を飲み干した。
「まずいです」
「水だろう」
「少し煙の臭いがするので」
また笑いが起きる。
「でも、飲めます。だから頼みます。病気の人と子供の水だけでも、沸かしてください」
俺は頭を下げた。
「俺一人じゃ、何もできません。手を貸してください」
長い沈黙。
最初に前へ出たのは、昨日俺に「村を馬鹿にするな」と怒鳴った男だった。
「薪を使うなら、北の林から取ってくる」
「え」
「ただし、病人の家の分だけだ。村中の水を沸かす量なんか無理だからな」
「十分です。ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早い」
「この村、そればっかりですね」
「信用してないからな」
「正直で助かります」
次に、腰の曲がった女性が手を挙げた。
「あたしは病人の家を回るよ。水を飲ませるんだろう」
「少しずつです。吐いたら、少し間を空けて」
「覚えられないね。紙に書いておくれ」
「俺、この世界の文字を書くのはまだ……」
「使えないねえ」
「すみません!」
村人たちの中から、今度ははっきり笑いが起きた。
役立たず。
王宮で言われた言葉を思い出す。
確かに俺は、何でもできるわけではない。
むしろできないことの方が多い。
文字も満足に書けない。
水を運ぶにも人の力がいる。
薪を集めるにも、鍋を用意するにも、俺一人ではどうにもならない。
だけど。
俺が知らないことを、この村の人間は知っている。
この村の人間が知らないことを、俺は少しだけ知っている。
それを持ち寄れば、何かが変わるかもしれない。
「それじゃあ始めましょう」
俺が言う。
「まず病人のいる家を教えてください。それから井戸の周りを――」
そのとき、村の入口から馬の蹄の音が聞こえた。
一頭の馬が、土煙を上げて駆け込んでくる。
乗っていた若者が叫んだ。
「大変だ! 南の家で、子供が二人倒れた!」
広場の空気が凍りつく。
俺は飲み終えた杯を置いた。
「案内してください!」
考えるより早く走り出す。
病気は、俺たちが話し合いを終えるのを待ってはくれなかった。




