第4話 その水、たぶん飲まない方がいいぞ
異世界で迎えた二度目の朝、俺は腰の痛みで目を覚ました。
「……ベッドっていうか、藁を詰めた袋だよな、これ」
寝返りを打つたび、乾いた藁ががさがさ鳴る。
柔らかい部分と硬い部分の差が激しく、ちょうど腰骨の下に硬い塊が当たっていた。
昨夜は疲れていたから眠れたが、毎晩これでは身体を壊しそうだ。
俺は呻きながら起き上がり、窓を開ける。
朝の宿場町には、もう人の声があふれていた。
馬車の車輪が土を削る音。
鶏の鳴き声。
誰かが怒鳴る声。
そして、朝から鼻を突く馬糞の臭い。
「異世界の朝、爽やかさが一つもないな」
顔を洗おうとして、部屋に水道がないことを思い出した。
昨夜借りた桶には、冷たい水が少し残っている。
それで顔を洗い、歯は指でこすった。
歯ブラシが欲しい。
石鹸も欲しい。
風呂にも入りたい。
欲しいものが増えていく。
世界を救うどころか、俺はまだ自分の口の中すら満足にきれいにできない。
「おはようございます、コータロー殿」
一階の食堂へ降りると、雑貨商のエドガーがすでに朝食を取っていた。
護衛のロルフは、その隣で大きなあくびをしている。
「おはようございます」
「よく眠れましたかな?」
「眠れたことは眠れました。でも、腰が」
「若いのに情けねえな」
ロルフが笑う。
「俺、昨日ずっと歩いた後で荷馬車に乗ったんですよ。馬車も尻に優しくなかったし」
「旅は初めてか?」
「この世界へ来たのが一昨日です」
「ああ、そうだった」
「忘れないでくださいよ。俺にとっては人生最大の事件なんですから」
朝食は昨日と同じ黒いパンと、豆の入った薄いスープだった。
パンを最初からスープに浸す。
少し学習した。
「ところで、コータロー殿」
エドガーがパンをちぎりながら言った。
「昨日お話しした馬車の仕組みですが、東部に腕の良い車大工がおります。もし急ぎの予定がないのでしたら、しばらく私どもと一緒に参りませんか?」
「どこまで行くんです?」
「ラウル村を経由して、ベルクの町まで。ここから二日ほどです」
「村?」
「この先の小さな農村です。私はそこで干し肉と羊毛を仕入れる予定でして」
行く当てもない。
一人で歩くより、商人の荷馬車に乗せてもらった方が安全だ。
ただし、無条件で信じるのも危ない。
「馬車代は?」
「お手伝いいただけるなら必要ありません」
「何をさせるつもりです?」
「荷物の積み下ろし。それから、道中でまた異世界の話を聞かせていただければ」
「やっぱり知識目当てじゃないですか」
「商人が利益を求めるのは罪ですかな?」
「隠さず言うなら、嫌いじゃないです」
エドガーが笑う。
俺も少しだけ笑った。
損得が見える相手の方が、むしろ付き合いやすい。
王宮の連中も、最初から「戦えない奴には食わせる飯がない」と言えばよかったのだ。
いや、言われたら言われたで腹は立つけれど。
「分かりました。一緒に行きます」
「よい取引です」
「まだ取引するもの、何も決めてませんけど」
「そういう細かいことを気にする男は、商人に向いておりますぞ」
「褒めてます?」
「半分は」
「残り半分は何ですか」
「面倒な客になりそうだと」
「初対面で金貨を崩す相手を警戒するくらい、普通でしょう」
ロルフが腹を抱えて笑った。
◇
ラウル村へ着いたのは、その日の夕方だった。
村を囲む柵は、ところどころ折れている。
家は二十軒ほど。
畑は広いが、手入れが行き届いているとは言い難かった。
道には鶏が歩き、裸足の子供たちが荷馬車を追いかけてくる。
「エドガーのおじさん!」
「今回は何を持ってきたの?」
「飴ある?」
「買う金があるなら、いくらでも売るぞ」
「ない!」
「なら働け!」
エドガーと子供たちのやり取りから、何度も来ていることが分かる。
俺を見つけた少年が、首を傾げた。
「変な服」
「会ってすぐ服装を悪く言うの、この世界の礼儀なの?」
「何言ってるか分かんない」
「正直だな、お前」
荷馬車は村の中央にある、少し大きな家の前で止まった。
宿屋らしい。
看板には、泡の立った杯の絵が描かれている。
「文字が読めない者も多いので、店は絵で示すことが多いのです」
エドガーが説明する。
「なるほど。ホームセンターのピクトグラムみたいなものか」
「ホーム……?」
「気にしないでください」
店から恰幅のいい女性が出てきた。
「エドガーじゃないか。遅かったね」
「街道がぬかるんでおりまして。アニタさん、部屋は空いておりますかな」
「二部屋なら。そっちの若いのは?」
「異世界から来たコータロー殿です」
「異世界?」
女将――アニタは、俺の頭から足元まで眺めた。
「ずいぶん疲れた顔をしてるねえ」
「元からこういう顔です」
「若いのかい?」
「十九です」
「へえ」
その「へえ」には、かなりの疑いが含まれていた。
「本当に十九ですからね」
「分かったよ。何も言ってないだろう」
「顔が言ってました」
「面倒な若者を連れてきたね、エドガー」
「私も先ほど同じことを申し上げました」
「俺のいないところで意見を一致させないでもらえます?」
アニタは豪快に笑った。
宿代は食事込みで銀貨二枚。
宿場町より安い。
俺は胸を撫で下ろした。
少しずつ、この世界の金銭感覚も分かってきた気がする。
「ところで」
荷物を運び終えた後、俺は店内を見回した。
客が少ない。
夕食時なのに、酒を飲んでいる男が二人いるだけだ。
その二人も顔色が悪く、腹を押さえている。
「村の人、あんまり来ないんですか?」
アニタの表情が曇った。
「ここ十日ほど、腹を壊す者が増えてね」
「食中毒ですか?」
「ショクチュウドク?」
「食べ物が腐ってたとか」
「うちの料理が悪いって言うのかい」
声が低くなった。
「いや、決めつけてません。可能性を聞いただけです」
「同じものを食べて、何ともない者もいる」
「熱は?」
「出す者もいる。吐く者もいるね」
嫌な予感がした。
「何人くらいです?」
「二十人を超えた。年寄りが一人、三日前に亡くなったよ」
「亡くなった?」
俺は思わず声を上げた。
アニタは眉を寄せる。
「病気で人が死ぬのが、そんなに珍しい国から来たのかい」
「珍しくはないです。でも……」
この村は二十数軒しかない。
人口は、多くても百五十人程度だろう。
そのうち二十人以上が同じような症状を出している。
偶然とは思えない。
「水はどこから?」
「井戸だよ。村の真ん中にある」
「見せてもらっても?」
「水が見たいのかい?」
「水というか、その周りを」
アニタは怪訝そうな顔をしたが、俺を井戸まで案内してくれた。
井戸は村の中央にあった。
石を積んだ円筒形。
屋根がつき、滑車と桶がある。
一見すると、普通の井戸だ。
だが周囲を見る。
すぐ近くに家畜小屋。
豚が数頭。
地面には糞が落ちている。
さらに十メートルも離れていない場所に、浅い溝が掘られていた。
鼻を突く臭い。
「これ、何の溝です?」
「汚物を流すところだよ」
「流す?」
「雨が降れば、あっちの川まで流れる」
溝は井戸より少し高い位置にある。
昨日までの雨で、地面にはいくつもの水たまりが残っている。
井戸の石組みの隙間には、濁った泥水が入り込んだ跡があった。
「……これだろ」
「何がだい?」
「いや、たぶんですけど」
井戸水を直接見る。
透明ではある。
嫌な臭いもしない。
だが、見た目がきれいだから安全とは限らない。
俺は学校で習った知識を思い出す。
細菌。
大腸菌。
コレラ。
赤痢。
俺は医者ではない。
この世界の病原体が地球と同じかも分からない。
それでも、この環境で井戸水をそのまま飲むのが危険なことだけは分かる。
「アニタさん」
「何だい」
「その水、たぶん飲まない方がいいですよ」
「は?」
「少なくとも、一度沸かしてください。できれば井戸の周りも掃除して、家畜を離して――」
「待ちな」
アニタの声が固くなった。
「あんた、村に着いたばかりだろう」
「そうですけど」
「この井戸は、あたしが生まれる前から村のみんなが使ってる。あたしの親も、その親も、この水を飲んできたんだ」
「でも今、二十人以上が腹を壊してるんですよね」
「それが井戸のせいだって?」
「可能性は高いと思います」
「何の根拠がある」
答えに詰まる。
顕微鏡で病原菌を見せることはできない。
水質検査もできない。
俺にあるのは、現代日本では常識だった知識だけだ。
「汚物を流す溝が、井戸のすぐ近くにあります。雨が降れば、汚れた水が地面に染み込む。井戸に入っているかもしれない」
「井戸は石で囲ってある」
「隙間があります」
「百年使ってきたんだ!」
アニタが声を荒らげた。
近くにいた村人たちが集まってくる。
「どうした」
「この余所者が、井戸の水が病気の原因だって言ってるんだよ」
「何だと?」
「井戸を汚いって言うのか」
空気が変わった。
さっきまで物珍しそうに俺を見ていた村人たちの目が、急に冷たくなる。
俺は胸の奥がざわつくのを感じた。
怖い。
だが、腹も立つ。
「汚いって言ってるんじゃないです。危ない可能性があるって」
「同じことだろう!」
老人が怒鳴った。
「この井戸は村の守り神が与えてくださったものだ!」
「神様の話はしてません」
「余所者が何を知っている!」
「だから、今起きてることを見て言ってるんです!」
俺の声も大きくなった。
止めた方がいい。
分かっている。
ここで喧嘩をしても、誰も言うことを聞かなくなる。
ホームセンターで客と揉めたときだって、まず相手の話を聞けと教えられた。
でも、俺はこの村の人間ではない。
信頼関係もない。
しかも、病気で人が死んでいると聞いた直後だ。
冷静になれなかった。
「百年使ってきたから安全なんて、理由にならないでしょう! 百年前から腹を壊してたかもしれないじゃないですか!」
「村を馬鹿にするな!」
「馬鹿にしてません!」
「なら出ていけ!」
別の男が叫ぶ。
俺も、売り言葉に買い言葉で返してしまった。
「分かりましたよ! 好きにすればいい!」
「コータロー殿」
エドガーが止めようとしたが、俺は聞かなかった。
「危ないかもしれないって教えただけなのに、何で俺が怒鳴られなきゃならないんだよ! 飲みたいなら好きなだけ飲めばいいでしょう!」
言ってから、まずいと思った。
でも、もう遅い。
村人たちは黙り込んでいる。
アニタの顔には失望が浮かんでいた。
「……宿に戻ります」
俺は逃げるように井戸を離れた。
◇
「最悪だ」
宿の裏手にある薪置き場で、俺は木箱に腰を下ろしていた。
ロルフが壁に寄りかかり、腕を組んでいる。
「言い方ってもんがあるだろ」
「分かってます」
「分かってねえから怒鳴ったんじゃねえか」
「今は反省してるんだから、正論で殴らないでもらえます?」
「便利な言葉だな、それ」
俺は顔を両手で覆った。
あれでは駄目だ。
たとえ俺が正しかったとしても、あんな言い方では反発される。
突然現れた余所者に、先祖代々使ってきた井戸が病気の原因だと言われたのだ。
怒るのも無理はない。
「でも、本当に危ないと思うんです」
「お前の世界じゃ、汚い水で病気になるのか?」
「なります。目に見えない小さな……生き物みたいなものが水に入って、それが身体の中に入ると」
「目に見えないのに、どうして分かる」
「そう言われると説明が難しいです」
「なら村人にも分からねえよ」
「ですよね」
ロルフは無精髭を撫でた。
「俺は難しいことは分からん。ただ、あの井戸の近くが臭いのは昔から気になってた」
「だったら」
「気になってても、飲まなきゃ生きていけねえ。ほかに井戸はないんだ」
その言葉で、俺は黙った。
飲むなと言うだけでは意味がない。
代わりの水がなければ、人は井戸水を飲むしかない。
俺は問題を指摘しただけで、解決策をきちんと示していなかった。
「水を沸かせば、たぶんかなり安全になります」
「薪がいるな」
「はい」
「村の全員分を毎日沸かすなら、かなりの量だ」
「……ですよね」
「井戸を掃除するにしても、その間の水をどうする」
「川の上流から汲むとか」
「歩いて一刻近くかかるぞ。水桶を持って何往復する」
一つ考えるたび、別の問題が出てくる。
知識だけでは足りない。
人手。
燃料。
道具。
そして村人の協力。
「俺一人じゃ何もできないな」
「当たり前だろ」
「もう少し優しく言えません?」
「知らん奴に優しくするほど暇じゃねえ」
「昨日から結構話してるでしょう」
「なら、少しは優しくしてやる」
ロルフは俺の隣に腰を下ろした。
「明日、もう一度話してみろ。今度は怒鳴らずにな」
「村の人、聞いてくれますかね」
「知らん」
「そこは大丈夫だって言ってくださいよ」
「嘘をつく方が優しいのか?」
「面倒くさい人だなあ」
「お前に言われたくねえ」
少しだけ笑った。
そのときだった。
宿の中から、何かが倒れる音がした。
続いてアニタの叫び声。
「ミーナ!」
俺とロルフは同時に立ち上がった。
店内へ駆け込む。
床に、小さな少女が倒れていた。
昨日、荷馬車を追いかけていた子供の一人だ。
顔が真っ赤で、身体を丸めて震えている。
「お腹……痛い……」
「ミーナ、しっかりしな!」
アニタが娘を抱き起こす。
少女は吐いた。
ほとんど水しか出ていない。
俺の足が止まった。
さっき、自分で言った言葉が頭に蘇る。
好きなだけ飲めばいい。
「医者を!」
俺が叫ぶと、アニタが顔を上げた。
「この村に医者はいない。隣町まで行かなきゃ」
「どのくらい?」
「馬でも半日だ」
「そんなに……」
ミーナの唇は乾いている。
汗をかいているのに、手足が冷たい。
俺は医者ではない。
診断なんてできない。
ただ、下痢や嘔吐で水分を失うのが危険なことは知っている。
「水を飲ませてください」
「吐いてるんだよ!」
「少しずつです。一度に飲ませるとまた吐くから、少しずつ。塩と砂糖はありますか?」
「あるけど、何に使うんだい」
「水に混ぜます。身体から出たものを補うために」
「井戸の水を使うのか」
アニタの声には、さっきの言い争いが残っていた。
俺は唇を噛む。
「沸かしてください」
「……」
「お願いします。俺が間違ってるかもしれない。でも、何もしないよりはましだ」
頭を下げた。
怒鳴り合った相手に頭を下げるのは、情けなかった。
正直、悔しかった。
でも、そんな意地に意味はない。
「俺一人じゃできません。力を貸してください」
しばらくして、アニタが大きく息を吐いた。
「塩と砂糖を持ってくるよ」
「ありがとうございます」
「礼は、この子が助かってからにしな」
俺はミーナのそばに膝をついた。
少女の苦しそうな呼吸を聞きながら、頭の中で必死に記憶を探る。
経口補水液。
水一リットルに砂糖六杯と塩半杯。
だが、この世界の匙の大きさは違う。
正確な計量器もない。
「くそ……」
知識がある。
それでも、すぐに正解を形にできない。
怖かった。
自分が間違えたら、この子が死ぬかもしれない。
逃げ出したかった。
でも、逃げれば一生後悔する。
「ミーナ」
呼びかけると、少女が薄く目を開けた。
「変な服のお兄ちゃん……」
「そうだよ。変な服のお兄ちゃんだ」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「さっき……怒鳴ってた」
「聞こえてたのか」
「村、小さいから……」
「そうだったな」
俺は苦笑した。
「ごめん。俺、すぐ怒るんだ」
「子供みたい」
「病人にまで言われた」
ミーナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
その笑顔を見た瞬間、腹が決まった。
「大丈夫だ」
自信なんてない。
それでも言った。
「俺が何とかする」
これは英雄の決意なんかではなかった。
怖くて、悔しくて、失敗したらどうしようと震えている、ただの十九歳の強がりだった。
それでも俺は、その夜初めて、自分の知識を誰かの命のために使うことになった。




