第3話 異世界初日の夕食が、固いパンと水だけだった件
王都を出てから、一時間ほど歩いたところで、俺は早くも後悔していた。
「異世界の道、歩きにくすぎるだろ……」
石畳が敷かれていたのは王都の周辺だけだった。
少し離れると、街道とは名ばかりの踏み固められた土の道になる。
昨夜に雨でも降ったのか、ところどころぬかるんでいる。
俺が履いているのは仕事用のスニーカーだ。
安全靴にしておけばよかった。
いや、コンビニへ行くのに安全靴を履く奴はいない。
「というか、何で俺、替えの靴下すら持ってないんだよ」
当たり前だ。
コンビニに弁当を買いに行っただけなのだから。
持ち物を確認する。
財布。
家の鍵。
スマートフォン。
ハンカチ。
ポケットティッシュ。
使いかけのボールペン。
ホームセンターの名札。
そして、王国から渡された金貨三枚と通行証。
あまりにも心細い。
スマートフォンを起動する。
電波はない。
バッテリーは七十一パーセント。
使い道がないとはいえ、電源を切る決心もつかなかった。
「母さん、心配してるだろうな」
口に出した途端、胸が詰まった。
朝になっても帰らない息子。
勤務先からは無断欠勤の連絡。
部屋には財布以外の荷物が全部残っている。
コンビニの防犯カメラには、突然消える俺の姿が映っているのだろうか。
それとも、召喚された痕跡ごと消えているのか。
「やめよう」
考えても仕方がない。
俺には戻る方法がない。
泣いたところで腹が減るだけだ。
とりあえず、今日の寝床と食事を確保しなければならない。
しかし問題がある。
「金貨一枚で、何が買えるんだ?」
役人は、節約すれば金貨三枚で一か月ほど暮らせると言っていた。
それだけを信じれば、一枚で十日分。
日本円で三万円くらいだろうか。
だが、この世界の通貨には金貨の下に銀貨や銅貨があるはずだ。
金貨一枚を差し出して釣り銭をごまかされたら、俺には判断できない。
ホームセンターでは、客に商品の値段を尋ねられれば端末で調べられた。
ここには端末も価格表示もない。
値札の大切さを、異世界で思い知るとは思わなかった。
「勇者様!」
突然、後ろから声がした。
振り返ると、荷馬車が近づいてくる。
手綱を握っているのは、でっぷり太った中年男だった。口ひげを蓄え、帽子をかぶっている。
「俺ですか?」
「その格好、異世界から召喚された勇者様でしょう?」
男が荷馬車を止めた。
荷台には木箱や麻袋が山積みになっている。隣には短剣を腰に差した若い男が座っていた。
「勇者ではないです」
「またまた。王都では昨日、十数人もの異世界人が召喚されたと噂になっていますよ」
「噂になるの早くないですか?」
「王都に秘密などありません。王宮が隠そうとすればするほど、酒場で話す者が増えるものです」
「いや、別に隠してなかったと思いますけど」
「では、勇者様では?」
「召喚はされました。でも、役に立たないから出ていけと言われました」
中年男の笑顔が固まった。
「それは……」
「反応に困りますよね。俺も困ってます」
若い男が荷台の上から俺をじろじろ見る。
「武器も持ってねえのか?」
「ないです」
「一人で歩いてたら、日が暮れるぞ」
「宿場町まで半日だって聞いたんですけど」
「王都の門を出てから半日だ。あんたがその足で歩いたら、夕方ぎりぎりだな」
俺は空を見る。
太陽はまだ高い。
ただし、この世界の一日が地球と同じ長さかは分からない。
中年男が顎を撫でた。
「私どもも、東の宿場町へ向かうところです。よろしければお乗りになりますか?」
「いいんですか?」
「もちろん、多少の代金はいただきますが」
来た。
異世界初の値段交渉だ。
「いくらです?」
「銀貨五枚でいかがでしょう」
高いのか安いのか分からない。
困った顔をすると、若い男が鼻で笑った。
「金持ってねえのか?」
「金貨なら三枚あります」
「金貨三枚!?」
若い男が身を乗り出した。
しまった。
自分の所持金を正直に言う馬鹿がどこにいる。
商人の顔つきが、ほんの少し変わった。
笑顔はそのままだが、目が俺の懐へ向いた。
「銀貨五枚で、金貨の何分の一ですか?」
俺が尋ねると、若い男は露骨に呆れた。
「そんなことも知らねえの?」
「昨日この世界に来たんです」
「ああ……そうか」
今度は本気で納得したらしい。
商人が説明する。
「金貨一枚が銀貨百枚。銀貨一枚が銅貨十枚です」
「つまり銀貨五枚は、金貨の二十分の一」
「その通りです」
金貨一枚を三万円と仮定すれば、千五百円。
馬車で数時間なら、妥当にも思える。
だが、そもそもの換算が正しいか分からない。
「宿場町の宿代はいくらです?」
「安宿なら食事付きで銀貨三枚から五枚ほどです」
「じゃあ馬車代の方が高いじゃないですか」
「馬と護衛を用意していますからね」
「銀貨三枚」
「四枚」
「三枚」
「では、荷物の積み下ろしを手伝っていただけるなら三枚で」
「やります」
「決まりですな」
商人が笑った。
ぼったくられたのか、うまく値切れたのかは分からない。
だが歩き続けるよりはましだ。
「それで、支払いなんですが」
俺は金貨を一枚取り出す。
「釣りはあります?」
「もちろん」
商人は小さな天秤を取り出した。
金貨を載せ、重さを確認する。
それから銀貨を九十七枚数え始めた。
俺は慌てて止めた。
「待ってください。こんなに持ち歩くの?」
「金貨を崩すとは、そういうことですが」
「重くないですか?」
「重いですな」
「何で笑ってるんです?」
「異世界人というのは、面白いものです」
「こっちは笑い事じゃないですよ」
結局、銀貨三十枚と、残りを小金貨六枚、銀貨七枚にしてもらった。
小金貨一枚は銀貨十枚相当らしい。
通貨制度を聞くだけで頭が痛くなる。
「俺、騙されてません?」
「信用とは商人の財産です」
「その台詞を言う商人、一番信用しにくいな」
若い男が吹き出した。
商人も楽しそうに笑った。
「私はエドガーと申します。王都と東部を行き来する雑貨商です。こちらは護衛のロルフ」
「久世孝太郎です」
「クゼが家名で、コータローが名ですかな?」
「はい」
「では、コータロー殿。荷台へどうぞ」
「殿はいらないです」
「元勇者様を呼び捨てにするわけには」
「元ですらないですよ。鑑定で落とされたので」
「勇者にも鑑定試験があるのか」
「就職面接みたいに言わないでください」
◇
荷馬車は、想像していたより乗り心地が悪かった。
車輪が石を踏むたび、尻が跳ねる。
「痛い。これ、ずっと乗ってるんですか?」
「慣れますよ」
「絶対、痔になりますよ」
「ジ?」
「何でもないです」
車輪には鉄の輪がはめられているが、揺れを吸収する仕組みはない。
日本で見た馬車の資料を思い出す。
板ばね。
楕円形の鋼を重ねたサスペンション。
あるいは革のベルトで車体を吊るす方式。
「ばねがあればな……」
「何です?」
エドガーが振り返る。
「この馬車、揺れを減らせないのかなって」
「腕の良い車大工なら多少は。ただし、貴族用の馬車は高いですよ」
「車体を、しなる板か革で浮かせるんです。車輪から直接振動が来ないようにして」
「ふむ」
エドガーの顔つきが変わった。
商人の顔だ。
「その話、詳しく聞かせていただけますか?」
「いや、俺も詳しい構造までは――」
言いかけた瞬間だった。
頭の奥で、何かが開いた。
以前、動画で見た馬車のサスペンションの解説。
画面。
図。
ナレーション。
板ばねの構造。
金属疲労。
固定方法。
記憶が、映像のように鮮明に蘇ってくる。
「……え?」
俺は頭を押さえた。
「どうしました」
「ちょっと待ってください」
次に、ホームセンターで扱っていた軽トラック用の補修ばね。
客から受けた質問。
先輩社員の説明。
商品カタログに載っていた図。
どれも、自分が今見ているかのようにはっきり思い出せる。
「そうか」
【記憶再現】。
ただ昔のことを思い出すだけではない。
曖昧だった記憶の輪郭まで、鮮明になる。
ただし、知らなかった部分までは出てこない。
「コータロー殿?」
「すみません。たぶん、簡単な構造なら説明できます」
「本当ですか」
「でも、この世界で同じ金属が作れるかは分からないです。加工できる職人がいるかも」
「それで十分です。王都へ戻った際、腕の良い職人に相談しましょう」
「俺、王都には戻らないですよ」
「では、東部の町で職人を探しましょう」
「そこまでするんですか?」
「乗り心地の良い荷馬車が作れれば、商売になります」
エドガーは笑う。
俺はその笑顔を見て、少しだけ警戒した。
この人は親切だ。
だが、善意だけで俺を乗せたわけではないのかもしれない。
俺が異世界人だから、何か変わった知識を持っていると期待した。
それは別に悪いことではない。
人間は、何の得もない相手にずっと親切ではいられない。
俺だって同じだ。
「利益が出たら、俺にも分けてくださいよ」
「もちろんです」
「今、一瞬だけ嫌な顔しました?」
「まさか」
「しただろ」
ロルフが声を上げて笑った。
「兄ちゃん、エドガー相手にちゃんと金の話ができるなら、異世界でも食っていけるかもな」
「金の話をしないと、金貨三枚で捨てられる世界だって分かったので」
「違いねえ」
◇
宿場町に着いたのは、空が赤く染まり始めた頃だった。
木造と石造りの建物が混在する小さな町。
道端には馬糞が落ち、煙と家畜と料理の匂いが入り交じっている。
エドガーに紹介された宿へ入る。
受付にいたのは、腕の太い中年女性だった。
「一泊、夕食と朝食付きで銀貨四枚」
「部屋、見てもいいですか?」
「見てどうするんだい」
「いや、どんな部屋か気になるので」
「ベッドと机がある。それ以上、何が必要なんだい」
「風呂は?」
女将は不思議そうな顔をした。
「桶なら貸すよ。銅貨五枚」
「桶」
「湯が欲しければ別に銅貨五枚」
「風呂は?」
「だから桶だよ」
俺は絶望した。
異世界転移初日にして、風呂文化のありがたさを思い知った。
「部屋、お願いします」
「先払いだよ」
銀貨四枚を渡す。
案内された部屋は、確かにベッドと机しかなかった。
ベッドというより、木枠の上に藁を詰めた袋を置いたものだ。
「王宮の物置、豪華だったんだな……」
しばらくして、夕食が運ばれてきた。
黒っぽいパン。
薄い野菜スープ。
水。
以上。
「肉は?」
「追加なら銅貨八枚だよ」
「お願いします」
「煮込みでいいかい?」
「何の肉です?」
「羊」
「じゃあ、それで」
せめて肉くらい食べたい。
異世界飯といえば、香草の利いた肉料理や、豪快なシチューを想像していた。
運ばれてきた羊肉の煮込みは、臭みが強く、塩辛かった。
パンは固い。
本当に固い。
両手で割ろうとしてもなかなか割れない。
「これ、食べ物ですよね?」
近くの席で酒を飲んでいたロルフが笑う。
「スープに浸すんだよ」
「最初に教えてくださいよ」
「見てりゃ分かると思った」
「異世界人に常識を求めないでもらえます?」
スープに浸すと、パンは少し柔らかくなった。
味は酸味が強い。
まずいとまでは言わない。
腹が減っているので食べられる。
だが、日本のコンビニ弁当が恋しかった。
「異世界の飯って、もっと夢があると思ってた」
「夢を食いたきゃ、金を出しな」
女将が遠くから言う。
「聞こえてたんですか」
「狭い宿だからね」
俺は固いパンを噛みながら考える。
この世界には魔法がある。
だが、暮らしが便利とは限らない。
水道もない。
風呂もない。
馬車は尻が痛い。
飯も保存性優先。
そして俺には、現代日本で見聞きした知識を、鮮明に思い出せる能力がある。
「もしかして」
俺の能力は、剣聖や大賢者のように戦うためのものではない。
だが。
戦う以外なら、役に立つのではないか。
石鹸。
農具。
保存食。
馬車。
衛生管理。
ホームセンターで見てきた商品。
動画で覚えた雑学。
学校で習った知識。
それらを、この世界で再現できたなら。
「いや、待て」
俺はすぐに自分を戒めた。
知識があっても、材料がない。
職人の技術も必要だ。
そもそも俺は専門家ではない。
動画で見た程度の知識で何でも作れるなら、日本でホームセンターの店員なんてやっていない。
「何を一人でぶつぶつ言ってるんだ?」
ロルフがこちらを見る。
「自分の能力について考えてました」
「やっぱり、すごい力を持ってるのか」
「物覚えがいいだけです」
「それだけ?」
「それだけらしいです」
「地味だな」
「知ってます」
俺はスープを飲み干した。
薄い。
もう少し塩以外の味が欲しい。
胡椒は高価なのだろうか。
ハーブはあるのか。
肉の臭みを取る方法くらいなら、いくつか思い出せる。
「まあ」
食器を置く。
「何ができるかは、やってみないと分からないか」
誰かが助けてくれるのを待っていても、俺は帰れない。
王国は俺を役立たずと決めた。
だったらまず、自分が自分の使い道を探すしかない。
その夜。
固いベッドの上で、俺は【記憶再現】を何度も試した。
昔見たキャンプ動画。
簡易浄水器。
火の起こし方。
燻製。
ロープの結び方。
どれも鮮明に蘇る。
ただし、見たことのない知識は出てこない。
万能ではない。
それでも、何もないよりずっとましだ。
「役立たず、か」
王宮で言われた言葉を思い出す。
悔しくないと言えば嘘になる。
見返してやりたい気持ちも、少しはある。
だが、それより今は。
「風呂に入りたい」
切実だった。
世界を救う前に、まず自分の生活をどうにかしたい。
そんな俺のささやかな望みが、やがてこの世界を大きく変えることになる。
このときの俺は、もちろんまだ何も知らなかった。




