第2話 勝手に召喚しておいて、退職金が金貨三枚ってどういうことだ
机の上に置かれた金貨は三枚。
異世界の朝日を受けて、腹が立つほどきれいに輝いていた。
「これを持って、王都を出ていただきたい」
役人らしい男は、同じ言葉をもう一度口にした。
聞き間違いではないらしい。
寝起きの頭が少しずつ現実に追いついてくる。
「……確認していいですか」
「何でしょう」
「俺は昨日、あんたたちに勝手に呼び出された」
「召喚の儀式を執り行ったのは宮廷魔術院です。私ではありません」
「担当部署の話はしてねえよ」
男の眉が、わずかに動いた。
面倒な客を相手にしている顔だった。
俺はその顔を知っている。
ホームセンターで、購入から半年経った使いかけの塗料を持ってきて、「色が思っていたのと違うから返品しろ」と言う客を相手にしたとき、たぶん俺も同じ顔をしていた。
だが、今回の返品希望者は俺だ。
商品ではなく、人生を返してほしい。
「俺には家があります。仕事もあります。家族だっている。昨日まで普通に生活してたんです。それを勝手に連れてきて、帰すことはできません、役に立たないから出ていってくださいって……おかしいと思いません?」
「お気持ちは理解します」
「絶対してないだろ」
「言葉を慎んでください」
「慎んだら帰してくれるんですか?」
男は答えなかった。
そこは黙るのか。
俺は椅子から立ち上がった。
「帰還方法は?」
「現在のところ、存在しないと聞いております」
「現在のところって何だよ。探してるのか?」
「それは私の管轄ではありません」
「じゃあ誰の管轄なんだ。そいつを呼んでくれ」
「お会いすることはできません」
「なんで?」
「必要がないからです」
その言い方で、頭の中の何かが切れた。
俺は机を叩いた。
金貨が跳ね、甲高い音を立てて転がる。
「必要がないわけあるか!」
役人が身を引いた。
「俺にとっては必要なんだよ! こっちは昨日まで普通に働いてたんだぞ! 今日だって出勤だった! 無断欠勤になってる! 母親だって心配してる! 警察に捜索願が出てるかもしれない! それを何だよ、管轄じゃありません、必要ありませんって!」
自分でも、どこまで怒鳴るつもりだったのか分からない。
怒りたかった。
誰かに責任を取らせたかった。
目の前の男に決定権がないことくらい、分かっている。
この男が俺を召喚したわけではない。
それでも、ほかに怒鳴る相手がいなかった。
「落ち着いてください」
「落ち着けるか!」
「大声を出されますと、衛兵を呼ばざるを得ません」
「呼べよ!」
勢いで言った。
言った直後に、廊下から鎧の擦れる音がした。
扉が開く。
昨日、神殿にいた騎士とは別の男が二人入ってきた。
腰には剣。
体格は俺より一回り以上大きい。
「問題か」
「久世殿が興奮されている」
「興奮って言い方やめてもらえます? 俺だけがおかしいみたいじゃないですか」
言い返しながらも、声はさっきより小さくなった。
怖い。
当然だ。
俺は喧嘩なんて高校時代に一度もしたことがない。
悪い客に怒鳴られた経験はあるが、その客は腰に剣を差していなかった。
騎士の一人が、床に転がった金貨を拾う。
「王国からの慈悲だ。受け取れ」
「慈悲?」
また腹が立った。
だが、さっきのようには怒鳴れなかった。
「勝手に連れてきて、元の場所へ帰せない。仕事も家も全部奪って、それで金を三枚渡すのが慈悲なんですか」
「貴様には勇者としての能力がなかった」
「そんなの俺のせいかよ」
「魔王軍と戦えぬ者を、王宮で養い続ける理由はない」
「だから帰せって言ってるんだろ」
「できぬものはできぬ」
「じゃあ、どうしろっていうんだよ……」
最後の言葉は、自分でも情けないくらい弱かった。
答えはない。
騎士も役人も黙っている。
俺を哀れんでいるのか、面倒だと思っているのか。それすら分からなかった。
ただ一つ分かったのは、ここで俺がどれだけ怒鳴っても、何も変わらないということだった。
殴りかかれば取り押さえられる。
剣を抜かれたら、たぶん死ぬ。
異世界へ来たら、剣を持つ相手にも啖呵を切れると思っていた。
漫画の主人公なら、きっとそうする。
俺には無理だった。
死ぬのは怖い。
痛いのも嫌だ。
俺は拳を握り、ゆっくり開いた。
「……王都を出るって、どこへ行けばいいんですか」
「東門から街道が延びています。宿場町を経由し、東部の諸都市へ向かうことができます」
「その金貨三枚で、どのくらい暮らせるんです?」
「倹約すれば、一月ほどは」
「一月」
短いのか長いのかも分からない。
この世界の物価を知らない。
文字も読めるか怪しい。
仕事の探し方も分からない。
「身分証明書は?」
「こちらを」
役人が薄い木札を差し出した。
名前らしきものが彫ってある。
見慣れない文字なのに、なぜか意味だけは分かった。
召喚のとき、言葉に関する何かを施されたのだろう。
「通行証も兼ねています。ただし、有効期間は三十日です」
「その後は?」
「滞在先の領主、または冒険者組合、商業組合などで手続きをしてください」
「冒険者組合……本当にあるんだ」
俺が呟くと、騎士の一人が鼻で笑った。
「魔物と戦えぬ貴様には縁のない場所だ」
「別に冒険者になるとは言ってないでしょう」
つい言い返す。
怖くても、腹が立つものは腹が立つ。
男は再び鼻を鳴らした。
俺は床から金貨を拾った。
三枚とも手のひらに載せる。
ずしりと重い。
「これは退職金ですか」
「何です?」
「いや、こっちの話です」
召喚されて一日。
勤続時間は二十四時間にも満たない。
仕事は何もしていない。
その意味では三枚でも多いのかもしれない。
そんなふうに考えないと、泣きそうだった。
「荷物をまとめてください」
「荷物なんてありませんよ」
俺が持っているのは、財布、スマートフォン、家の鍵、買った弁当。それから仕事着だけだ。
唐揚げ弁当は昨夜食べた。
冷めていたが、泣きそうなくらいうまかった。
日本で食べる最後の食事になるかもしれないと思うと、一口ずつ飲み込むのに時間がかかった。
「久世さん」
廊下から声がした。
振り返る。
昨日、一緒に召喚された高校生の一人が立っていた。
確か、最初の鑑定で【剣聖】と告げられた少年だ。
黒髪で、背が高い。
「相沢蓮です。昨日は、ちゃんと名乗れなかったので」
「ああ。久世孝太郎」
「知ってます。鑑定のときに」
「そりゃそうか」
蓮は役人と騎士を見る。
「本当に追い出すんですか」
「勇者様には関係のないことです」
「関係なくはないでしょう。一緒に召喚されたんですよ」
役人の態度が、俺に対するときより明らかに柔らかくなる。
「相沢様には剣術の訓練がございます。どうかお戻りください」
「でも」
「蓮」
呼び捨てにすると、少年がこちらを見る。
初対面の高校生を呼び捨てにするのは少し気が引けたが、苗字に様をつけられている横で「相沢君」と呼ぶのも変な感じがした。
「いいよ」
「よくないですよ」
「よくはないけど、ここでお前が揉めても仕方ないだろ」
「だけど、あんまりじゃないですか」
「うん。あんまりだよ」
認めると、蓮は言葉に詰まった。
正義感だけで何とかできる問題ではない。
昨日まで普通の高校生だった少年に、この国と交渉しろというのは酷だ。
蓮は懐から小さな革袋を取り出した。
「これ、使ってください」
袋の中で硬いものが触れ合う音がした。
「お金?」
「俺たちは支度金をもらったので」
「いくら」
「金貨十枚です」
「差がすごいな」
思わず笑った。
勇者は十枚。
無能は三枚。
分かりやすい世界だ。
「一枚だけでも」
「いらない」
「でも」
「お前がもらった金だろ。取っとけ」
「俺は王宮にいれば、食事も部屋も用意されます」
「だからって、もらえない」
「久世さん、こういうときに意地張ってる場合じゃないでしょう」
「分かってるよ」
少し強い言い方になった。
蓮が黙る。
俺は後悔した。
この少年に怒る筋合いはない。
「……ごめん」
「いえ」
「でも、本当にいいんだ。こういうときくらい、少しかっこつけさせてくれ」
「何ですか、それ」
「十九歳にもなると、年下から金をもらうのは結構くるんだよ」
「二歳くらいしか違わないじゃないですか」
「昨日は俺のこと先生だと思ったくせに」
「それは別の奴です」
「似たようなもんだろ」
蓮が初めて少し笑った。
それから、すぐに真顔へ戻る。
「戻る方法、俺も探します」
「無理するなよ」
「でも、俺たちのせいで巻き込まれたようなものです」
「お前らのせいじゃない」
「……」
「お前も被害者だろ。高校生なんだから、まず自分のことを考えろ」
「高校生だからって、子供扱いしないでください」
「じゃあ俺をおっさん扱いするな」
「してませんって」
短いやり取りだった。
だけど、少しだけ救われた。
この世界に来てから初めて、俺を能力ではなく、一人の人間として見てくれた気がした。
「じゃあな」
「また会えますよね」
「どうだろうな」
「会えます」
「何だ、その根拠のない自信」
「剣聖らしいので」
「関係あるか?」
笑って別れた。
笑っていないと、情けなく泣きそうだった。
◇
王都の東門は巨大だった。
高い石壁。
武装した門兵。
行き交う馬車と人々。
誰も俺の事情など知らない。
世界から切り離されたのは俺だけで、この街は昨日までと変わらない朝を迎えている。
「通行証を」
「これです」
木札を渡す。
門兵は一度確認し、俺へ返した。
「街道を外れるな。最近はゴブリンが出る」
「ゴブリン」
「知らんのか?」
「初めて聞きました」
嘘だ。
名前は知っている。
実物を知らないだけだ。
「武器は?」
「ありません」
「一人で行くつもりか?」
「そのつもりですけど」
門兵は露骨に嫌な顔をした。
「次の宿場町までは歩いて半日だ。昼前に出れば日暮れまでには着く。ただし、荷馬車が通れば乗せてもらえ。金は取られるだろうが、命より安い」
「あ、ありがとうございます」
追い出す側の王宮役人より、門兵の方が親切だった。
俺は城門を抜ける。
街道が東へ延びていた。
後ろを振り返る。
石壁の向こうには巨大な城が見えた。
俺を勝手に召喚し、役立たずと決めつけ、金貨三枚で捨てた国。
「絶対、二度と戻ってこねえからな」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
格好よく背を向ける。
数十歩ほど歩いた。
街道が二つに分かれていた。
標識が立っている。
文字は読める。
読めるのだが。
「東はどっちだよ」
どちらの標識にも、知らない町の名前しか書かれていない。
方角の表示がない。
俺はしばらく右と左を見比べた。
城門へ戻るのは恥ずかしい。
しかし適当に進んで遭難するのはもっと嫌だ。
五分悩んだ末、俺は来た道を戻った。
先ほどの門兵と目が合う。
「どうした」
「……東って、どっちですか」
門兵は黙って右を指さした。
「ありがとうございます」
「気をつけろよ」
笑われなかったのが、逆に少し恥ずかしかった。
俺は今度こそ右の道へ進む。
金貨三枚。
武器なし。
知り合いなし。
帰る方法なし。
あるのは、過去に覚えたことを思い出せるだけの能力。
「どうすんだよ、これから」
答えてくれる人はいない。
それでも歩くしかなかった。
異世界へ召喚されて二日目。
俺の新しい人生は、勇者でも英雄でもなく、無職から始まった。




