第39話 治す聖女と、病気を出さない俺は、最初から喧嘩になった
「では、治せる私に、治すなとおっしゃるのですか」
聖女セラフィナの声は静かだった。
だが、笑ってはいない。
集落の広場には、十数人の患者が寝かされている。
高熱で呻く老人。
咳を繰り返す男。
母親へしがみついたまま泣く子供。
そのうち三人には、腕や首へ黒い斑点が浮かんでいた。
「治すなとは言ってません」
俺は答えた。
「ただ、一人ずつ治してる間にも、新しい患者が増えてるんです」
「だから、今苦しんでいる方を放置しろと?」
「放置じゃない!」
自分でも、声が大きくなっているのが分かった。
「軽い人と重い人を分ける。水を飲める人には飲ませる。熱が高くても呼吸が安定してるなら、聖女様じゃなくても世話ができる。今すぐ治癒が必要な人を先に診てください」
「私は医師ではありません」
「知ってます」
「患者を見ただけで、誰が今すぐ危険なのか、すべて正しく選べるわけではないのです」
「だから確認するんです!」
「確認している間に亡くなったら?」
言葉が詰まった。
セラフィナは一歩近づく。
「孝太郎さん。あなたの言いたいことは分かります。感染を広げない。水と食事を分ける。人が集まりすぎないようにする。どれも必要です」
「なら」
「ですが、今この方たちは、私の手を待っています」
彼女の背後で、老人が苦しそうに咳き込んだ。
妻らしい女性が、泣きながら背中をさすっている。
「理屈を整えてから救うのでは、遅いこともあります」
「理屈じゃありません!」
「では何です」
「このままじゃ、明日にはもっと増える!」
「明日を守るために、今日の一人を見捨てるのですか!」
「見捨ててないって言ってるでしょう!」
「二人とも、声を抑えてください!」
エレオノーラが間へ入った。
「患者の前です」
広場にいた全員が、こちらを見ている。
助けを求めて呼んだ聖女と、異邦人が言い争っている。
不安にならないはずがない。
「……すみません」
俺が先に頭を下げた。
セラフィナも唇を噛み、患者たちへ頭を下げる。
「申し訳ありません」
だが、互いへの苛立ちは消えていない。
「聖女様」
リュシアが口を開いた。
「私からも聞く。森の患者は明朝まで待たせると言った。だが、ここで力を使い果たしたらどうする」
「使い果たしません」
「なぜ言い切れる」
「これまでにも、同じ人数を癒やしたことがあります」
「そのあと、何日寝込んだ」
セラフィナの目がわずかに揺れた。
「寝込んだのですね」
リュシアが追及する。
「二日ほどです」
「二日!?」
俺は思わず声を上げた。
「それで明日の朝、森へ行くつもりだったんですか!」
「今回は加減します」
「今、全員を治そうとしてたでしょう!」
「苦しんでいる方を前に、加減を考えられるほど器用ではありません!」
セラフィナも声を荒らげた。
言ったあと、自分で驚いたように口を閉じる。
「……私は」
彼女は拳を握った。
「治せるのです。すべてではありません。ですが、手を伸ばせば苦しみを減らせる。それなのに、力を残すため見ていろと言われても、できません」
その声には怒りだけではなく、恐怖が混じっていた。
「昔、そうしたことがあるんですね」
俺が尋ねると、セラフィナは答えなかった。
「孝太郎」
エレオノーラが低い声で止める。
「今、聞くことではありません」
「でも」
「聞かれたくないこともあります」
セラフィナは目を伏せた。
「十三の頃でした」
自分から話し始めた。
「小さな町で熱病が流行りました。教会の司祭は、私に力を残すよう命じました。翌日、領主の家族を癒やす予定があったからです」
誰も口を挟まない。
「私は命令に従いました。目の前の子供を癒やさず、朝まで待たせた。その子は、夜のうちに亡くなりました」
セラフィナの手が震えている。
「翌日、領主の息子を癒やしました。彼は助かりました。正しい判断だったと、皆が褒めました」
「……」
「ですが、亡くなった子の母親は、私へ言いました。聖女様の明日には、うちの子はいなかったのですね、と」
きつい。
責めることなどできなかった。
俺だって、その場にいたら何を選んだか分からない。
「それから私は、目の前で苦しんでいる方へ力を使うと決めました」
「だから、全部一人で治す?」
「できる限り」
「それで聖女様が倒れたら、次の子供は?」
セラフィナの顔が硬くなる。
「同じことを言わせないでください」
「言いますよ」
「孝太郎!」
エレオノーラが俺を睨む。
それでも止まれなかった。
「聖女様が昔見捨てた子を忘れられないのは分かります。でも、その子への償いで、今日の自分を壊してどうするんです」
「償いではありません!」
「じゃあ、何です!」
「二度と同じ間違いをしないためです!」
「一人で全部背負うのが、別の間違いかもしれないでしょう!」
セラフィナの目に涙が浮かんだ。
言いすぎた。
そう思ったが、今さら引っ込められない。
「俺も似たようなことをしました」
「何を」
「自分が動かなければ、誰も助けられないと思ってた。ラウル村でも、火事でも、森でも。寝ずに記録して、走って、全部確認しようとした」
「それで多くの方を助けたのでしょう」
「周りが助けたんです」
俺は広場を見回した。
「水を沸かした人。病人へ飲ませた人。火を消した人。記録した人。俺一人なら、たぶん最初の日で倒れてました」
「ですが、あなたが始めなければ」
「始める人と、全部やる人は違います」
自分へ言い聞かせるように言った。
「聖女様が今すぐ必要な人を治す。その間に、俺たちが次の患者を増やさないよう動く。どっちかだけじゃ足りないんです」
セラフィナは何も言わなかった。
そのとき、広場の端で女性が叫んだ。
「この人、息をしていない!」
俺たちは同時に振り向く。
寝かされていた大柄な男の胸が動いていない。
セラフィナが駆け寄る。
「皆さん、離れてください!」
男の胸へ両手を当て、祈りを唱える。
白銀の光が強く輝く。
一度。
二度。
男の体が跳ねる。
「戻って……お願いです」
セラフィナの額に汗が浮かぶ。
三度目の光。
男が大きく息を吸い込み、激しく咳き込んだ。
「息をした!」
家族が泣き崩れる。
セラフィナは安堵したように笑ったが、そのまま体が傾いた。
「聖女様!」
俺とエレオノーラが同時に支える。
「大丈夫です」
「大丈夫な人は、立ったまま倒れません!」
「少し眩暈がしただけです」
「座ってください」
「次の方が」
「座ってください!」
俺の声に、セラフィナが驚く。
「孝太郎さん」
「怒ると王女様より怖いって思ってましたけど、言うことを聞かないところも王女様と同じですね!」
「どうして私が巻き込まれるのです!」
エレオノーラが抗議する。
「事実でしょう!」
「私は必要な指示には従います!」
「国境へ勝手に来ましたよね!」
「今それを蒸し返しますか!」
セラフィナが、俺たちに支えられたまま笑った。
「本当に仲がよろしいのですね」
「笑ってる場合じゃありません!」
セラフィナを椅子へ座らせる。
彼女はまだ立ち上がろうとするので、リュシアが肩を押さえた。
「動くな」
「患者が」
「今治した男の家族を見ろ」
リュシアが指さす。
助かった男の妻と息子が、泣きながらセラフィナへ頭を下げている。
「お前がここで倒れれば、あの者たちは自分たちのせいだと思う」
セラフィナの動きが止まった。
「助けられた側へ、新しい罪悪感を背負わせるな」
「……厳しいことをおっしゃいますね」
「私は人間が嫌いだからな」
「それは関係あります?」
「ない」
セラフィナは小さく笑い、ようやく背もたれへ体を預けた。
◇
その後、広場の中央へ長い縄を張った。
患者を三つに分ける。
呼びかけへ反応せず、呼吸が苦しい者。
意識はあるが、水を飲めず、高熱や激しい咳がある者。
自分で水を飲めて、歩ける者。
「人を並べて選別するのか」
村の男が不安そうに言った。
「見捨てるためじゃありません」
俺はできるだけゆっくり説明した。
「聖女様の力が今すぐ必要な人を先に見つけるためです」
「うちの母親が後回しになったら?」
「水を飲めるなら、先に水と休む場所を用意します。その間も世話役はつきます」
「軽いと判断したあと、急に悪くなったら!」
「何度も見直します」
「誰が」
「俺と、教会から来た治療士。それから村の中で協力できる人です」
「俺たちは医者じゃない!」
「息が苦しそうか。水を飲めるか。名前を呼んで答えるか。それなら確認できます」
完全な診断ではない。
だが、何もしないよりはましだ。
「記録係が必要です」
俺が言うと、村人たちは目を逸らした。
「文字を書ける者は?」
一人も手が挙がらない。
エレオノーラが周囲を見回す。
「数字だけでも構いません」
「王女様」
若い娘が恐る恐る手を上げた。
「私は、教会で少しだけ文字を習いました。でも、人の命を書くなんて怖いです」
「怖くて当然です」
エレオノーラは娘の前へ歩み寄る。
「私も怖いです」
「王女様でも?」
「むしろ、怖くない者へ任せる方が不安です」
「間違えたら」
「一人で決めさせません。あなたが書き、孝太郎と治療士が確認します」
娘は迷ったあと、頷いた。
「やります」
「ありがとうございます」
エレオノーラは自分から頭を下げる。
次に、元気な村人を集めて役割を分けた。
水を運ぶ者。
火を焚く者。
布を煮る者。
患者の家族へ説明する者。
家畜を井戸から離す者。
亡くなった者が出た場合の場所まで、決めなければならなかった。
「縁起でもない!」
村長が怒る。
「誰も死んでいないうちから、死体の置き場を決めるのか!」
「決めたくありません」
俺は答えた。
「でも、出てから考えれば家族が混乱します」
「死ぬと決めつけている!」
「生きてほしいから準備するんです!」
「そんな言葉で納得できるか!」
村長は俺の胸を突いた。
「お前は、家族が死ぬ側ではないから言える!」
「そうです」
俺が認めると、村長の手が止まる。
「今、ここに俺の家族はいません。だから、家族を失う人と同じ気持ちだとは言えません」
「なら黙れ」
「でも、黙った結果、もっとつらくなるのは嫌です」
「お前が嫌かどうかなど」
「村長!」
セラフィナの声が飛んだ。
椅子へ座って休んでいたはずなのに、いつの間にかこちらを見ている。
「孝太郎さんの言う通りです」
「聖女様まで!」
「私は多くの死を見ました。備えがなかったため、亡くなった方と重症者が同じ場所へ置かれ、家族が何時間も気づけなかったこともあります」
村長の顔が青ざめる。
「そのようなことを、ここで繰り返したくありません」
「しかし」
「場所を決めたからといって、死を望む者はいません」
セラフィナは俺を見る。
「ただし、言い方は下手です」
「そこは今言います?」
「今だから言います」
柔らかく笑っている。
少し元気が戻ったらしい。
◇
夜半までに、患者は二十二人へ増えた。
だが、増え方は鈍くなった。
黒い斑点が出た者は四人。
全員が、黒く濁った川の水を直接飲んだわけではない。
共通していたのは、村の共同倉庫で配られた粥だった。
「粥?」
俺は記録を見直した。
「食べたのは患者だけ?」
「いや、集落のほとんどが食べた」
村長が答える。
「では、材料は?」
「麦と干し茸だ。配給の麦を少しでも増やすため、森の縁で採れた茸を混ぜた」
リュシアの顔が変わる。
「どの茸だ」
「灰色で、傘の裏が黒いものだ」
「黒雨茸か?」
「名前は知らん」
「保存場所を見せろ!」
リュシアが走り出す。
俺たちも倉庫へ向かった。
袋に詰められた干し茸。
その一部へ、黒い粉が薄く付着している。
「森の神樹の粉と同じ?」
俺が尋ねる。
「似ている。だが、黒雨茸は元から裏が黒い」
「見分けられますか」
「湿らせれば、病んだものは臭いが変わる」
リュシアは茸を一つ取り、離れた場所で水へ浸した。
しばらくすると、甘く腐った臭いが広がる。
「これだ」
俺は口元を布で覆った。
「患者が増えた原因は、この茸かもしれない」
「では、病ではなく毒なのですか」
セラフィナが尋ねる。
「分かりません。茸についた何かで体調を崩してる可能性もあるし、それで弱った人へ別の病気が出てる可能性もあります」
「でも粥を止める理由にはなる」
エレオノーラが即座に決める。
「倉庫を封鎖します。配った家を確認し、残りを回収してください」
「食料を捨てるのか!」
村長が叫ぶ。
「冬を越せなくなる!」
「今食べれば、明日まで生きられないかもしれません」
「では代わりを寄越せ!」
「出します」
エレオノーラは一瞬も迷わなかった。
「王都の備蓄から」
「殿下」
同行した役人が青ざめる。
「これ以上出せば、王都の配給が」
「分かっています」
「王都で暴動が起きます!」
「では、私の食事と城の食事を先に減らしてください」
「それだけでは足りません!」
「足りない分は、また決めます」
「そんな!」
「今は、この粥を止めます」
エレオノーラの声に、反論を許さない強さがあった。
それでも彼女の手は、わずかに震えている。
簡単に決めているのではない。
王都の誰かの食事を減らす決断だ。
「王女様」
「何です」
「一人で決めないでください」
「今すぐ止める必要があります」
「止めるのは賛成です。でも補償の量と、どこから出すかは宰相と財務官にも確認する」
「時間が」
「今夜の分だけ先に出す。明日からは全員で決める」
エレオノーラは少し不満そうに俺を見る。
「共同責任者らしいことを言いますね」
「時々は言いますよ」
「時々では困ります」
「褒めてるんですか、叱ってるんですか」
「両方です」
やはり面倒だ。
でも、嫌ではなかった。
◇
夜が明ける頃。
新たに倒れる者はいなくなった。
治癒を受けた重症者は四人。
セラフィナは本当に四人で止めた。
五人目の前では長く迷ったが、治療士へ指示し、水分と呼吸の管理を任せた。
「怖いです」
彼女が小声で言った。
広場の端。
朝の薄い光の中で、俺たちは並んで座っていた。
「何がです」
「あの方が、私の見ていない間に亡くなることが」
「俺も怖いです」
「孝太郎さんは、よく平気な顔で役割を分けられますね」
「平気じゃありません」
「そうは見えませんでした」
「喋ってないと怖くなるので」
「リュシアさんから聞きました」
「何を?」
「あなたは恐怖を隠すため、余計なことを言うと」
「そこまで言いました?」
リュシアは少し離れた場所で、患者の食事記録を確認している。
耳がこちらへ向いていた。
絶対に聞いている。
「聖女様も」
「セラフィナで構いません」
「では、セラフィナさんも一人で全部治そうとするのは、怖いからですか」
「……そうかもしれません」
彼女は自分の掌を見つめた。
「自分の手が届かなかったと言い訳したくないのです」
「手は二本しかありませんよ」
「知っています」
「力も無限じゃない」
「知っています」
「それでもやる?」
「やりたくなります」
「面倒ですね」
「あなたに言われたくありません」
ようやく笑った。
「これからは、役割を分けましょう」
セラフィナが言う。
「私は重症者を治します」
「俺は病人を増やさないよう、水、食事、人の流れを調べる」
「リュシアさんは森と食材の確認」
「王女様は人と物を動かす」
「それでよいと思います」
「でも、また意見がぶつかりますよ」
「ぶつかるでしょうね」
「そのときは?」
「喧嘩します」
俺は彼女を見る。
「聖女様がそんなこと言っていいんですか」
「セラフィナです」
「訂正するところ、そこです?」
「喧嘩をしないことより、黙って間違える方が危険でしょう」
この聖女も、かなり面倒な人だった。
「ただし」
セラフィナは笑顔のまま、俺を指さした。
「孝太郎さんは、今から眠ってください」
「森へ行くんでしょう」
「馬車の中で眠れます」
「道が揺れるので無理です」
「眠ってください」
「記録の整理が」
「眠ってください」
笑顔の圧が強くなる。
後ろからエレオノーラの声がした。
「私も賛成です」
「リュシアもだ」
「三人で決めないでください!」
振り返ると、王女、エルフ、聖女が並んでいた。
全員、疲れている。
全員、俺へ怒っている。
「なぜ俺だけ監視されてるんですか」
「自覚がないからです」
エレオノーラ。
「放っておくと倒れる」
リュシア。
「自分を人数へ入れない働き方をするからです」
セラフィナ。
三方向から正論が飛んできた。
「分かりましたよ。寝ます」
「本当に?」
「寝ます!」
朝日の中、森へ向かう馬車が用意される。
治す聖女。
病人を増やしたくない俺。
森を守りたいエルフ。
国全体を動かす王女。
ようやく役割は決まった。
ただし、その日の夜。
俺の夕食を誰が用意するかで、三人は再び本気の喧嘩を始めることになる。




