第38話 聖女様が来た。笑顔は優しいのに、怒ると王女様より怖い
「誰か来てくれ! 子供が倒れた!」
悲鳴が上がった瞬間、白い法衣の女性――聖女セラフィナは走り出した。
速い。
長い銀髪も、泥を跳ね上げる白い靴も気にせず、井戸端へ一直線に駆けていく。
「俺たちも!」
「孝太郎、待ってください!」
エレオノーラの制止を聞くより先に、俺はセラフィナを追った。
十歩で息が切れた。
「聖女様、速すぎません!?」
「倒れた方へ向かうのに、ゆっくり歩く理由がありますか!」
「正論ですけど、少しはこっちの体力も!」
「あなたの体力は、あとで鍛えてください!」
初対面なのに怒られた。
しかも走りながら。
井戸のそばには、小さな女の子が倒れていた。
カレルの孫より少し幼い。母親らしい女性が泣きながら抱き起こそうとしている。
「動かさないでください」
セラフィナの声は穏やかだった。
「でも、この子が!」
「大丈夫です。まず呼吸を見ます」
彼女は泥へ膝をつき、子供の口元へ耳を寄せる。それから額、首、胸へ手を当てた。
女の子の頬には、まだ黒い斑点はない。
だが高熱があるらしく、顔が赤い。
「いつから熱が?」
「今朝からです! 少しだるいって言っていたけど、さっきまで歩いていて、それで急に……」
「吐きましたか」
「一度だけ」
「下痢は」
「ありません」
「井戸の水を飲みました?」
「飲みました。でも、黒い川の近くの井戸じゃありません! 村の真ん中の深い井戸です!」
「責めていません」
セラフィナは母親の手を握った。
「順番に確かめています。お母様が悪いわけではありません」
泣き崩れそうだった母親が、かろうじて頷く。
こういう言葉がすぐに出る。
俺にはできない。
俺なら「水は沸かしましたか」と聞いて、相手を責めているように受け取られたあと、慌てて言い訳するところだ。
「聖女様」
俺は息を整えながら、女の子の顔を見る。
「森の患者と同じ病気だと思いますか」
「まだ分かりません」
セラフィナの返事に、リュシアの耳が動いた。
「聖女も分からないと言うのか」
「分からないものを、分かるとは申しません」
「孝太郎と同じだな」
「そこ、俺を見る必要あります?」
セラフィナは女の子の胸へ両手を重ねた。
「今は熱を下げ、呼吸を楽にします」
柔らかな声で祈りの言葉を唱える。
白銀の光が、彼女の指先からあふれた。
光は子供の胸から全身へ広がり、赤かった頬が少しずつ元の色へ戻っていく。
「すごい……」
俺は思わず呟いた。
ラウル村では、水を沸かし、少しずつ飲ませ、ひたすら回復を待った。
目の前の聖女は、ほんの数分で苦しそうな呼吸を落ち着かせた。
「ミナ!」
母親が娘の名を呼ぶ。
女の子の瞼が開いた。
「お母さん……」
「よかった!」
母親が抱きしめようとする。
「待ってください」
セラフィナが止めた。
「抱きしめてはいけないのですか!」
「いいえ。顔と顔を近づけず、手を洗ってからにしましょう」
俺はセラフィナを見た。
彼女もこちらを見る。
「あなたが、ラウル村で手洗いと煮沸を広めた異邦人ですね」
「知ってるんですか」
「教会へ報告が届いています。病人を一か所へ集めず、世話役を分けたとも」
「そんなに詳しく?」
「報告書の半分は、あなたが村人と喧嘩した記録でした」
「そこまで送らなくていいでしょう!」
誰だ、書いたのは。
たぶんラウル村の司祭か、エレオノーラの役人だ。
「ただの発熱かもしれません」
セラフィナはミナの額へ触れた。
「しかし黒い水が流れた地域で、森にも未知の病が出ている。念のため、他の子供たちとは分けて休ませましょう」
「聖女様まで隔離するのですか」
村人の一人が不安そうに尋ねる。
「隔離ではありません」
セラフィナは微笑んだ。
「体を休めるため、静かな部屋へ移すだけです。お母様も付き添えます。ただし、世話をする方を増やしすぎないようにします」
「言い方が上手い……」
俺が呟くと、エレオノーラが追いついてきた。
「孝太郎にも見習ってほしいものです」
「聞こえてたんですか」
「あなたの声はよく通りますから」
「王女様も走ってきたんです?」
「当然です」
エレオノーラは少し息を切らしていた。
裾には泥がついている。
「怪我はありませんか」
「俺より先に子供を聞いてください」
「子供の容体は聖女様が診ています。あなたは一人で川へ近づき、森で何度も危険な目に遭った直後です」
「共同責任者って、健康管理まで含まれるんですか」
「含めました」
「いつ?」
「今です」
「勝手に増やさないでください!」
セラフィナが俺たちを見て、くすりと笑った。
「仲がよろしいのですね」
「仕事仲間です」
エレオノーラが即答する。
「共同責任者です」
俺も訂正する。
「同じことでは?」
セラフィナが首を傾げた。
「違います」
「どこが?」
「それは……」
エレオノーラが詰まる。
リュシアが横から口を挟んだ。
「この二人も分かっていない」
「リュシアまで余計なことを!」
「森で聞いた通りだ」
「森で何を話してるんですか!」
ミナが寝かされたあと、セラフィナは村の井戸をすべて見て回った。
深い井戸。
浅い井戸。
洗い場。
家畜の水場。
汚れた布を洗う場所。
見るたびに質問し、答えを紙へ書かせる。
「聖女様も記録するんですね」
「癒やしは便利です」
セラフィナは深い井戸の縁を確認しながら答えた。
「ですが、誰がどこで水を飲み、いつ症状が出たかは、祈っても分かりません」
「治癒魔法で病気そのものは消せないんですか」
「消せるものもあります。傷を塞ぐ。熱を下げる。衰えた体力を戻す。毒を薄める。しかし、原因が残っていれば、また病みます」
「黒い病も?」
「まだ診ていないので断言できません」
セラフィナはそう言うと、俺の持っている記録紙へ目を向けた。
「森の患者の記録を見せてください」
「ここに写しがあります」
フィル、ミラ、トルガ。
症状の出た順番。
水と食事。
神樹の膏薬。
清めの煙を止めたあとの変化。
セラフィナは立ったまま、最初から最後まで読んだ。
「非常に細かいですね」
「褒めてます?」
「字が小さすぎます」
「ロルフさんと同じこと言う!」
「内容は役立ちます。しかし、皆が読めなければ記録の意味が半分になります」
「次は大きく書きます」
「次と言わず、今日から」
「聖女様、意外と厳しいですね」
「命に関わることへは、少し」
笑顔は柔らかい。
なのに断りにくい。
エレオノーラとは別の種類の圧がある。
「森へ行きます」
セラフィナが言った。
「今から?」
「患者が三人いるのでしょう」
「もう夕方です。森へ入れば、着くのは夜になります」
リュシアが答える。
「ならば夜に着きます」
「道は危険だ」
「患者は夜になると病を休むのですか」
「休まない」
「では行きます」
リュシアが俺を見る。
「聖女とは、皆こうなのか」
「俺に聞かれても」
「王女より強引ではないか」
「聞こえていますよ」
エレオノーラが冷たく言う。
「誰が強引ですか」
「比較の話だ」
「私と比べる必要はありません」
「王女様、そこに反応します?」
「孝太郎は黙っていてください」
セラフィナは三人を見比べ、微笑んだ。
「皆様、仲がよろしいのですね」
「違います!」
三人の声が重なった。
聖女は楽しそうに笑った。
◇
森へ出発する準備をしていると、村の鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
水の異常を知らせたときとは違う、短く連続した鳴らし方だ。
「今度は何です」
俺が尋ねるより早く、農務官が走ってきた。
「東の集落から使いが! 高熱の患者が七人出ました!」
「七人?」
「うち二人に、黒い斑点があるそうです!」
広場が騒然となる。
セラフィナの表情から笑みが消えた。
「馬車を東へ向けます」
「森はどうする」
リュシアが詰め寄る。
「フィルたちも待っています!」
「分かっています」
「分かっているなら、森へ来い!」
「今、重症者が増えた場所へ行きます」
「人間だからか」
リュシアの声が低くなる。
「人間の患者を優先するのか」
「近いからです」
「森の三人は、ずっと苦しんでいる!」
「だからこそ、今夜は急に増えた場所を見ます。明朝、必ず森へ向かいます」
「明朝までに弟が悪化したら!」
「リュシア」
俺が止めようとする。
「黙れ!」
リュシアの目に涙が浮かんでいた。
「お前たちは、いつもそうだ。人間に病が出れば、森はあとにされる!」
セラフィナは怒らなかった。
ただ、リュシアの前へ立つ。
「弟さんを見捨てません」
「言葉なら何とでも言える」
「では、約束します」
「人間の約束など」
「明日の朝日が昇る前に、森へ向かいます」
「東の患者が治らなくても?」
「必要な処置をし、残る者へ引き継ぎます」
「お前一人で、すべて治せるのか」
「治せません」
聖女ははっきり答えた。
「私一人がすべてを治そうとすれば、かえって多くの方を見捨てます。だから人を教え、役割を分けます」
リュシアは黙った。
その答えは、俺にも刺さった。
一人で全部やろうとする。
自分が動かなければ何も進まないと思い込む。
それは責任感ではなく、周りを信用しない傲慢になることもある。
「孝太郎さん」
「はい」
「東の集落へ同行してください」
「俺も?」
「発熱者と井戸、食事の記録をお願いします」
「聖女様は?」
「重症者を診ます」
「リュシアはどうします」
「森へ戻る使者を出し、フィルさんたちの今夜の症状を記録してもらってください。朝、私が確認します」
セラフィナは次々と役割を決めていく。
「エレオノーラ殿下」
「何でしょう」
「患者を休ませる家と、世話役を確保してください。元気な方が一つの場所へ集まりすぎないよう、説明もお願いします」
「承知しました」
「煮沸用の薪と、清潔な布も」
「手配します」
エレオノーラが即答する。
「二人とも話が早いですね」
俺が言うと、セラフィナがこちらを見た。
「孝太郎さん」
「はい」
「今は感心している場合ではありません」
笑顔だった。
しかし、なぜか背筋が伸びた。
「すみません」
「それから、あなたは昨夜もほとんど眠っていないと聞きました」
「誰から?」
ロルフが目を逸らした。
「また報告したんですか!」
「必要な情報だ」
「私が重症者を診ている間に、半刻だけ休んでください」
「患者が増えてるのに眠れませんよ」
「眠ってください」
「でも記録が」
「眠ってください」
笑顔のまま、声だけが低くなった。
「無理をした者が倒れれば、世話をする手が一人減ります。自分を数へ入れない働き方を、献身とは呼びません」
「……はい」
「よいお返事です」
怖い。
優しいのに怖い。
エレオノーラが横で、わずかに満足そうな顔をしている。
「何です、その顔」
「私以外にも、孝太郎を止められる方が現れたと思っただけです」
「俺を何だと思ってるんですか」
「止めなければ、寝ずに三日ほど働く人です」
「そこまでは」
「やりますね」
リュシアまで同意する。
「味方がいない!」
白い馬車が東の集落へ向けて出発する。
俺とセラフィナ、医療道具、清潔な布。
エレオノーラたちは別の馬車で、物資と人員を整える。
リュシアは森へ伝令を送ったあと、俺たちへ同行することになった。
「森の使者が、なぜ人間の集落へ来るんです」
俺が尋ねると、リュシアは不機嫌そうに答えた。
「人間の黒い斑点と、フィルのものが同じか確かめる」
「弟さんのため?」
「森のためだ」
「素直じゃないなあ」
「馬車から落とすぞ」
「この速度で!?」
東の空には、日が沈みかけていた。
その下を、何人もの村人がこちらへ向かって走ってくる。
一人。
二人。
三人。
皆、助けを求めている。
聖女セラフィナは馬車の窓から彼らを見つめ、両手を強く握っていた。
「七人ではありません」
彼女が呟く。
「もっといます」
集落の入口には、すでに十数人の患者が横たわっていた。
そのほとんどが、聖女一人の治癒を待っている。
セラフィナは馬車から降りると、すぐ患者へ向かった。
俺はその背中へ声をかける。
「全員を一人で治す気ですか」
「目の前で苦しんでいる方を、放ってはおけません」
「でも、それじゃ聖女様が先に倒れます!」
彼女が振り返る。
初めて、その優しい顔に苛立ちが浮かんだ。
「では、治せる私に、治すなとおっしゃるのですか」
次の瞬間。
集落の奥から、さらに鐘が鳴った。
治す聖女と、病気を増やさないために動く俺。
たぶん俺たちは、最初から喧嘩になる運命だった。




