第37話 失敗を隠さなかったら、農民がもう一度だけ信じてくれた
村の広場には、朝から人が集まっていた。
試験畑へ種を播いた者だけではない。
隣村の農民。
王都から来た役人。
森の古代麦に期待していた商人。
それから、何の話かよく分かっていないのに、大人たちの険しい顔を見て不安そうにしている子供たち。
広場の中央には、小さな卓が置かれていた。
その上に載っているのは、腐った古代麦の種だ。
黒く変色し、指で触れば崩れる。
どう見ても、成功の報告ではない。
「人が多すぎません?」
俺が小声で言うと、隣に立つエレオノーラは前を向いたまま答えた。
「隠さないと言ったのは、孝太郎でしょう」
「言いましたけど、村の人だけだと思ってました」
「王都でも噂になっています。古代麦は、国中が期待していた種です」
「帰りたいなあ……」
「逃げたら、カレルが鍬を持って追ってくるそうですよ」
「王女様までそれを言うんですか」
「逃げないよう励ましているのです」
「もっと優しい励まし方があるでしょう!」
エレオノーラは少しだけ笑った。
その笑顔も、すぐに消える。
彼女も緊張している。
今日は俺だけが責められる場ではない。
王国とエルフの仮合意に基づき、王家が認めた試験だった。だからエレオノーラも、王女として隣へ立っている。
「孝太郎」
「はい」
「言葉に詰まったら、私が引き取ります」
「駄目です」
「なぜです」
「最初に説明するのは俺です。王女様が先に話したら、王家の権威で黙らせたみたいになる」
「そのつもりはありません」
「分かってます。でも、そう見えることはあります」
エレオノーラは少し考え、頷いた。
「では、孝太郎が話してください」
「はい」
「ただし、責任をすべて一人で背負うような言い方は許しません」
「まだ何も言ってませんよ」
「顔に書いてあります」
「俺の顔、最近何でも書かれすぎじゃないですか?」
「読みやすいのです」
「褒めてませんよね」
「ええ」
ひどい。
だが、いつものやり取りをしたおかげで、少しだけ息が楽になった。
カレルが広場の端から歩いてくる。
「兄ちゃん。始めるぞ」
「もう少し心の準備を」
「二週間も芽を待った。まだ待たせるのか」
「厳しいなあ」
「種を腐らせた男に、今日は優しくする気はない」
「ですよね」
俺は卓の前へ立った。
ざわめきが少しずつ消えていく。
誰も笑っていない。
俺を英雄のように見る者もいれば、最初から信用していなかったという顔の者もいる。
「まず、結果から話します」
口の中が乾く。
「エルフの森から借りた古代麦を四つの区画へ播きました。何も加えない区画。灰を加えた区画。腐葉土を加えた区画。排水をよくした区画です」
「そんな説明はいい!」
群衆の中から声が飛んだ。
「芽が出たのか、出なかったのか!」
「出ませんでした」
静かになった。
分かっていた者も多い。
それでも、俺自身の口から聞きたかったのだろう。
「一つもです。播いた種は土の中で腐りました」
「国宝を無駄にしたのか!」
「異邦人なら何でも知ってるんじゃなかったのか!」
「俺たちの畑を試し物にして!」
怒号が重なる。
逃げたい。
耳を塞ぎたい。
けれど、どれも間違っていない。
「はい」
俺は声を張った。
「種を無駄にしました。畑も二週間使いました。準備と記録に、村の人たちの時間も使わせました」
「謝って済むと思うな!」
「済むとは思っていません」
「なら、どうする!」
俺は用意した紙を広げた。
「使った種の量。畑の面積。作業に参加した人数と日数。すべて記録しました」
農務官が横から木札を運び、卓へ立てる。
文字が読めない者にも分かるよう、種袋や人の姿、日数を線と印で示してある。
「試験で使った畑の分は、次の収穫まで王国が補償します」
「何で払う!」
「王国に金はないだろう!」
「金だけでは払いません」
ざわめきが大きくなる。
「王都から人を出します。畑の排水溝、村道の補修、共同井戸の蓋作り。試験で失った労働日数に相当する仕事を、王国側が負担します」
農務官が小さく咳払いした。
自分も土を運ぶことになっているので、顔が暗い。
「麦での補償はないのか!」
「一部は、取り戻した麦から出します」
エレオノーラが前へ出た。
「ただし、すべてを補える量ではありません。王都や他の村にも配給が必要だからです」
「結局、足りないではないか!」
「はい」
エレオノーラは目を逸らさなかった。
「足りません。だから、足りないものを足りるように見せる約束はしません」
「王女様が頭を下げれば、腹が膨れるのか!」
「膨れません」
「なら帰れ!」
「帰りません」
エレオノーラの声は静かだった。
「王家の政策として認めた試験です。失敗した以上、私もここに残り、補償の内容を皆さんと決めます」
「畑も知らない王女が何を決める!」
「教えてください」
「何?」
「私は畑を知りません。城の菜園を耕した程度です。ですから、皆さんの仕事を教えてください。何日分を失ったのか。何があれば、次の作付けまでつなげられるのか」
群衆の勢いが、わずかに鈍る。
頭を下げて謝るより、知らないと認める方が難しいことがある。
王女という立場なら、なおさらだ。
「異邦人」
別の男が俺を指さした。
「原因は何だ」
「分かっていることが一つあります。古代麦は播く前に、森の泉で汲んだ『月の水』へ浸す習慣がありました」
「聞いていなかったのか」
「はい」
「エルフに騙されたのか!」
視線がリュシアへ集中する。
彼女は広場の後ろに立っていた。
矢を持ってはいない。
それでも、敵意を向けられれば長い耳が硬く立つ。
「騙してはいない」
「黙っていたんだろう!」
「人間の土地でも必要だとは思わなかった」
「同じことだ!」
農民の一人が土の塊を拾った。
投げようとした手を、カレルがつかむ。
「やめろ」
「だが、こいつらのせいで!」
「投げて種が戻るのか」
「戻らない!」
「なら投げるな。話が終わってから怒れ」
「終わっても怒る気ですか」
俺が聞くと、カレルは睨んだ。
「当たり前だ」
「ですよね」
リュシアが前へ出る。
「水のことを伝えなかったのは私の失敗だ」
広場が静まった。
「私は、人間が古代麦を育てられるか確かめる必要があると思っていた。森のやり方をすべて教えれば、種を奪われるかもしれないとも思った」
「やはり隠したのか!」
「隠した」
リュシアは言い逃れをしなかった。
「森は人間を信用していない。私もしていない」
「なら、なぜ種を出した!」
カレルが問いかける。
「弟を助けられたからだ」
「それだけか」
「それだけで種を渡すには、私たちは長く争いすぎた」
リュシアの声が少し震える。
「だから一部を教え、一部を隠した。人間が失敗すれば、やはり森の種は人間には扱えないと言えると思った」
「最初から失敗を望んでたんですか」
俺が尋ねると、リュシアはすぐに答えなかった。
「……半分は」
「半分?」
「成功してほしいとも思っていた。人間の畑で古代麦が育てば、森の病を止めるための交換ができる。だが成功すれば、人間はもっと種を欲しがる。森へ入ってくる。どちらも怖かった」
「面倒ですね」
「お前にだけは言われたくない!」
リュシアが怒鳴る。
広場から、思いがけず小さな笑いが起きた。
張り詰めていた空気が、ほんの少し緩んだ。
「俺も失敗しました」
俺は続けた。
「水の話を聞かなかったことだけではありません。四つに条件を分ければ、一つくらい芽が出ると思っていました。自分の知識なら何とかできると、どこかで考えていた」
「本当に何も知らないのか」
年配の農婦が聞く。
「何もではありません。知っていることはあります。でも、この世界の古代麦を育てた経験はありません」
「では、次も失敗するかもしれない?」
「はい」
群衆がざわつく。
正直に言えば、誰も次へ参加しないかもしれない。
それでも大丈夫だとは言えなかった。
「次は成功します、と言えないのか!」
「言えません」
「それで誰が畑を貸す!」
「貸さなくていいです」
エレオノーラが俺を見る。
俺は続けた。
「無理に参加させません。次の試験は、失敗の可能性を理解した上で手を挙げた人だけで行います」
「種は残っているのか」
「森に残っています」
リュシアが答えた。
「だが、長老は次を出すことへ反対するだろう」
「説得できますか」
「分からない」
俺とリュシアは顔を見合わせた。
「そこは本当に似てきたな」
カレルが呟く。
「似てません!」
二人の声が重なる。
また笑いが起きた。
エレオノーラの顔だけが、なぜか少し険しくなった。
「王女様?」
「何でもありません」
「絶対何かありますよね」
「今は広場での説明中です!」
また怒られた。
「次は、播く前の処理を森で確認します」
俺は話を戻した。
「水だけではないかもしれない。種の保存温度、乾燥具合、播く時期、土の深さ。森の農耕師とカレルさんたちに、最初から一緒に見てもらいます」
「また四つに分けるのか」
「もっと小さくします」
「小さければ、成功しても食料にはならない」
「最初の目的は食料を作ることではなく、種を増やせる条件を見つけることです」
「明日のパンにはならないな」
「なりません」
俺は認めた。
「でも、今日食べる麦を全部、明日の種として埋めることもできない。今の食料を守る仕事と、来年の種を増やす仕事を分けます」
「人も足りないぞ」
「だから、試験の規模を小さくする。記録は王都から来た人間が担当する。農民の仕事を奪わないよう、作業時間も先に決めます」
カレルが腕を組んだ。
「失敗したら、また広場で話すか」
「話します」
「成功しても?」
「話します」
「都合の悪い数字も?」
「全部出します」
「誰にでも読める形で?」
「絵と印も使います」
「王女様も署名するか」
「します」
エレオノーラは迷わなかった。
カレルはしばらく俺たちを見ていた。
それから、広場に集まった農民へ振り返る。
「俺は、もう一度やる」
ざわめきが走った。
「カレル!」
「まだ信じるのか!」
「信じてはいない」
カレルはきっぱり言った。
「兄ちゃんの知識も、エルフも、王家も、まだ信用しきれん」
「では、なぜ」
「隠さなかったからだ」
カレルは卓の上の腐った種を指さす。
「これを土へ埋めて、最初から何もなかったことにするのは簡単だった。天気のせいにすることも、誰か一人へ押しつけることもできた」
俺を見る。
「だが、こいつは広場へ持ってきた。王女様も逃げずに立った。エルフも、自分が隠したと認めた」
「許すのか」
「許してはいない」
また即答だった。
「許していないが、失敗した者を二度と使わないなら、畑には誰も残らん」
カレルは自分の手を広げた。
節くれ立ち、傷だらけの手だった。
「俺だって、種を腐らせた。水をやりすぎた。刈り時を誤った。自分の息子に無理をさせて、腰を壊させたこともある」
声が少し掠れる。
「失敗していない農民などいない。ただ、同じ失敗を隠れて繰り返す奴とは、一緒に畑をやれん」
「カレルさん」
「勘違いするなよ、兄ちゃん」
「はい」
「一度だけだ」
「分かってます」
「次に隠したら終わりだ」
「はい」
「寝坊しても終わりだ」
「それは厳しくないですか?」
「畑へ来る者が、日の出に負けるな!」
「そこは努力します」
「努力ではなく起きろ!」
笑いが広場へ広がった。
やがて、一人の若い農夫が手を挙げる。
「うちの畑の端なら、小さく使っていい」
別の老婆も続いた。
「私は作業はできないけど、種の数を数えるくらいなら手伝えるよ」
「字は読めないぞ」
「数字と印なら覚えられる」
さらに二人。
三人。
多くはなかった。
広場にいた者の一割にも満たない。
それでも、最初から全員を動かそうとするより、ずっと本物に見えた。
「ありがとうございます」
俺が頭を下げると、カレルが鍬の柄で軽く俺の足を叩いた。
「まだ礼を言うな」
「痛いですよ」
「芽が出てから言え」
「芽が出たら、泣くかもしれません」
「その前に畑で転んで泣くなよ」
「もうその話、国の伝統になってません?」
「フィルにも伝えておく」
リュシアが真顔で言う。
「森にまで広げないでください!」
その日の午後。
腐った種は捨てず、記録とともに封をした壺へ入れた。
失敗の証拠として残すためだ。
新しい試験畑は、前よりずっと小さい。
参加する者も少ない。
期待より、不安の方が大きい。
それでも、ゼロではなかった。
そして夕暮れ前。
王都から一台の白い馬車が村へ到着した。
扉へ刻まれているのは、教会の銀色の聖印。
降りてきたのは、銀髪を肩へ流した若い女性だった。
柔らかな笑顔を浮かべている。
だが、その白い法衣の袖には、乾いた血がいくつも残っていた。
「こちらに、黒い斑点と高熱の患者がいると聞きました」
女性は俺たちを見回した。
「教会より派遣されました。聖女セラフィナと申します」
優しい声だった。
その直後、村の井戸の方角から悲鳴が上がった。
「誰か来てくれ! 子供が倒れた!」
セラフィナの笑顔が消える。
彼女は法衣の裾をつかみ、誰よりも先に走り出した。
「話はあとです。命が先です」
新しい聖女は、挨拶を終えるより早く、泥の中へ膝をついていた。




