第36話 最初の実験畑は、また失敗した
「川が黒い!」
カレルの孫が指さした先を見た瞬間、俺は手にしていた鍬を放り出した。
試験畑の脇を流れる支流が、墨汁を薄めたような色へ変わっている。
雨で濁った茶色ではない。
森の神樹から噴き出した粉と、よく似た黒だった。
「誰も水へ触らないでください!」
俺は叫びながら川へ向かった。
「家畜も近づけない! この水を引いてる畑はありますか!」
「下の畑が三枚と、共同の洗い場だ!」
カレルが答える。
「井戸は?」
「井戸は村の中央だ。だが、川の近くにも浅い井戸が二つある」
「使うのを止めてください!」
「水なしで、どう暮らせと言うんだ!」
「安全が分かるまでです!」
「いつ分かる!」
「分かりません!」
「またそれか!」
「じゃあ大丈夫だと言って、誰かが倒れてもいいんですか!」
カレルは舌打ちしたが、すぐ孫へ向き直った。
「村へ走れ! 鐘を三度鳴らせ! 川と東井戸の水を使うなと伝えろ!」
「うん!」
「口だけで伝えるな! 家を一軒ずつ回れ!」
「分かった!」
少年が泥を蹴って走り出す。
「転ぶなよ!」
カレルが叫ぶ。
少年は振り向かずに答えた。
「孝太郎じゃないから大丈夫!」
「どうして子供にまで広まってるんですか!」
「今はそこではないでしょう!」
エレオノーラに怒鳴られた。
その通りなので、反論できない。
リュシアは川辺へしゃがみ、黒い水を覗き込んでいた。
「森から流れてきている」
「触らないでくださいよ」
「分かっている」
「本当に?」
「お前は私を子供だと思っているのか」
「フィルと同じくらい無茶するので」
「誰がだ!」
リュシアが立ち上がった拍子に足元の泥が崩れた。
「危ない!」
俺は反射的に彼女の腕をつかんだ。
代わりに自分の足が滑る。
「うわっ!」
「何をしている!」
「助けようとしたんですよ!」
「自分が落ちかけてどうする!」
「結果的に二人とも無事でしょう!」
ロルフが後ろから俺の襟をつかみ、乾いた場所へ引き戻した。
「近づくなと言った本人が、最も水へ近づいているぞ」
「緊急時だったので!」
「お前の緊急時は多すぎる」
「好きで増やしてませんよ!」
リュシアは俺につかまれた腕を見たあと、何も言わず外套で拭いた。
「汚かったですか」
「泥がついた」
「俺の手も泥だらけですからね」
「そうではない」
「では何です?」
「何でもない!」
なぜ怒られたのか分からない。
「孝太郎、川の確認を」
エレオノーラが妙に冷たい声で言った。
「はい」
「それと、必要以上に川辺で手を取り合わないでください」
「落ちそうだったんですよ!」
「分かっています」
「分かってない顔ですよね?」
「分かっています!」
王女様も面倒である。
◇
黒い水が村へ流れ込む前に、できることは限られていた。
川そのものを止めることはできない。
そこで、畑へ水を引く小さな水門を閉じ、洗い場への道へ縄を張った。浅い井戸には蓋をし、使ってはいけないことを示す赤い布を結びつける。
飲み水は村中央の深い井戸から汲み、それも念のため沸かすことにした。
「黒い粉が煮れば消える保証はありません」
俺は集まった村人へ説明した。
「それでも、病気の原因が一つとは限らない。黒い水とは別に、普通の腹を壊す病気まで出たら、区別がつかなくなります」
「結局、沸かせと言うのか」
村のおばさんが顔をしかめる。
「薪が要るんだよ。森は切るな、水は沸かせ。今度は何を燃やせばいい?」
「倒木や枯れ枝を、エルフの監視つきで集められないか相談します」
俺が答えると、リュシアがすぐに反応した。
「森へ人間を入れるのか」
「今、相談すると言ったでしょう」
「枯れ枝も森の一部だ」
「落ちた枝を全部残しておく必要がありますか」
「虫や小さな獣の住処になる」
「でも村人が水を沸かせない」
「人間は森を薪置き場としか考えないのか」
「リュシア」
俺は声を抑えた。
「この人たちも、好きで木を燃やすんじゃありません」
「森も好きで枯れるのではない」
「分かってます!」
「二人とも」
エレオノーラが間へ入る。
「村の近くにある倒木を、今日必要な分だけ採取します。エルフ側が場所を指定し、人間側は勝手に範囲を広げない。それではどうです」
「毎日必要になる」
リュシアが言う。
「毎日の方法は、今日を越えてから話します」
「先送りか」
「順番です」
エレオノーラは譲らなかった。
「今夜の水を沸かせなければ、百年後の森を話す者までいなくなります」
リュシアは長い耳を伏せるように動かした。
「……村に近い北斜面なら、先月の嵐で倒れた木がある」
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
「それを決めるのは私です」
「人間の王女は、いちいち言い返さないと話せないのか」
「そちらに言われたくありません」
「だから喧嘩しないでください!」
なぜ俺が毎回止める側なのだろう。
自分もよく喧嘩をするから、強くは言えないけれど。
◇
川が黒くなった原因を探るため、俺たちは雨の中を上流へ向かった。
黒い色は、森へ近づくほど濃くなる。
しかし、神樹のあるエルフの村とは別の支流だった。
「神樹から直接流れたわけじゃない?」
俺が尋ねると、リュシアが首を横へ振る。
「神樹の根は東の沢へ続いている。この川は西だ」
「では、別の感染した木があるかもしれない」
「森のあちこちに黒い斑点が出ている」
「最初から教えてくださいよ!」
「聞かれなかった」
「王女様みたいなこと言う!」
「私を呼びましたか」
少し後ろを歩くエレオノーラが反応する。
「呼んでません!」
さらに上流へ進むと、川岸の土が大きく崩れていた。
崩れた斜面には、黒く変色した木の根が何本も露出している。雨水が根の間を通り、黒い泥を川へ流し込んでいた。
「これか」
ロルフが呟く。
「たぶん、原因の一つです」
「一つ?」
「この場所を塞いでも、別の場所から流れてくるかもしれません」
「では、どうする」
エレオノーラが問う。
「すぐできるのは、川岸を布や枝で覆って、泥が直接流れ込む量を減らすこと。でも雨が強いので、完全には止められません」
「黒い根は切るのか」
リュシアの表情が硬くなる。
「今は切りません」
「なぜだ」
「切ったら、神樹と同じように粉が出るかもしれない。雨が降っている今なら粉は舞いにくいかもしれませんが、試すには範囲が大きすぎる」
「では放置か」
「応急処置です。雨がやんでから、周囲を調べます」
カレルが黒い川を睨んだ。
「調べている間、畑の水はどうする」
「雨水を溜める場所を作る。深い井戸から運ぶ。負担は増えます」
「また俺たちの仕事が増えるのか」
「俺たちも手伝います」
「王都へ帰れば、あんたらは別の仕事があるだろう」
「交代で人を残します」
「誰を」
全員が、なぜか俺を見た。
「どうして俺を見るんです?」
「共同責任者ですから」
エレオノーラが答える。
「森の調査役だ」
リュシアも答える。
「言い出したのはお前だ」
カレルまで続ける。
「三方向から責任を押しつけないでください!」
「嫌なのですか」
エレオノーラが少し傷ついた顔をする。
「嫌ではないですけど、寝る時間は欲しいです!」
「そこは確保します」
「本当に?」
「努力します」
「王女様がその言葉を使うと不安なんですよ!」
◇
黒い水の騒ぎから三日後。
雨が上がり、川の色も少しずつ元へ戻った。
村では体調を崩した者はいない。
それだけで黒い水が安全だったとは言えないが、少なくともすぐ毒のような症状が出るものではなかった。
そして、古代麦の試験栽培が始まった。
エルフから借りた種は、壺一つ分。
袋へ移してみると、思ったより少ない。
「これだけ?」
カレルが眉をひそめる。
「森に残っている古代麦の種、その十分の一だ」
リュシアが答える。
「十分の一も出したのか」
「多すぎると長老は怒った」
「こっちから見れば、畑一枚にも足りない」
「国宝を貸したと思え」
「種が国宝?」
「百年、絶やさず守ってきた」
カレルは鼻を鳴らした。
「種は植えて増やすものだ。壺に入れて拝んでも腹は膨れない」
「失敗して失えば、二度と戻らない」
「畑に入れなければ、増えもしない」
また始まりそうだ。
「二人とも正しいです」
俺は間へ入った。
「だから、種を四つに分けます」
「四つ?」
「何もしない畑。灰を混ぜる畑。腐葉土を加える畑。排水溝を深くした畑。それぞれ同じ数だけ植えて、育ち方を比べる」
俺は紙へ簡単な図を描いた。
「一度に条件を変えすぎるなって、家庭菜園の本に書いてありました。何が効いたのか分からなくなるから」
「かていさいえん、とは何だ」
カレルが聞く。
「家の庭で、小さく野菜を育てることです」
「庭遊びの知識で、国の麦を育てるのか」
「言い方!」
「違うのか」
「違わないですけど!」
カレルは呆れ、リュシアは露骨に不安そうな顔をした。
「本当に任せてよいのか」
「俺だって不安ですよ!」
「胸を張って言うことではありません」
エレオノーラに叱られる。
「でも、カレルさんと森の農耕師にも見てもらいます。俺一人では決めません」
「森の農耕師は、まだ来ていない」
「明日来る予定です」
「それまで待て」
「土の準備だけ先に」
「人間は、なぜいつも急ぐ」
「種を植える時期があるからです!」
結局、種を播くまでに半日以上かかった。
種の間隔で揉めた。
深さで揉めた。
灰の量で揉めた。
腐葉土が人間の畑へ合うかでも揉めた。
「深すぎる!」
リュシアが俺の手を叩く。
「本には、このくらいって!」
「古代麦は浅く植える!」
「最初に言ってください!」
「聞かれなかった!」
「またそれ!」
カレルは俺たちを見て、腹を抱えて笑った。
「兄ちゃん。知識で無双するんじゃなかったのか」
「誰がそんなこと言ったんです!」
「王都の連中は、異邦人なら何でも知っていると思ってるぞ」
「迷惑な期待だな!」
それでも、夕方までには四つの試験区画へ種を播き終えた。
俺たちは畑の端へ小さな木札を立てる。
一番、何もしない。
二番、灰。
三番、腐葉土。
四番、深い排水溝。
「これで、あとは芽を待ちます」
「何日だ」
エレオノーラが尋ねる。
「元の世界の麦なら、一週間くらいで出ることもあります。でも古代麦は分かりません」
「では、一週間後に確認しましょう」
「毎日見ます」
カレルが言った。
「毎日見ても、芽が早く出るわけじゃありませんよ」
「畑をやる者は、出ないから見ないということはできん」
その声には重みがあった。
◇
一週間後。
芽は出なかった。
二週間後。
四つの区画のどこにも、緑は見えなかった。
灰を入れた場所も。
腐葉土を入れた場所も。
排水をよくした場所も。
何もしなかった場所も。
一つも。
「おかしい」
俺は何度目か分からない言葉を呟いた。
畑へ膝をつき、土を指で掘る。
種は残っていた。
ただし、硬かった種は柔らかく崩れ、嫌な臭いを放っている。
「腐っているな」
カレルが言った。
「全部?」
「見たところはな」
「水が多すぎた?」
「雨のあとだ。だが排水溝を掘った場所も同じだ」
「土が合わない?」
「それなら、何もしない区画だけでも違いが出そうだ」
リュシアは無言で、別の種を掘り出した。
指先で割る。
中は黒く変色していた。
「黒い病だ」
「断定しないでください」
「だが黒い」
「黒いだけかもしれない」
「お前は、まだそう言うのか!」
「言いますよ!」
声を上げたあと、俺は拳を土へ押しつけた。
苛立っている。
誰にではない。
自分にだ。
四つに分けた。
記録も取った。
排水も考えた。
これなら一つくらい芽が出るのではないかと、心のどこかで思っていた。
現代知識で、皆を驚かせられるかもしれない。
そんな期待がなかったとは言えない。
「俺が、植え方を間違えたのかもしれません」
「孝太郎」
エレオノーラが隣へしゃがむ。
「まだ原因は分かっていません」
「でも、俺が進めた実験です」
「全員で決めました」
「種は貴重だった」
リュシアの声が震える。
「森の種を、壺一つ分も失った」
「分かってます」
「分かっているなら、なぜもっと慎重にしなかった!」
「慎重にしたつもりです!」
「つもりで種が戻るのか!」
「戻りませんよ!」
俺も立ち上がった。
「だから怒ってるんです! 自分に!」
「自分へ怒れば、責任を果たしたことになるのか」
胸へ刺さった。
リュシアの言う通りだ。
自分を責めるのは、楽な逃げ方になることがある。
「……なりません」
「では、どうする」
「調べます」
「またか」
「腐った種を、森の種と比べる。保管方法も聞く。播く前に何か処理が必要だった可能性もある」
リュシアが目を逸らした。
「何か知ってるんですか」
「知らない」
「今、目を逸らしたでしょう」
「逸らしていない」
「リュシア」
「何だ!」
「古代麦って、森ではどうやって植えるんです?」
「土へ播く」
「その前は?」
「……月の水へ浸す」
「月の水?」
「森の泉で、満月の夜に汲んだ水だ」
俺は固まった。
カレルも固まった。
エレオノーラまで、しばらく何も言わなかった。
「それを、どうして先に言わなかったんですか」
「人間の土地では、同じことをする必要がないと思った」
「どうして!」
「森の水は、森の外では用意できない!」
「だからって黙ってていい情報じゃないでしょう!」
「お前も聞かなかった!」
「種を植える前に特別な水へ浸しますか、なんて聞けるわけないでしょう!」
リュシアの耳が下がる。
「……すまない」
珍しく素直に謝った。
だから、怒りの持って行き場がなくなった。
「謝られると、こっちも怒りづらいんですよ」
「なら怒れ」
「怒ってます!」
「どちらだ!」
「両方です!」
カレルが深いため息をついた。
「原因は、その水だけか?」
「分かりません」
俺とリュシアの声が重なった。
「そこは仲がいいな」
「よくありません!」
また声が重なる。
エレオノーラの表情が、なぜか少し険しくなった。
「今、気にするところですか?」
俺が聞くと、彼女は顔を逸らした。
「何も気にしていません」
絶対に気にしている顔だった。
その日の夕方、農務官が王都から来た。
試験畑の様子を確認し、腐った種を見たあと、小声で俺へ言う。
「この件は、まだ公表しない方がよいでしょう」
「どうしてです」
「古代麦が失敗したと知れば、民が失望します。エルフとの交渉にも影響する」
「でも農民たちは知っています」
「試験に参加した者へ、口止めを」
「何を言ってるんです?」
「国を守るためです」
その言葉を聞いた瞬間。
倉庫へ火をつけ、麦の横流しを隠そうとしたフェルナンドの顔が浮かんだ。
失敗を隠す。
国民が混乱するから。
敵につけ込まれるから。
国を守るためだから。
理由はいくらでも作れる。
「隠しません」
「孝太郎殿」
「明日、村の広場で説明します」
「今発表すれば、あなたの信用まで失われますぞ」
「失敗したんだから、失う分は失うしかないでしょう」
「殿下からも、お止めください」
農務官はエレオノーラへ助けを求めた。
彼女は腐った種を一つ拾い、掌へ載せた。
「孝太郎」
「はい」
「本当に話すのですね」
「王女様は止めますか」
「怖くありませんか」
「怖いです」
失敗を笑われる。
やはり役立たずだったと言われる。
古代麦を無駄にした責任を取れと責められる。
全部、怖い。
「でも、成功したふりをしたら、次も同じ失敗をします」
エレオノーラは小さく頷いた。
「では、私も隣に立ちます」
「王女様まで責められますよ」
「共同責任者でしょう」
「便利な言葉になりましたね」
「孝太郎が決めた言葉です」
「そうでした」
カレルは黙って、腐った種を袋へ集めていた。
「カレルさん」
「何だ」
「明日、怒りますか」
「怒る」
「やっぱり」
「種も、畑も、時間も無駄にした。怒らずにいられるか」
「ですよね」
「だが、来なければもっと怒る」
「行きます」
「逃げたら、王都まで鍬を持って追いかける」
「それは怖いなあ」
「三歩で転ぶあんたなら、すぐ捕まる」
「最後にそれを言わないと終われないんですか!」
誰も芽を出さなかった試験畑で、皆が少しだけ笑った。
けれど、失敗は失敗だ。
明日。
俺は村人全員の前で、古代麦の種を腐らせたと認めなければならない。
異世界の知識があれば、何でもうまくいく。
そんな都合のよい物語を、最初に信じかけていたのは、もしかすると俺自身だったのかもしれない。




