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『異世界召喚された俺、現代知識を一つ教えるたびに美少女が増えていく 〜役立たず勇者と捨てられたのに、王女も聖女も竜姫も「次は私の国を救って」と押しかけてきました〜』  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第35話 百年後の森より、明日のパンが欲しいと言われた

「森の百年後より、俺たちは明日のパンが欲しいんだ! あんたは俺たちに、森のために飢えて死ねって言うのか!」


 カレルの怒声が、王城の門前に響いた。


 その後ろには、鍬や鎌を握った農民が三十人ほど集まっている。


 農具は武器ではない。


 少なくとも、彼らにとってはそうだ。


 畑を耕し、雑草を刈り、家族を食わせるための道具である。


 けれど城門を守る兵士たちから見れば、怒った集団が刃物を手に押しかけてきたことに変わりはない。


「止まれ!」


 衛兵が槍を構えた。


「それ以上近づけば、反逆と見なす!」


「待ってください!」


 俺は慌てて、兵士と農民の間へ走った。


「槍を下げて!」


「しかし、孝太郎殿」


「この人たちは話をしに来たんです!」


「話なら農具を置け!」


 衛兵の言葉に、カレルが鍬を強く握り直す。


「こいつを置いたら、俺たちは何で食っていくんだ」


「今ここで畑を耕すつもりか!」


「違う! だが、この鍬は俺の仕事だ。王都の偉い連中に、俺たちが何者か忘れられないために持ってきた!」


「カレルさん」


 俺はできるだけ静かな声で呼びかけた。


「鍬を地面へ置いてください」


「あんたまで俺たちを賊扱いするのか」


「違います。でも、兵士だって怖いんですよ」


「武器を持った兵士が、農民を怖がるのか?」


「怖がります。人間ですから」


 兵士たちの顔が引きつる。


 余計なことを言ったかもしれない。


 それでも続けた。


「あなたたちも畑を奪われるかもしれなくて怖い。兵士たちも城へ押し入られるかもしれなくて怖い。怖い者同士が刃物を持って向かい合ったら、誰かが少し動いただけで怪我人が出ます」


「では俺たちは、黙って帰れと?」


「話を聞きます」


「前にもそう言った」


 カレルの声が低くなる。


「あんたは村へ来て、畑を見て、こうすればよい、ああすればよいと言った。俺は素人の口出しだと追い返した。その後、あんたは火事から麦を守り、盗まれた麦まで取り戻した。だから今度こそ、少しは信じてもいいと思った」


「はい」


「その結果が、これか」


 カレルは城壁の向こうを睨んだ。


「俺たちへ何の相談もせず、畑の近くを保護区にすると決めた。新しく畑を広げるな。木を切るな。獣を狩るな。王都の会議室で決めて、あとから従えと言う」


「まだ仮の取り決めです」


「仮なら、俺たちの腹は減らないのか!」


 言い返せなかった。


 仮の取り決めでも、木を切るなと言われた農民は冬の薪を確保できなくなるかもしれない。新しい畑を開けなければ、息子夫婦へ土地を分けられない家もある。


 王都では地図の上に線を一本引くだけだった。


 現地では、その線の中に人間の暮らしがある。


「カレルさんの言う通りです」


 俺が認めると、農民たちがざわついた。


 エレオノーラが城門から出てくる。


 その隣にはリュシアもいた。


「孝太郎」


 エレオノーラが俺の名を呼ぶ。


「ここで安易に約束をしてはいけません」


「分かってます」


「分かっている顔ではありません」


「皆さんの前で、また喧嘩します?」


「しません。ただ、あなたは勢いで引き受けすぎます」


「王女様も国境まで勢いで来たでしょう」


「今はその話ではありません!」


「もう喧嘩してるじゃないか」


 カレルが呆れたように言った。


「王女様相手にも、いつもそうなのか」


「だいたい」


「だいたいではありません」


 エレオノーラが訂正する。


 農民の中から、小さな笑いが起きた。


 だが、緊張が完全に解けたわけではない。


 リュシアが前へ進み出る。


「人間の農民たち」


「その呼び方は何だ」


 カレルがすぐに噛みついた。


「俺たちには名前がある」


「全員の名を知らない」


「なら尋ねろ」


「なぜ私が」


「リュシア」


 俺が止める。


「今日は喧嘩しに来たんじゃないでしょう」


「私は森の要求を伝えに来た」


「その言い方だと、喧嘩になります」


「人間は言葉を飾りすぎる」


「エルフは削りすぎなんですよ」


 リュシアは不満そうに俺を睨んだあと、カレルへ向き直った。


「名は」


「カレルだ」


「カレル。森を返せ」


「喧嘩する気しかないでしょう!」


「名前を聞けと言ったのはお前だ!」


「聞いたあとの言葉を選んでください!」


 カレルの背後で、今度ははっきり笑い声が起きた。


 本人も笑いそうになったが、すぐに顔を引き締める。


「森を返せと言われても、俺は森を奪っていない」


「お前の畑は、森を切って作られた」


「俺が生まれる前の話だ」


「だから関係ないと言うのか」


「関係があると言われて、今いる家族を飢えさせられるか!」


 カレルの声が震える。


「うちには、嫁に行けなかった娘と、その子供が二人いる。娘の亭主は去年、病で死んだ。畑を減らせば、誰から食事を抜けばいい。俺か。娘か。六歳の孫か」


「森でも子供が病に苦しんでいる」


 リュシアは引かなかった。


「人間が切った土地から赤い泥が川へ流れ、森の畑と水場を汚す。獣は住む場所を失い、村へ下りてくる。私の弟は黒い病に侵された」


「俺の孫が病になれば、エルフは畑を返してくれるのか!」


「カレルさん!」


「黙れ、兄ちゃん!」


 初めて強く怒鳴られた。


「あんたはどちらにもいい顔をしようとしている! 森を助ける。俺たちも助ける。そんな都合のいいことができると思っているのか!」


「思ってません」


「何?」


「全員が何も失わずに済むなんて、思ってません」


 口にすると、胸が重くなった。


 農民たちが静まる。


「木を植えるなら、どこかの土地が使えなくなる。狩りを制限すれば、肉や毛皮が減る。森を切り続ければ、エルフ側の被害が増える。それどころか、川の氾濫や土の流出で、人間の畑も駄目になるかもしれない」


「なら、俺たちに我慢しろと?」


「誰が、どれだけ我慢するかを、今から調べたいんです」


「調べる?」


「地図だけじゃ分からない。実際の畑を見ます」


 カレルが眉を寄せる。


「また畑へ来るのか」


「嫌ですか」


「嫌に決まっている。あんたは畑へ来ると、面倒なことしか言わない」


「ひどいな!」


「だが、来い」


 カレルは鍬を地面へ置いた。


「王都の連中が引いた線を、実際に歩いてみろ。川も、山も、畑も見ろ。俺たちがどこから薪を取って、どこへ牛を放しているかもだ」


「分かりました」


「まだある」


「何です」


「俺たちが数字をごまかしていると思うなら、家の中まで見ろ」


「そこまでは」


「見ろ!」


 カレルの目が赤くなった。


「穀物箱の底まで見て、それから余裕があると言え。娘が子供に飯を譲っているところも見ろ。孫が腹を空かせて水を飲んで寝るところもだ!」


 返事ができなかった。


 カレルは、見せたいわけではない。


 本当なら隠したい。


 貧しさも、家族へ十分な食事を与えられない自分も。


 それでも、王都の人間に数字で片づけられるくらいなら、恥まで全部見せると言っている。


「行きます」


 俺は答えた。


「俺だけじゃなく、王女様にも来てもらいます」


「孝太郎」


 エレオノーラが驚いてこちらを見る。


「私に予定を確認せず、勝手に決めないでください」


「来ないんですか」


「行きます」


「即答じゃないですか」


「ですが、順序というものがあります!」


「エルフの使者も来い」


 カレルがリュシアを指した。


「私も?」


「森を返せと言ったのはお前だ。人間が畑で何をしているか、自分の目で見ろ」


「人間の暮らしを見れば、森を奪った事実が消えるのか」


「消えない。だが、俺たちが喜んで森を切っていると思われたままなのは腹が立つ」


「木を切っているのは事実だ」


「冬に薪がなければ凍え死ぬ!」


「森には、枯れ枝がある」


「お前たちが入るなと言う森の中にな!」


 二人がまた睨み合う。


 話を聞けば聞くほど、単純な善悪ではない。


 人間は森を切った。


 エルフは森への立ち入りを禁じた。


 人間は境界近くの木をさらに切った。


 エルフは交易を止めた。


 互いの行動が、互いの次の行動を悪くしている。


「明日、南部の村へ行きます」


 エレオノーラが告げた。


「農民の代表者、森の代表者、王国の役人、それぞれが同じ土地を見ましょう」


「役人が来れば、話しづらくなる」


 カレルが言う。


「では、最初は少人数にします」


「護衛は」


「必要最低限です」


「兵士に囲まれて本音を言えると思うか」


 エレオノーラは少し迷った。


 王女を護衛なしで農村へ出すわけにはいかない。


「離れた場所で待機させましょう」


「殿下、それは危険です」


 衛兵が反対する。


「農民を敵と決めつける方が危険です」


 エレオノーラは、農民たちへ向けて頭を下げた。


「皆さんへ相談する前に、森との仮の取り決めを結んだことをお詫びします」


 ざわめきが起きた。


 王女が、城門前で農民へ頭を下げている。


「ただし、新規伐採と開墾の一時停止は、今すぐ撤回できません」


 顔を上げた彼女の声は、弱くなかった。


「森の病害が人間の農地へ広がる可能性があります。川と土の状態も調べなければなりません。皆さんの暮らしを守るためにも必要です」


「謝っておいて、結局従えと言うのか」


 農民の一人が吐き捨てる。


「そう聞こえるのは承知しています」


「なら、何が違う!」


「期限を決めます」


 エレオノーラは即答した。


「一時停止は、まず三十日。その間に対象地域を調査し、村ごとの事情を記録します。三十日後、農民の代表を交え、継続するか見直します」


「王族の約束など信用できるか!」


「では、文書にします。農民の代表とエルフの代表、双方の署名を入れます」


「俺たちは文字が読めない者も多い!」


「読み上げます。写しを各村へ置きます。分からない箇所は、何度でも説明させます」


 農民たちが顔を見合わせる。


 完全に納得したわけではない。


 けれど、最初から決められた命令よりは、自分たちが参加できる余地がある。


「明日、必ず来るんだな」


 カレルが確認した。


「はい」


「雨でもか」


「雨なら、川の様子がよく分かります」


 俺が答えると、エレオノーラが横目で睨んだ。


「あなたは勝手に条件を増やさないでください」


「でも本当に、雨のときも見た方が」


「分かっています。私が言おうとしていました」


「そうなんですか?」


「そうです!」


 リュシアが呆れたように言う。


「人間の国では、毎回この二人が決めるのか」


「決まりかけたところを、二人でややこしくするのです」


 ルーカスが城門の内側から答えた。


「ルーカス、いつからいたんです」


「最初からです」


「何か言ってくださいよ」


「面白かったので」


「王族が見物しないでください!」


 農民の中から、再び笑いが漏れた。


 カレルは俺を見て、深く息を吐いた。


「兄ちゃん」


「はい」


「明日、畑を見ても、簡単に分かったような顔をするなよ」


「しません」


「前はした」


「……しました」


 ホームセンターで覚えた家庭菜園の知識。


 排水。


 堆肥。


 輪作。


 それを知っているだけで、農民より畑を分かっている気になっていた。


「今度は、最初に教えてください」


「何をだ」


「カレルさんたちが、どうして今のやり方をしているのか」


「聞いてどうする」


「俺の考えと合わなければ、喧嘩します」


「最初から喧嘩する気か!」


「でも、聞かずに決めません」


 カレルは、しばらく俺を睨んだ。


 やがて鍬を肩へ担ぐ。


「なら、朝日の出る前に来い」


「早くないですか?」


「農民は日が昇ってから起きると思っているのか」


「明け方に弱いんですよ、俺」


「森の村では、夜中も記録をしていた」


 リュシアが余計なことを言う。


「それは緊急事態だったでしょう!」


「国の畑がなくなるかもしれないのも緊急事態だ」


「正論が刺さる!」


「孝太郎」


 エレオノーラが微笑んだ。


「明日は私が起こします」


「その笑顔、怖いんですけど」


「寝坊しなければ怖くありません」


「寝坊したら?」


「馬車へ寝台ごと運ばせます」


「王女様が一番強引ですよね!」


     ◇


 翌朝。


 俺たちは約束通り、日の出前に南部の村へ向かった。


 エレオノーラ。


 リュシア。


 俺。


 農務官一人。


 護衛はロルフを含めて三人だけ。


 村へ着く頃には、小雨が降り始めていた。


「雨ですね」


 俺が言うと、カレルは鼻を鳴らした。


「ちょうどいい。王都の靴が、どれだけ役に立たないか分かる」


「この靴、結構高いらしいですよ」


「畑では値段で土が避けてくれるのか」


「避けませんね」


 一歩進んだだけで、靴が泥へ沈んだ。


「うわっ」


「まだ転ぶなよ」


「転びません!」


 次の一歩で滑り、リュシアに腕をつかまれた。


「本当に弱いな」


「今のは道が悪い!」


「ここは道だ」


「これで!?」


「村ではな」


 エレオノーラが裾を持ち上げながら、慎重に歩く。


「この道を、荷馬車も通るのですか」


「乾いていればな」


 カレルが答える。


「雨が二日続けば、車輪が埋まる。だから収穫は晴れた日に一気に運ぶ。間に合わなければ、畑で濡れる」


「道を直す必要がありますね」


 エレオノーラが言う。


「誰が直す」


「国が」


「金はあるのか」


「……ありません」


「人手は」


「余っていません」


「なら、必要だと書いて終わりだ」


 カレルの言葉は冷たかった。


 だが、何度も同じ経験をしてきたのだろう。


 役人が調べ、必要だと認め、何も変わらない。


「それでも書きます」


 エレオノーラは答えた。


「すぐ直せなくても、どこから手をつけるか決めるには必要です」


「王女様が代わってもか」


「私が死んでも残るように記録します」


「縁起でもないこと言わないでください」


 俺が口を挟む。


「今は国の話です」


「王女様もすぐ自分が死んだあとの話をするでしょう」


「王族は継承を考えなければなりません」


「分かってますけど、聞いてる方は嫌なんですよ」


 エレオノーラが少し黙る。


「……気をつけます」


 カレルが俺たちを振り返った。


「本当に、いつもそうなのか」


「いつもです」


 ロルフが答えた。


「護衛が断言しないでください!」


 やがて、畑が見えてきた。


 広い。


 だが、作物はまばらだった。


 雨に濡れた土の表面を、細い水の流れが何本も走っている。畑の端では土が削られ、茶色い水が川へ流れ込んでいた。


「赤い泥だ」


 リュシアが呟く。


「森の川へ流れてくるものと同じだ」


「この村だけが流してるわけじゃない」


 カレルがすぐに反論する。


「雨が降れば、どこの土も流れる」


「森の土は、これほど流れない」


「木があるからだろう! 畑に木を植えたら麦が育たない!」


「畑の全部に植えろとは言ってません」


 俺は斜面を見る。


「畑の端や、水が流れる筋に木や草を残す方法はあるかもしれません」


「その分、植える場所が減る」


「はい」


「やはり減らせと言うのか」


「減らす面積より、流されずに残る土が増えるなら、収穫は下がらない可能性があります」


「可能性で孫を食わせられるか」


「だから小さく試します」


「また試すのか」


「全部一度に変えるよりいいでしょう」


 カレルは不満そうに鼻を鳴らした。


 それでも、完全には拒絶しなかった。


「兄ちゃん。こっちへ来い」


 彼は畑の奥へ歩いていく。


 そこには、ほとんど何も生えていない一角があった。


 雑草さえ少ない。


「ここは?」


「三年前までは一番よく穫れた畑だ」


 カレルはしゃがみ、泥を手ですくった。


「森に近すぎるからと、境の木を切った。日当たりがよくなって、最初の年は収穫が増えた」


「そのあと?」


「翌年の大雨で、土が半分流れた。去年は干上がった。今年は、この有り様だ」


 リュシアは何も言わず、畑を見つめている。


「木を切ったことを後悔してるんですか」


 俺が尋ねると、カレルは泥を握りしめた。


「している」


 答えは小さかった。


「だが、あの年は切るしかなかった。娘の亭主が病で働けなくなった。少しでも収穫を増やさなければ、税を払えなかった」


「王国は、その木を切る許可を出したのですか」


 エレオノーラが問う。


「役人が切れと言った」


「何?」


「畑を広げれば、税を一年軽くすると言われた。王国が食料を増やせと命じたんだ」


 エレオノーラの顔から血の気が引く。


 農務官も慌てて書類を探し始めた。


「そのような命令は、現在の記録には」


「記録がないから、なかったことになるのか!」


 カレルの怒声が雨の中へ響く。


「俺たちは国の言う通り森を切った! 畑が駄目になったら、今度は森を守るために俺たちが悪いと言う! 次は何を信じればいい!」


 エレオノーラは答えられなかった。


 リュシアも、すぐには責め返さなかった。


 悪い農民が欲のために森を切った。


 そんな単純な話ではなかった。


 飢えた国が農地を求めた。


 役人が政策を作った。


 税の軽減を餌に、農民へ森を切らせた。


 そして失敗した記録は残っていない。


「カレルさん」


 俺は泥だらけの畑を見渡した。


「この土地を、試験に使わせてください」


「何をする」


「一部へ古代麦を植える。畑の端には、木を植える場所を作る。水が流れる筋には草を残して、土がどれだけ流れるか比べる」


「失敗したら?」


「この畑より悪くは……」


 言いかけて止めた。


 簡単に言ってはいけない。


 カレルにとっては、今も大切な土地だ。


「失敗した場合の補償を、先に決めます」


「何で払う。国に金はないのだろう」


「労働で払います」


「労働?」


「試験に使った分だけ、俺たちが別の仕事を手伝う。道の補修、排水溝、薪集め。王都から来る役人や兵士にも働いてもらいます」


 農務官が顔を上げる。


「私もですか」


「当然です」


「私は記録係です!」


「記録しながら土を運んでください」


「無茶を言う!」


「農民には畑を減らせと言って、自分は紙しか持たないんですか?」


「それは……」


 農務官がエレオノーラを見る。


 助けを求めたのだろう。


 だが王女は静かに頷いた。


「私も働きます」


「姫殿下が泥仕事を?」


「私が結んだ仮合意です」


「王女様、無理しなくても」


「孝太郎」


 エレオノーラが俺を睨む。


「あなたは私に一人で背負うなと言いました。しかし、責任から外れろとは言っていないでしょう」


「そうですけど」


「ならば、私も働きます」


「その服で?」


「着替えます!」


 リュシアが口を開く。


「私も手伝う」


 カレルが怪訝そうな顔をした。


「エルフが人間の畑を?」


「この土地から流れた泥が、森へ入っている。ならば、森の仕事でもある」


「森へ返せとは言わないのか」


「今すぐ返しても、土が流れた土地に木は育たない」


 リュシアは畑の土を手に取り、指の間で崩した。


「この場所は、人間だけでも、エルフだけでも直せない」


 カレルは黙っていた。


 雨が少し強くなる。


 畑の表面を流れる水が、また土を削っていく。


「一つだけ条件がある」


 カレルが言った。


「何です」


「失敗したら、失敗したと皆の前で言え」


「言います」


「天気が悪かった。農民が言うことを聞かなかった。土が悪かった。そうやって逃げるな」


「言いません」


「成功したふりもするな」


「もちろんです」


「王女様もだ」


 カレルはエレオノーラを見る。


「王家の失敗として、記録へ残せるか」


 エレオノーラは、泥の流れる畑を見た。


「残します」


「次の王が消したら」


「ルーカスにも署名させます」


「弟まで巻き込むのか」


「国の政策は、一人の王女だけの約束にしてはいけませんから」


 カレルは長い間、王女の顔を見つめた。


 それから、俺へ鍬を差し出す。


「なら、まず掘ってみろ」


「今から?」


「畑は会議室の都合で待たない」


「俺、昨日ほとんど寝てないんですけど」


「百年後の森より、明日のパンが欲しいんだろう?」


「それを言ったのはカレルさんです!」


「なら、明日の分を今日働け」


 鍬は思ったより重かった。


 俺が最初の一振りを入れると、刃は泥へ刺さったまま抜けなくなった。


「動かないんですけど」


「腰を使え!」


「使ってます!」


「腕だけで引くな!」


「こうですか!」


「違う!」


 カレルが後ろから俺の姿勢を直す。


 リュシアは笑い、ロルフも笑い、エレオノーラまで口元を隠している。


「笑うなら手伝ってください!」


「まず孝太郎が、農作業の難しさを学ぶべきです」


「王女様、さっき自分も働くって言いましたよね!」


「もちろんです」


 エレオノーラは護衛から別の鍬を受け取った。


 そして、俺より美しい姿勢で土へ刃を入れる。


 一度で深く刺さった。


「……どうして上手いんです?」


「幼い頃、母上と城の菜園を耕していました」


「先に言ってくださいよ!」


「聞かれませんでした」


 また負けた。


 剣でも政治でもなく、鍬で王女に負けるとは思わなかった。


 その日。


 俺たちは雨の中で、試験畑の最初の溝を掘った。


 人間とエルフ。


 王女と農民。


 役人と異世界人。


 誰も完全には納得していない。


 それでも、同じ泥に足を取られながら働いた。


 そして溝を半分ほど掘った頃、カレルの孫が畑まで走ってきた。


「じいちゃん!」


「どうした!」


「川が黒い!」


 子供が指さした先。


 森から流れてくる細い支流が、雨水とは違う、墨のような色へ変わっていた。


 黒い水は、今まさに試験畑の脇を通り、人間たちの井戸がある村の方角へ流れ始めていた。


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