第33話 森の美少女と王女様を、同じ馬車に乗せてはいけない
「離れろ!」
俺が叫んだときには、神樹の幹から噴き出した黒い粉が、風に押されて村の方角へ流れ始めていた。
村人たちは立ち尽くしている。
逃げろと言われても、すぐには動けない。
目の前にあるのは、何十年、何百年と祈りを捧げてきた神聖な木だ。そこから吹き出したものが危険だと、頭では理解できても、体が認めるまでには時間がかかる。
「布で口を塞いで! 風上へ走ってください!」
「神樹を置いて逃げられるか!」
誰かが叫んだ。
「木は走れません! 皆さんは走れるでしょう!」
「孝太郎!」
リュシアがフィルを抱き上げようとして、ふらつく。
「俺じゃなくて弟さんを見てください! ロルフさん、フィルを!」
「分かった!」
ロルフが少年を背負う。
黒い粉は、思ったより速い。
煙ほど濃くないせいで距離が分かりにくい。光の角度によって見えたり、消えたりする。
「長老!」
俺は神樹の前から動かない老人へ駆け寄った。
「逃げますよ!」
「私は残る」
「何を言ってるんです!」
「妻へ、木を守ると約束した」
「死んだら守れないでしょう!」
「ここで逃げれば、私は二度、妻を裏切る」
長老は斧を握ったまま、黒い幹を見上げていた。
泣いている。
それでも、足は動かない。
俺は腹が立った。
この人の悲しみが分からないからではない。
分かろうとしたからこそ、ここで死ぬと言われるのが腹立たしかった。
「勝手に裏切ったことにしないでください!」
俺は長老の腕をつかんだ。
「何?」
「奥さんは、あなたに木と一緒に死ねって言ったんですか!」
「手を放せ、人間!」
「木を守れって約束したんでしょう! なら、生きて守り方を考えてください!」
「もう手遅れだ!」
「だからって、あなたまで粉になってどうするんです!」
「口の利き方を――」
「今それどころじゃない!」
長老の体は、見た目より重かった。
抵抗する老人を一人で動かせるほど、俺には力がない。
「リュシア! 手伝って!」
「孝太郎、粉が来る!」
「だから早く!」
リュシアが駆け戻り、長老の反対側の腕を取った。
「長老、行きます」
「お前まで!」
「私も神樹を捨てたくありません!」
リュシアは泣きながら怒鳴った。
「でも、あなたまで失ったら、誰が森の記憶をフィルたちへ伝えるのです!」
「リュシア……」
「妻との約束を語ったのは、長老でしょう! ならば、逃げずに最後まで語ってください!」
長老の抵抗が止まった。
「今です!」
俺とリュシアで老人を引っ張る。
三歩目で俺は木の根に足を取られた。
「うわっ!」
「またか!」
「数えないでください!」
転びかけた俺の襟を、リュシアが片手でつかむ。
「人間は本当に足が弱いな!」
「長老を引っ張りながら走ってるんですよ!」
「言い訳をするな!」
「王女様みたいなこと言わないでください!」
俺たちは斜面を上り、どうにか風上へ逃れた。
後ろを振り返る。
神樹を中心に、黒い粉が薄い霧のように広がっている。村の手前では、残ったエルフたちが濡らした布を顔へ巻き、子供と老人を高台へ誘導していた。
「全員いるか!」
薬師が声を張る。
「北側の家に、老夫婦が残っています!」
「迎えに行く!」
「待って!」
俺は走り出そうとした若者を止めた。
「風下からまっすぐ入らないでください! 森を回って、北側から近づく!」
「時間がかかる!」
「粉の中で倒れたら、助ける人間が増えるだけです!」
「では、お前が行け!」
「俺は道を知りません!」
「口だけか!」
「口しか使えないから、口を使ってるんですよ!」
若者が俺の胸倉をつかんだ。
「私の父と母がいる!」
「だから落ち着いてください!」
「落ち着けるものか!」
「分かりますよ!」
「人間に何が分かる!」
「分かりません! でも、焦って失敗する怖さなら分かる!」
怒鳴り合っている間にも時間は過ぎる。
俺は若者の腕をつかみ返した。
「北側へ回る道を知ってる人は?」
「私だ」
リュシアが答える。
「じゃあ三人で行きます。濡らした布を多めに。老夫婦にも使う。入る前と出たあとで人数を確認する」
「なぜ、お前まで来る」
若者が睨む。
「今の話をした責任があります」
「責任を取るつもりか」
「その言葉、嫌いです。帰ってから一緒に怒られます」
「誰に」
「王女様に」
「なぜ人間の王女が怒る」
「俺が危険な場所へ行くと、すごく怒るんです」
リュシアが妙な顔をする。
「それは共同責任者だからか」
「たぶん」
「たぶん?」
「今そこを掘らないでください!」
◇
老夫婦は、黒い粉が届く前に救出できた。
祖父の方は足が悪く、祖母は「家へ置いてきた煮込みが焦げる」と戻ろうとした。
「命より鍋が大事なんですか!」
「三日分の食事だよ!」
「じゃあ俺があとで見ます!」
「人間に森鍋の火加減が分かるものか!」
「今は火加減の話じゃありません!」
結局、鍋を諦めさせる方が、老人を運ぶより時間がかかった。
高台へ戻った頃には、俺の服は汗と泥でひどいことになっていた。
「孝太郎」
ロルフが俺の肩や背中を布で払う。
「黒い粉がついているかもしれん。村人へ近づくな」
「分かってます。水は?」
「運ばせている」
「服も替えたいですね」
「着替えは一組だ」
「持ってきてよかった……」
「王女殿下へ感謝しろ。お前は一組でよいと言い張ったそうだな」
「荷物を減らしたかったんですよ」
「殿下が三組入れた」
「三組も?」
「一日一度、泥へ落ちる計算らしい」
「俺を何だと思ってるんですか!」
「今日はすでに二度転びかけた」
反論しづらい。
村人たちは交代で衣服や手足を洗った。
黒い粉が何なのかは分からない。水で落ちる保証もない。それでも、付着したままよりはましだ。
神樹に近かった者と、それ以外の村人を分け、名前を記録する。咳や熱が出た場合に、誰がどこにいたか追えるようにするためだ。
「人を二つに分けるのか」
長老が疲れた声で尋ねた。
「近くにいた人を差別するためじゃありません」
「だが、皆が恐れる」
「恐れます」
「ならば」
「隠して後から広がったら、もっと恐れます」
俺は長老の隣へ座った。
老人は濡れた白髪のまま、神樹の方角を見つめている。
「木は、もう駄目なのか」
「分かりません」
「お前はいつも、それだな」
「すみません」
「いや」
長老は首を横に振った。
「今は、その言葉の方が信じられる。大丈夫だと言われる方が怖い」
俺たちはしばらく黙っていた。
「長老」
「何だ」
「木を全部切る話は、まだしません」
「なぜだ。幹の中まで病んでいたのだろう」
「だからこそです。今切ったら、もっと大量の粉が出るかもしれない」
長老の顔が強張る。
「では、どうする」
「周囲を広く封鎖する。風向きを毎日記録する。粉が出る時間や、雨の日にどうなるかを見る。木の近くの土や草も調べる」
「悠長ではないか」
「切るなら、粉を飛ばさない方法を考えてからです」
「そのような方法があるのか」
「分かりません」
「またか」
「でも、考えられることはあります。幹を濡らす。大きな布で覆う。風の弱い日に少しずつ切る。切ったものはその場で袋へ入れるか、穴へ埋める」
「燃やさぬのか」
「火で粉が舞うかもしれないし、煙に何が混じるかも分からない。試すなら少量からです」
長老は黙って聞いていた。
「一人では、できないな」
「はい」
「人間の国からも人を呼ぶのか」
「必要になると思います」
「森へ、さらに人間を入れるのか」
「嫌ですよね」
「嫌だ」
即答だった。
「でも、エルフだけで足りないなら、選ばないといけません」
「人間を入れるか、森が病むのを見ているか」
「その二つだけにしない方法を考えます。入る人数を制限する。触れていい場所を決める。エルフの監視役をつける」
「監視されるのが嫌だとは言わぬのか」
「嫌ですけど、信用がないのに自由だけ求めるのは無理でしょう」
長老が俺を見る。
「お前は、本当に人間か」
「見た目で分かりません?」
「人間は、己の正しさを疑わぬものだと思っていた」
「エルフも大概ですよ」
「無礼なところは、間違いなく人間だな」
「そこだけで判断しないでください」
長老は、ほんの少し笑った。
◇
その日の夕方。
神樹の周辺を封鎖した俺たちは、一度グランヴェール王都へ戻ることになった。
フィルたち患者の容体は、膏薬を止めてから悪化していない。むしろミラの咳は少しずつ減っていた。
ただ、黒い病そのものは治っていない。
森の薬師だけでは人手も道具も足りない。
それに、神樹から出る黒い粉と、グランヴェールの黒穂病に関係があるなら、これはエルフの森だけの問題ではなかった。
「私も行く」
出発の話をすると、リュシアが当然のように言った。
「王都へ?」
「ああ」
「人間の国は嫌いじゃなかったんですか」
「嫌いだ」
「即答だなあ」
「だが、森を守るために必要なら行く」
「長老は許すんです?」
「許さん」
長老本人が、すぐ後ろから答えた。
「では行けないのでは?」
「許してはいないが、止めもしない」
「どう違うんですか」
「失敗したとき、私の許可ではないと言える」
「ずるくないです?」
「長老とは、そういうものだ」
「どこの国も上の人は似てるな!」
国王の顔を思い出した。
人を試すために、娘を褒美に出すような男である。
「フィルは?」
「私に行ってこいと言った」
リュシアは弟を見る。
フィルは神殿の前に座り、こちらへ手を振っていた。
「姉さん、王都で喧嘩しないでね!」
「私から喧嘩はしない!」
俺は小声で尋ねる。
「本当ですか?」
「お前は黙れ」
「ほら、もう怒ってる」
「姉さん!」
「怒っていない!」
フィルは笑い、そのあと少し咳き込んだ。
リュシアの顔に不安が浮かぶ。
「大丈夫。薬師が見てるから」
フィルが姉を安心させるように言った。
「それに、毎日使者を送るんでしょう?」
「ああ」
「人間の王女が、朝と夜の二回にしろって」
「結局二回で決まったんですか」
「交渉が長かった」
「目に浮かぶなあ……」
リュシアは弟の前へしゃがみ、長い間何も言わなかった。
たぶん、言いたいことが多すぎるのだ。
心配するな。
無理をするな。
知らないものを食べるな。
勝手に外へ出るな。
全部言えば、弟を子供扱いして怒らせる。
「戻ってくる」
結局、彼女が口にしたのはそれだけだった。
「うん。待ってる」
今度の約束は、命令ではなかった。
◇
王都へ戻る馬車は一台だった。
俺とリュシア、ロルフ、御者。
ところが王都の南門をくぐったところで、見覚えのある金髪の王女様が待ち構えていた。
「遅いです!」
馬車が完全に止まる前に、エレオノーラが扉を開ける。
「王女様、危ないですよ!」
「昨日の夜には戻る予定でした!」
「神樹から黒い粉が出たんです!」
「報告は受けました!」
「じゃあ仕方ないでしょう!」
「一日二度の報告が、昨日は一度しか来ませんでした!」
「緊急事態だったんです!」
「生きていると一言書くだけでよいのです!」
「書いたのは俺じゃなくて、リュシアの使者ですよ!」
エレオノーラの視線が、馬車内のリュシアへ移る。
「あなたが使者を出したのでしょう。なぜ報告を省いたのです」
「忙しかった」
「こちらは心配していたのです」
「人間の王女が心配しても、森の病は治らない」
「それとこれとは別です!」
「別ではない。人手を伝令に割けば、村の作業が遅れる」
「使者一人で村が崩れるのですか」
「人間は、何でも余っていると思うな」
馬車の入口で、二人が睨み合う。
俺はまだ中から降りられない。
「とりあえず、どいてもらえません?」
「孝太郎は黙っていてください」
「お前は座っていろ」
「どうしてそこだけ息が合うんですか!」
ロルフが先に馬車を降りた。
「孝太郎、健闘を祈る」
「逃げないでくださいよ!」
「私は報告がある」
「俺にもあります!」
「殿下への報告は、共同責任者の仕事だろう」
「便利なときだけ、その言葉を使うな!」
ロルフは本当に行ってしまった。
薄情者である。
「リュシア。城まで同行してください」
エレオノーラが言った。
「お前に命じられる筋合いはない」
「使者として来たなら、最低限の礼儀は守ってください」
「人間の城へ入ると決めた覚えはない」
「では、どこで会議をするつもりです」
「森へ来い」
「国の重臣全員を森へ連れていけと?」
「必要な者だけ来ればよい」
「国は、あなたの村ほど小さくありません!」
リュシアの耳がぴくりと動いた。
「小さいことは劣っているという意味か」
「そのようなことは言っていません!」
「今言った」
「規模の話です!」
「人間は、すぐに数で価値を決める」
「そちらは、すぐ言葉尻を取りますね!」
「二人とも!」
俺は馬車から顔を出した。
「ここで喧嘩するなら、俺は帰って寝ますよ!」
「帰る場所は城です」
「お前は私と森の問題をまとめろ」
「体が一つしかないんです!」
エレオノーラが馬車の中へ乗り込んできた。
「詰めてください」
「王女様も乗るんですか」
「移動しながら事情を聞きます」
「私は人間の王女と同じ席には座らない」
リュシアが反対側へ移動する。
「こちらも、あなたと座りたいとは言っていません」
「では降りろ」
「ここはグランヴェールの馬車です!」
「この馬車、借り物ですけどね」
「孝太郎は黙っていてください!」
俺は二人の間へ座らされた。
右にはエレオノーラ。
左にはリュシア。
美少女二人に挟まれている。
その事実だけを聞けば、世の男性から羨ましがられるかもしれない。
実際には、右からは冷たい視線、左からは露骨な敵意が飛んでくる。
胃が痛い。
「孝太郎」
エレオノーラが俺の袖を見る。
「その服、昨日出発したときと違いますね」
「着替えました」
「なぜです」
「黒い粉を浴びかけたので、洗って」
「浴びたのですか!」
「かけたと言いました!」
「転んだのか」
リュシアが口を挟む。
「転んでません。転びかけただけです」
「二度だ」
「数えなくていいでしょう!」
「王女へ正確に報告しろと言われた」
「そこだけ律儀なんですね!」
エレオノーラの目が細くなる。
「二度」
「一度目は長老を引っ張っていて、二度目は斜面が」
「怪我は?」
「ありません」
「本当に?」
「本当です」
「見せてください」
「何を?」
「膝です」
「馬車の中で?」
「前にも転んだとき、怪我を隠したでしょう」
「今回は転んでないって言ってるじゃないですか!」
リュシアが俺たちを見比べる。
「人間の王女は、いつもお前の膝を確認するのか」
「いつもじゃありません!」
「一度しかしていません!」
俺とエレオノーラの声が重なった。
「一度はしたのか」
リュシアの目が、なぜか冷たくなる。
「王女は仕事仲間の服を脱がせるのだな」
「膝を確認しただけです!」
「似たようなものだ」
「まったく違います!」
「リュシアも変な言い方をしないでください!」
馬車の外から、御者の咳払いが聞こえた。
たぶん全部聞こえている。
城下の人々も、王女の馬車へ注目している。
「とにかく、報告します」
俺は無理やり話題を変えた。
「神樹の中まで病んでいました。黒い粉が出て、村の一部を避難させています」
エレオノーラの顔から、感情的な怒りが消える。
仕事の顔になった。
「患者は?」
「三人とも急激な悪化はありません。膏薬を止めたあと、ミラさんの咳は減っています。ただ、それで治療薬が原因だと断定はできません」
「必要なものは」
「布、石鹸、蓋つきの容器。記録する人。できれば植物の病気に詳しい農民か薬師。それから、神樹を覆える大きな布が欲しいです」
「大きさは」
「城の大広間の床を覆うくらい」
「そのような布は、簡単には用意できません」
「帆布は?」
「船を動かせなくなります」
「古い天幕をつなぐのはどうでしょう」
「軍の保管庫を確認させます」
話が早い。
これがエレオノーラの強みだ。
俺が方法を考え、彼女が人と物を動かす。
「そして、もう一つ」
リュシアが口を開いた。
「何です」
「森の古代麦を、人間へ渡す条件を話す」
「古代麦?」
エレオノーラの表情が変わる。
「黒い病に強い種が、森に残っています。グランヴェールの飢饉を救える可能性がある」
俺が説明すると、馬車の中が静かになった。
国が最も欲しているもの。
来年へつなぐ種。
それをエルフが持っている。
「条件は?」
エレオノーラが尋ねる。
リュシアは即答しなかった。
まるで、この瞬間を待っていたように、まっすぐ王女を見た。
「人間が奪った森を返せ」
「どの範囲です」
「大森林南部。現在、人間が畑と呼んでいる土地のすべてだ」
「不可能です」
エレオノーラは一瞬も迷わなかった。
リュシアの目が険しくなる。
「話を聞く気もないのか」
「その土地には、何千人もの民が暮らしています。明日から森へ戻せと言われて、受け入れられるはずがありません」
「人間は、我らから奪うときに聞かなかった」
「だから、今度は私たちも聞かなくてよいと?」
「そうだ」
「それでは、同じことを繰り返すだけです」
「きれいごとを言うな!」
「二人とも、声を抑えてください! 馬が驚いてます!」
馬車が大きく揺れた。
俺の肩へ、右からエレオノーラ、左からリュシアがぶつかる。
二人はすぐに離れ、なぜか互いを睨んだ。
「孝太郎へ寄りかからないでください」
「馬車が揺れただけだ」
「今、腕をつかみましたね」
「倒れないためだ」
「反対側の壁をつかめばよいでしょう」
「壁より近かった」
「俺を壁の代わりにしないでください!」
二人が同時にこちらを見る。
「孝太郎は黙っていてください」
「お前は座っていろ」
「やっぱり、そこだけ仲がいい!」
森を巡る百年分の恨み。
明日のパンを求める人間。
病に強い古代麦。
どう考えても、簡単にまとまる話ではない。
それなのに俺は、最も相性の悪い二人を同じ馬車へ乗せてしまった。
王都の城へ着くまで、あと半刻。
俺にとっては、国境の戦場より長い半刻になりそうだった。




