第32話 正しいことを言っても木は切れない。だから一緒に泣くしかなかった
「もう、何を信じればよいのか分からないのです」
リュシアは俺の前に立ったまま、長老へそう言った。
弟を救うために信じてきた薬が、かえって病を広げているかもしれない。
その可能性を認めるのは、簡単なことではない。
間違いだったと認めれば、これまでフィルへ毎日薬を塗った自分まで、弟を苦しめた側になってしまう。
「リュシア」
長老の声は厳しかったが、その奥に迷いがあった。
「その人間の言葉を、森の薬師より信じるのか」
「信じてはいません」
「では、なぜ庇う」
「分からないからです!」
リュシアが振り返った。
目に涙がたまっている。
「この男が正しいのか、薬師が正しいのか、私には分かりません。ですが、今までと同じことを続ければ、フィルの黒い斑点は増える。昨夜も、朝より広がっていました」
「病が重くなっているだけだ」
薬師が反論する。
「だから薬を増やしたのだ」
「増やして、さらに広がった!」
「リュシア!」
「私は毎日見ていた!」
彼女の声が神殿の壁へぶつかる。
「薬を塗った場所の周りから、新しい黒い点が増えていくのを見ていました。それでも、効いていると言われたから信じた。信じるしかなかった!」
薬師は言葉を失った。
責められている。
そう感じたのだろう。
だが、リュシアも薬師を憎んでいるわけではない。
誰かを悪者にすれば楽になるのに、それができないから苦しいのだ。
「いったん止めましょう」
俺が言うと、全員の視線が集まった。
「ずっと止めろとは言いません。まず一日だけです。膏薬を塗るのを止めて、斑点の場所と大きさを記録する」
「一日で何が分かる」
長老が問う。
「何も分からないかもしれません」
「またそれか」
「でも、塗った患者と塗らない患者を比べるよりは安全です。今いる三人全員への使用を止める。その代わり、熱、咳、食事、水、斑点の広がりを細かく記録します」
「黒い病を放置しろと言うのか」
「放置じゃありません。体を清潔にして、水分を取らせ、食べられるものを少しずつ与える。使う布や器は患者ごとに分ける。世話をする人も、できるだけ固定する」
薬師が眉をひそめた。
「それで治るのか」
「治るとは言ってません」
「ならば意味がない」
「悪くしているかもしれないものを止める意味はあります」
俺が言うと、薬師は唇を噛んだ。
「私が、あの子らを悪くしたと言うのか」
「分かりません」
「逃げるな!」
「逃げてません!」
思わず声が大きくなった。
「あなたが悪いと決めたら、話は簡単です。でも、本当にそれでいいんですか。神樹の樹皮を薬にしたのは、昔からの知恵なんでしょう。斑点が薄くなった患者もいた。だから続けた。助けたかったから!」
「なら、なぜ責めるような言い方をした!」
「俺も怖かったんですよ!」
薬師が目を見開く。
「フィルが倒れて、次はこの薬が原因かもしれないって気づいて、また間に合わなかったらどうしようと思った。だから怒鳴った。すみませんでした」
「……人間が、我らへ頭を下げるのか」
「悪かったと思えば下げますよ」
「お前は先ほどから無礼ばかりだが」
「そこは別の話です」
「別にするな!」
ロルフが後ろで吹き出した。
緊張がほんの少しだけ緩む。
薬師も怒った顔のまま、わずかに肩の力を抜いた。
「一日だ」
長老が言った。
「一日のみ、膏薬を止める。それで悪化したなら、すぐに元へ戻す」
「分かりました」
「ただし記録は、お前が行え」
「もちろんです」
「夜もだ」
「え?」
「細かく見ると言ったのだろう」
「俺、今日ほとんど寝てないんですけど」
「弟には時間がない」
リュシアが静かに言う。
「……分かりましたよ」
「私も残る」
「リュシアは少し休んでください」
「なぜ人間のお前に命じられる」
「昨日も寝てない顔をしてるからです」
「顔で何が分かる」
「目が赤い。動きが遅い。さっきから同じことを二回聞いてる」
「聞いていない」
「聞きましたよ」
「聞いていない!」
「そこまで怒る元気があるなら、まだ大丈夫そうですね」
「孝太郎」
ロルフが俺の肩を叩いた。
「女を怒らせて体調を確かめるのは、あまり賢い方法ではないぞ」
「王女様にも似たようなこと言われました」
「学べ」
「努力します」
◇
膏薬を止めるだけでも、村では大騒ぎになった。
病人の家族からすれば、唯一の治療を奪われるように見える。
「人間の言葉を信じて、娘へ薬を塗らないと言うのか!」
ミラの母親は神殿の入口で薬師へ詰め寄った。
「もし今夜、娘が死んだら誰が責任を取る!」
「私が」
薬師が答えようとしたが、俺はその前へ出た。
「俺も残ります」
「お前が死んで、娘が戻るのか!」
「戻りません」
「なら責任など取れないではないか!」
「はい」
母親の顔が怒りで歪む。
「では、なぜ口を出した!」
「今までの薬で良くなっていないからです」
「それでも、何もしないよりはましだ!」
「何かをしている安心のために、悪くなるかもしれないことを続けるんですか」
「悪くなると決まったわけではないだろう!」
「決まってません。だから止めて確かめたい」
「娘で試すな!」
言い返せなかった。
その通りだった。
俺は試すという言葉を避けていたが、やっていることは観察と比較だ。患者たちに負担をかける。
「……すみません」
「謝るな!」
母親は泣きながら俺の胸を叩いた。
力は強くない。
それでも痛かった。
「謝られたら、許さなければならない気がする! 私はお前を許したくない! 人間も、薬師も、森も、娘を治せないもの全部が憎い!」
「はい」
「はいではない!」
「でも、分かります」
「分かるものか!」
「分かりません」
俺が言うと、母親はさらに泣いた。
「じゃあ何なのだ、お前は!」
「分からないけど、逃げないためにここにいます」
胸を叩いていた手が止まる。
「一晩、ここにいます。ミラさんに何か変化があれば、すぐ呼んでください。俺にできることがなくても、一緒に考えます」
「考えるだけか」
「俺一人では、それしかできません」
格好悪い答えだった。
だが、母親は追い出せとは言わなかった。
「娘が死んだら、お前を一生恨む」
「それは困ります」
「怖いか」
「怖いです」
「なら帰れ」
「それも嫌です」
母親は泣きながら、ほんの少しだけ笑った。
「おかしな人間だ」
「よく言われます」
◇
夜。
神殿の煙を止め、窓を少し開けた。
薬師は最後まで嫌がったが、咳の変化を見るために、ミラの部屋だけ清めの煙を焚かないことになった。
「寒い」
ミラが掠れた声で言う。
「窓、閉めます?」
「いや。空気が軽い」
「咳は?」
「少し楽だ」
俺は炭筆で紙へ記録する。
時刻。
体温は正確に測れないので、額や首へ触れた感覚と本人の訴え。
咳の回数。
水を飲んだ量。
食べた粥。
斑点の輪郭を紙へ写し、広がったかを見比べる。
「人間は、何でも書くのだな」
そばにいた薬師が言った。
「俺の記憶だけじゃ、思い込みが入るので」
「お前には記憶の技能があるのだろう」
「覚えているからこそ、都合よく意味をつけることもあります」
「自分を信用していないのか」
「してます。でも、信用しすぎないようにしてるんです」
薬師は妙な顔をした。
「面倒な生き方だな」
「そちらに言われたくありません」
深夜を過ぎた頃、フィルの熱はまだ下がっていなかった。
だが、黒い斑点は急には広がっていない。
ミラの咳も、煙を止めてからわずかに減った。
トルガは変化なし。
これだけでは何も証明できない。
それでも、少なくとも膏薬を止めた直後に急激な悪化は起きていない。
「寝たらどうだ」
ロルフが温かい湯を差し出した。
「交代してくれるんですか」
「記録は書けん」
「文字、読めますよね」
「お前の書き方が細かすぎる」
「誰が読んでも分かるようにしてるんです」
「なら、もっと大きく書け。目が疲れる」
「老眼ですか」
「まだ三十二だ!」
「意外と若い!」
「どういう意味だ!」
声が大きくなり、フィルが寝台の上で笑った。
「人間の大人って、夜中でも喧嘩するんだね」
「この人だけです」
俺とロルフの声が重なった。
リュシアが呆れた顔をする。
「やはり似た者同士ではないか」
「どこがです?」
「素直に認めないところだ」
「リュシアに言われたくないですよ」
「私は素直だ」
「王女様も同じこと言ってました」
「その人間の王女と一緒にするな」
「ほら」
「何がだ!」
フィルがまた笑った。
笑ったあと、咳き込む。
リュシアはすぐに弟の背中へ手を添えた。
その手つきは優しい。
だが、首元の黒い斑点へ触れないよう、無意識に避けていた。
「怖いですか」
俺が尋ねると、リュシアの手が止まった。
「何が」
「触るの」
「そんなわけがない」
「なら、触ってあげてください」
「命令するな」
「命令じゃありません」
リュシアはしばらく迷ったあと、弟の頬へ手を当てた。
黒い斑点の上へ、そっと指が触れる。
「姉さん」
「何だ」
「怖かった?」
「怖くない」
「嘘だ」
「姉を嘘つき呼ばわりするな」
「僕も怖いよ」
フィルは姉の手へ、自分の手を重ねた。
「僕が森の外のものみたいになって、皆に触ってもらえなくなるのが一番怖い」
リュシアの顔が崩れた。
「そんなことにはならない」
「でも、皆、少しずつ離れていく」
「私は離れない」
「じゃあ、もっと近くにいて」
リュシアは弟を抱きしめた。
今度は苦しいと言われない程度に、ゆっくりと。
「ごめん」
「姉さんが謝るの、珍しいね」
「今だけだ」
「明日も謝っていいよ」
「調子に乗るな」
俺は記録用紙へ目を落とした。
見ていると、こちらまで泣きそうになる。
「泣いているのか」
リュシアが睨む。
「煙が目に」
「もう煙は止めた」
「寝不足です」
「顔を背けるな」
「見ないでくださいよ!」
ロルフが鼻で笑った。
「お前は本当に、格好のつかない男だな」
「人が感動してるときに言います?」
「感動していたのか」
「説明させないでください!」
◇
翌朝。
三人の患者は、誰も急激には悪化していなかった。
ミラの咳は明らかに減り、斑点も少なくとも前夜より広がっていない。フィルとトルガは大きな変化なし。
たった一晩。
これで膏薬が原因だとは言えない。
だが、止めたらすぐ死ぬという薬師たちの不安は外れた。
「もう一日、続けたいです」
俺が言うと、薬師は黙って頷いた。
「膏薬も調べます。病気の神樹から取った樹皮を、健康な木や草へ少量つけて、同じ斑点が出るか確かめたい」
「神樹を汚すな」
長老はまだ反対した。
「神樹には触りません。切り取ってある樹皮を使います」
「森の命を試す道具にする気か」
「今、患者に塗ってるでしょう」
長老の顔が歪む。
「それに、あの黒い粉が病を広げているなら、神樹の周りを封鎖するだけでは足りないかもしれません」
「何を言いたい」
「病んだ部分を切り落とす必要があります」
神殿の空気が、また凍った。
「一部だけです。木全体を切るとは」
「同じだ!」
長老が杖を床へ叩きつける。
「あの神樹は、我が妻が守っていた木だ!」
初めて聞く話だった。
長老の声が震えている。
「五十年前、人間の火から守るため、妻はあの木の前に立った。矢を受け、二度と歩けなくなっても、毎朝あの木へ祈った。妻が死んだあとも、私は約束した。あの木だけは、何があっても守ると!」
正しいから切れ。
森全体を救うためだ。
そう言えば済む話ではなかった。
木はただの木ではない。
長老にとっては、亡くした妻との約束そのものだった。
「それでも切れと言うのか」
長老の目に涙が浮かんでいる。
俺は答えられなかった。
病気の可能性だけなら、切るべきだと思う。
だが、この人にとって何を切ることになるのか、今初めて知った。
「……今日は切りません」
「逃げるのか」
「違います」
俺は黒い膏薬の器を見た。
「もっと調べます。本当に切る以外に方法がないのか、切るとしてもどこまでなら木を残せるのか。森の薬師と一緒に考えます」
「人間の情けなど要らぬ」
「情けじゃありません」
「では何だ」
「俺だって、誰かに大事なものを簡単に捨てろと言われたら腹が立つからです」
日本に残してきた家族。
帰れない故郷。
思い出すだけで、胸の奥が痛んだ。
「でも、調べた結果、本当にその木から病が広がっているなら、また話します」
「そのときは切れと言うのだな」
「はい」
「残酷な男だ」
「そうかもしれません」
長老は杖を握りしめた。
俺も何を言えばよいか分からず、ただ立っていた。
しばらくして、長老の頬を涙が伝った。
「妻との約束を、私に破れと言うのか」
「一人で決めなくていいです」
「何?」
「俺も一緒に考えます。リュシアも、薬師も、村の人も。切ることになったら、一緒に見届けます」
「それで妻が戻るか」
「戻りません」
「木も戻らぬ」
「はい」
「ならば何の意味がある」
俺は答えを探した。
正しい言葉など、たぶんない。
「一人で泣かなくて済みます」
長老は俺を見た。
リュシアも、薬師も、ロルフも黙っている。
「それだけか」
「今の俺には、それしか言えません」
長老は長い間、何も言わなかった。
やがて杖から手を離し、顔を両手で覆った。
白髪の老人は、子供のように泣いた。
妻の名を何度も呼びながら。
誰も慰めなかった。
できなかった。
俺たちはただ、そこにいた。
正しいことを言えば、人が動くわけではない。
正しさで切れるのは木だけで、人の思い出までは切れない。
だから決断する前に、一緒に泣く時間が必要なのだと思う。
その日の昼過ぎ。
神樹の黒い樹皮を塗った草の葉に、小さな黒い点が現れた。
まだ偶然かもしれない。
それでも長老は、震える手で斧を持ち上げた。
「……病んだ枝だけだ」
「はい」
「幹は残す」
「できる限り」
「妻との約束を、すべて破るわけではない」
「そうしましょう」
村人たちが神樹の前へ集まる。
誰も斧を振り下ろせなかった。
長老も、リュシアも、薬師も。
そして俺にも、その資格はない気がした。
そのとき、フィルが姉に支えられながら前へ出た。
「僕が最初に印をつける」
「フィル、戻れ」
「僕の病気を止めるためなんでしょう」
少年は炭筆を受け取り、黒く病んだ枝へ小さな印をつけた。
「ここから先は、元気な木を残して」
長老が目を閉じる。
それから、ゆっくり斧を振り上げた。
森へ、最初の一撃が響く。
同時に。
神樹のさらに奥、誰も触れていない幹の中心から、黒い粉が噴き出した。
「離れろ!」
俺が叫ぶ。
だが、風は村の方角へ吹いていた。
枝だけでは足りない。
病はすでに、神樹の奥深くまで入り込んでいた。




