第30話 エルフの村で最初に出されたのは、歓迎の食事ではなく毒見役だった
「帰れ。さもなくば、この場で射る」
白髪のエルフが引いた弓から、ぎり、と嫌な音がした。
矢じりは、きちんと俺の胸へ向けられている。
異世界へ来てから、剣や矢を向けられる回数が明らかに多い。ホームセンターで働いていた頃は、客に怒鳴られたことはあっても、命まで取られそうになったことはなかった。
「帰りたいのは山々なんですが」
俺は両手を上げた。
「帰る前に、どうして呼ばれたのか説明してもらえません?」
「我らは呼んでいない」
「リュシアは城まで来ましたよ」
「あれは、この娘の独断だ」
「長老!」
リュシアが声を上げた。
「フィルの熱は五日も下がっていない! ミラも、トルガも同じだ。森の薬師たちは、もう使える薬がないと言った!」
「だからといって、人間を村へ入れてよい理由にはならぬ」
「では、弟を見殺しにしろと言うのか!」
「森の意志へ委ねるのだ」
「森の意志は、弟を苦しめることなのか!」
リュシアの声が震えた。
さっきまで俺へ弓を向けていた少女が、今度は自分の一族へ噛みついている。
白髪の長老も、苦しそうな顔をしていた。
冷たいわけではないのだろう。
フィルを救いたくないわけでもない。
ただ、人間を入れる怖さの方が大きい。
「長老」
フィルが姉の腕から離れ、一歩前へ出た。
「僕、この人に診てもらいたい」
「フィル」
「治らないかもしれないって、ちゃんと言った。絶対治すって言う人より、僕はこの人を信じたい」
「子供に何が分かる」
「苦しいのは僕だよ」
静かな声だった。
だから余計に、誰も言葉を返せなかった。
「夜、眠れないのも僕。薬を飲んで吐くのも僕。黒いところが少しずつ増えるのを見るのも僕だ」
フィルは自分の頬へ触れた。
「森に任せろって言われても、森は何も答えてくれなかった」
「やめなさい」
「長老は、僕が怖くないの?」
「何を言う!」
「僕が死ぬのがじゃない。僕を助けるために、人間を入れるのが怖いんでしょう」
長老の弓が、わずかに下がった。
俺は思わず息を吐く。
完全に下ろしてはいないが、少なくとも今すぐ射るつもりはなくなったらしい。
「条件がある」
長老が言った。
「何です?」
「お前たちを村へ入れる前に、穢れを持ち込んでいないか確かめる」
「どうやって?」
「身につけている物をすべて置いていけ」
「すべて?」
「武器、荷物、衣服もだ」
「衣服も!?」
「孝太郎」
ロルフが小声で言った。
「必要なら脱げ」
「嫌ですよ! 森の入口で全裸になるために来たんじゃありません!」
「命と服のどちらが大切だ」
「その二択にしないでください!」
リュシアが額を押さえた。
「長老。衣服まで奪う必要はない。この男は貧弱だ。裸で歩かせれば、病人を診る前に本人が倒れる」
「貧弱って言いました?」
「事実だ」
「もう少し言い方があるでしょう!」
「三歩で転ぶ」
「いつまで言うんですか!」
周囲のエルフたちから、小さな笑い声が漏れた。
敵意ばかりだった顔が、一瞬だけ崩れる。
笑った本人たちは、すぐに真顔へ戻った。
俺はそれを見て、少しだけ安心した。
彼らも人間と同じように笑う。
ならば、話が通じる余地はあるはずだ。
「荷物は確認して構いません。武器も、俺は持ってないです」
「短剣がある」
「料理用です」
「刃は刃だ」
「じゃあ預けます。でも服は勘弁してください」
「下着まで取られたら、王女殿下へ何と報告すればいいか分からん」
ロルフが真顔で言った。
「報告しなくていいですよ!」
「毎日、詳しく知らせろと言われた」
「そこまで詳しくしなくていい!」
リュシアが俺たちを見比べた。
「お前たちは本当に、緊張感がないな」
「ありますよ。喋ってないと怖いだけです」
「そうは見えない」
「見えないようにしてるんです」
長老は俺たちの荷物を、若いエルフたちに調べさせた。
水筒。
石鹸。
布。
塩。
簡単な食料。
記録用の紙と炭筆。
どれを見ても、彼らは疑わしそうに眉をひそめる。
「この白い粒は何だ」
「塩です」
「毒ではない証拠は」
「舐めます?」
「お前が平気な毒かもしれない」
「そこまで疑われたら、証明のしようがないでしょう!」
別のエルフが石鹸を摘まみ、鼻を近づけた。
「臭い」
「知ってます」
「これを体へ塗るのか」
「手を洗うんです」
「なぜ泥より汚い色をしている」
「材料の都合です!」
苦労して作った石鹸もどきを、初対面でここまで悪く言われるとは思わなかった。
ラウル村のおばちゃんたちでさえ、臭いと言いながら使ってくれたのに。
「確認は終わった」
長老はまだ納得していない顔だった。
「ただし、人間が村の水や食べ物へ触れることは許さぬ」
「病人を診るには、触らないと」
「許可した範囲だけだ」
「そんなに俺が汚いですか」
「人間は森の外の病を持ち込む」
「逆もありますよ」
「何?」
「俺たちが森の病気を外へ持ち出す可能性もある。だから、お互いに気をつけるべきです」
長老の顔が険しくなる。
「森が人間を汚すと言うのか」
「病気に人間もエルフも関係ないでしょう」
「精霊に守られた森には、本来病などない」
「実際にあるじゃないですか」
周囲の空気が冷えた。
ロルフが俺の背中を肘で突く。
「言い方」
「でも、ここを曖昧にしたら調べられません」
「黙って受け入れる知恵も持て」
「それで悪くなったら、誰が責任取るんです?」
「お前は口で死ぬタイプだな」
「最近、自分でもそう思います」
長老は俺を睨み続けたが、最終的には弓を下ろした。
「村へ入れ。ただし、勝手な行動をすれば射る」
「それ、先に言う必要あります?」
「忘れぬようにだ」
「忘れませんよ。今日だけで二回目なので」
◇
エルフの村は、遠くから見た以上に不思議な場所だった。
家は地面へ建てられているのではなく、巨木の幹や枝に寄り添うように作られている。木材を無理に切りそろえず、曲がった枝や根をそのまま柱や階段に使っていた。
家と家の間には吊り橋が渡され、その下を小川が流れている。
美しい。
そう思った直後、鼻を刺す甘い腐臭がした。
村の奥へ進むほど、臭いが強くなる。
「病人は、あの神殿にいる」
リュシアが指さした。
大樹の根元に、半分埋まるように造られた建物がある。入口には薬草が吊るされていたが、その香りでも腐臭を隠し切れていない。
「病人を全員、あそこへ集めてるんですね」
「そうだ」
「世話をする人は?」
「薬師と家族だ」
「出入りは自由?」
「病人を孤独にさせるわけにはいかない」
「気持ちは分かります。でも、もし移る病気なら」
「また隔離の話か」
「隔離って、閉じ込めて捨てることじゃありません。世話をする人を決めて、出入りを減らすんです」
「家族を引き離すのか」
「会えなくしろとは言ってません」
説明が難しい。
病人を守るための隔離が、家族から見れば追放に見えることもある。
ラウル村でも、病気の家へ近づくなと言ったとき、冷たいと怒られた。
「まず中を見せてください」
「その前に食べろ」
「食べる?」
リュシアは神殿とは反対側にある、小さな集会所へ俺たちを連れていった。
低い卓の上には、木の実を練った団子、薄緑色の汁、焼いた茸らしきものが並んでいる。
「歓迎の食事ですか」
「違う」
長老が後ろから答えた。
「お前が森の食物を口にできるか確かめる」
「つまり?」
「先に食べろ」
「毒見じゃないですか!」
「人間に害があるものを、病人へ近づけるわけにはいかぬ」
「順番がおかしいでしょう! 普通はそっちが食べて安全だと示すんじゃないですか?」
「我らには安全だ」
「俺に安全かを調べるため、俺に食べさせる?」
「そうだ」
「調べ方が雑すぎる!」
ロルフは料理を眺め、肩をすくめた。
「食うしかないな」
「ロルフさんも食べてくださいよ」
「私は護衛だ。お前が倒れたとき運ぶ者が必要だ」
「最初から倒れる前提じゃないですか!」
「二人とも食べれば、誰が助けを呼ぶ」
「理屈が通ってるようで腹が立つ!」
俺は卓の前へ座った。
木の実の団子を指で割る。中には赤い種のようなものが入っている。
「これ、何です?」
「夜露の実と、灰樹の種を練ったものだ」
「人間が食べた記録は」
「ない」
「動物は?」
「森鹿が食べる」
「鹿が平気でも、人間が平気とは限りませんよ!」
「ならば食べるな」
「食べなかったら村へ入れないんでしょう!」
「そうだ」
理不尽だ。
しかし、ここで引き返せばフィルを診ることもできない。
俺は団子の匂いを嗅ぎ、ほんの少しだけ舌先へつけた。
「何をしている」
「いきなり全部食べるより、少量から試すんです」
「臆病だな」
「慎重と言ってください」
舌が痺れる感じはない。
苦味も強くない。
少しずつ噛む。
味は、渋い栗と豆を混ぜたようなものだった。
「どうだ」
「おいしくはないです」
リュシアの眉が吊り上がる。
「森の恵みを侮辱するな」
「感想を聞いたでしょう!」
「毒ではないかと聞いた」
「それなら最初からそう言ってくださいよ!」
次は緑色の汁。
香りは青臭く、表面に油のような膜が浮いている。
「これは?」
「薬草と苔を煮た汁だ」
「苔を食べるんですか」
「人間は食べないのか」
「少なくとも俺のいた場所では、あまり」
少量を口に含む。
苦い。
とにかく苦い。
「うっ……」
「どうした!」
リュシアが身を乗り出す。
「苦い!」
「それだけか」
「それだけで十分つらいですよ!」
ロルフが堪え切れずに笑った。
「生きているなら問題ない」
「ロルフさん、あとで絶対食べてもらいますからね」
「任務が終わったらな」
「逃げる気でしょう!」
結局、少量ずつ一通り食べた。
すぐに異変は出なかったが、毒の種類によっては時間が経ってから症状が出る。安全が証明されたわけではない。
「これで満足ですか」
「一刻待つ」
「一刻!?」
「すぐに効かぬ毒もある」
「分かってるなら、なおさら人で試さないでください!」
長老は平然としていた。
俺は腹を押さえながら、神殿の方を見る。
「フィルを診る時間が遅れます」
「人間一人のために、村全体を危険にさらせぬ」
「俺が毒で倒れる可能性はいいんですか」
「お前は人間だ」
その一言に、さすがに腹が立った。
「人間なら死んでもいい?」
長老は答えなかった。
「森を焼いた人間と、俺は同じですか」
「同じ種族だ」
「じゃあエルフが一人でも悪いことをしたら、フィルもリュシアも同罪になるんですか」
「人間と我らは違う」
「何が違うんです?」
「孝太郎」
ロルフが止める。
だが、今度は黙れなかった。
「俺を信用できないのは分かります。警戒するのも当然です。でも、死んでも構わないと思ってる相手に、弟を任せるんですか」
リュシアが目を伏せる。
長老の顔にも、わずかな迷いが見えた。
「俺は医者じゃない。治せる保証もない。それでも、できることを探すために来た。なのに、最初にするのが毒見ですか」
「人間が森へしたことを忘れろと言うのか」
「忘れろなんて言ってません」
「ならば耐えろ」
「嫌です」
俺ははっきり言った。
「必要な警戒なら協力します。荷物も見せる。手も洗う。勝手に歩かない。でも、恨みを晴らすために危険なものを食べさせるなら、もう協力できません」
「弟を見捨てるのか!」
リュシアの叫びが胸へ刺さった。
「そうやって、何でも弟さんを理由にしないでください!」
「何だと」
「弟を助けたいのは本当でしょう。でも俺に何をしてもいい理由にはならない!」
リュシアの顔が歪む。
泣きそうだった。
俺も言いすぎたと思った。
けれど、謝れば話が戻ってしまう。
「俺は、あなたたちの敵じゃありません。でも、言いなりになる道具でもない」
長い沈黙が落ちた。
そのとき、集会所の入口で小さな音がした。
フィルが立っていた。
「姉さん」
「フィル、神殿へ戻れ!」
「僕も食べる」
「何を言っている!」
「その人だけに食べさせるのはおかしい」
フィルは卓へ歩み寄り、俺が残した団子を手に取る。
「同じものを食べれば、少なくとも僕たちは、この人を死んでもいいとは思ってないって分かるでしょう」
「やめなさい!」
止めるより先に、フィルは団子を口へ入れた。
数回噛んだ直後。
少年の顔色が変わった。
「フィル?」
手から団子が落ちる。
膝が崩れた。
「フィル!」
リュシアが抱き留める。
少年の喉から、ひゅう、と細い音がした。息がうまく吸えていない。
「何が入ってる!」
俺は卓の料理を指さした。
「いつもの食材だけだ!」
「フィルは普段これを食べてるんですか!」
「病になってからは、神殿の粥だけだ!」
首元の黒い斑点が、先ほどより濃く見える。
唇が青い。
食物への強い反応なのか。
病気と関係があるのか。
分からない。
「ロルフさん、荷物から布と水! リュシア、首元の服を緩めて!」
「何をする!」
「息をしやすくするんです!」
フィルの体が小さく震える。
長老は動けずに立ち尽くしていた。
「薬師を呼べ!」
「神殿にいる!」
「早く!」
リュシアが弟の名を何度も呼ぶ。
俺は少年の口元へ顔を寄せ、息を確認した。
弱い。
だが、止まってはいない。
「フィル、聞こえる? 眠らないで。ゆっくり息をして」
「くる……しい……」
「分かってる。大丈夫とは言わない。でも、ここにいるから」
何をすれば正解なのか分からない。
それでも、手を止めるわけにはいかなかった。
エルフの村で最初に倒れたのは、毒見をさせられた俺ではない。
俺をかばって同じ物を口にした、たった十二歳の少年だった。




