第29話 森を切ったのは俺じゃない。でも、知らないでは済まされなかった
「口を塞げ!」
リュシアの叫びに、俺とロルフは同時に袖で鼻と口を覆った。
黒い粉は、木漏れ日の中をゆっくり漂っていた。煙のようにも見えるが、臭いは焦げたものではない。湿った土と古い果物、それに放置した生ごみを混ぜたような、甘く腐った臭いだった。
「風上へ動くぞ」
ロルフが俺の肩をつかむ。
「走れます?」
「お前よりはな」
「どうして皆、俺の足を信用しないんですか」
「三歩で転んだと聞いた」
「王都から離れても広まってる!」
「エルフの耳は良い」
リュシアまで真顔で言った。
「聞こえの問題じゃなくて、誰が話したかの問題ですよ!」
「今は走れ!」
怒鳴られ、俺たちは道を外れて斜面を上った。
また木の根に引っかかりそうになったが、今度は転ばなかった。後ろからロルフに襟をつかまれたので、自力で避けたとは言い切れないけれど。
黒い粉が見えなくなる場所まで離れ、ようやく足を止める。
「触ってませんよね」
俺は自分の服を確認した。
「木にも鳥にも触れてない。粉も、たぶん吸ってないと思います」
「思う、では困る」
リュシアが睨む。
「じゃあ吸ってないと断言すれば安心するんですか?」
「しない」
「でしょうね」
「孝太郎」
ロルフが水筒を出しかけた俺の手を止めた。
「飲むな」
「どうして」
「粉が服や手についているかもしれん。先に洗う」
「あ」
「ラウル村で散々、人に手を洗えと言っていたのは誰だ」
「俺です」
「自分の番になると忘れるな」
「忘れたんじゃなくて、喉が渇いて判断力が……」
「言い訳はいい」
エレオノーラと同じことを言われた。
俺は水筒の水を少し手へかけ、持ってきた石鹸もどきで洗う。泡は相変わらず少なく、見た目も茶色い。だが、何もしないよりはましだ。
リュシアが怪訝そうに俺の手元を見ていた。
「その臭いのする塊は何だ」
「石鹸です」
「せっけん?」
「汚れを落とす道具です。手に見えない汚れがついてるかもしれないから、洗ってます」
「水だけでは駄目なのか」
「水だけより落としやすい、はずです」
「はず?」
「材料も作り方も、俺がいた世界と完全には同じじゃないので」
リュシアは眉をひそめた。
「分からない、はず、かもしれない。お前はそればかりだな」
「命に関わることを断言する方が危ないでしょう」
「弟には時間がない」
「だからって、分からないものを分かったふりして、余計に悪くしたらどうするんです」
「何もしなくても悪くなる!」
リュシアの声が森へ響いた。
鳥が一斉に飛び立つ。
彼女自身も、声を荒らげたことに驚いたようだった。
「……すまない」
「謝るんですね」
「エルフも必要があれば謝る」
「そこは人間と同じなんだ」
「同じにするな」
「似てますよ」
「似ていない」
「頑固なところとか」
「孝太郎」
ロルフが低い声で止めた。
「相手を怒らせに来たのか」
「違います。ただ、変に遠慮してると話が進まないので」
「遠慮という言葉を知っていたことに驚いた」
「俺を何だと思ってるんですか」
ロルフは答えなかった。
その沈黙が一番ひどい。
手と口元を洗ったあと、俺は黒い斑点のある巨木を遠くから観察した。
樹皮の一部が黒く変色し、そこから粉が出ている。根元の草にも同じような斑点があり、死んだ鳥の羽にも黒いものが付着していた。
「最初に見つかったのは、いつです?」
「二度目の長雨のあとだ」
「何年前?」
「人間の暦なら、二年ほど前」
「黒穂病が出た時期と近いな……」
「何だ、それは」
「グランヴェールの麦に出た病気です。穂が黒くなる」
「森の病と同じなのか」
「分かりません」
リュシアの顔が険しくなる。
「またか」
「黒いから同じ病気とは限らないでしょう。人間だって、熱が出る病気は一つじゃない」
「だが同じ時期に出た」
「関係はあるかもしれません。でも、直接同じ原因なのか、雨や気温みたいな共通の条件が原因なのか、それも分からない」
自分で説明しながら、嫌になる。
分からないことばかりだ。
俺の【記憶再現】は、見たことや読んだことを鮮明に思い出せる。
けれど、ホームセンターで扱っていた園芸用品の説明書や、動画で見た病害虫対策だけで、未知の森の病気を診断できるわけではない。
知識はある。
専門家ではない。
その差は、思った以上に大きかった。
「村まで、あとどのくらいです?」
「普通に歩けば半日だ」
「今の道を?」
「そうだ」
「俺の普通と、エルフの普通が違う気がする」
「お前の足なら、日が沈む」
「最初からそう言ってくださいよ!」
リュシアは先へ進もうとしたが、俺は黒い巨木の周囲を見回した。
「待ってください」
「弟が待っている」
「だからこそです。この木を放置していいのか確認したい」
「触るなと言っただろう」
「触りません。周りに印をつけたいんです」
「印?」
「知らずに近づく人がいるかもしれない。粉が風で飛ぶなら、少なくとも人や動物を近づけない方がいい」
確実な感染源とは言えない。
それでも、粉を吸ったり触れたりする危険を減らす価値はある。
ロルフが持っていた縄を、木から十分離れた位置へ回す。赤い布も結びつけ、目印にした。
「この辺りを通る人へ、触るな、近づくなと伝えてください」
「神樹への道を塞ぐのか」
リュシアの声が硬くなる。
「神樹?」
「この木は、森の東を守る古木だ。私が生まれる前から、村の者が祈りを捧げてきた」
「だから誰かが近づく?」
「毎朝、祈り手が来る」
「明日から止めてください」
「簡単に言うな!」
リュシアが縄を外そうとした。
俺は慌てて、その前へ立つ。
「簡単じゃないから言ってるんです!」
「この木へ祈ることは、私たちの暮らしの一部だ!」
「病気かもしれない木へ毎日人を近づけるんですか!」
「神樹は病気などではない。森の怒りを受けているだけだ」
「怒りでも病気でも、黒い粉が出てるのは同じでしょう!」
「人間には分からない!」
「分からないから調べるんです!」
俺たちは縄を挟んで睨み合った。
リュシアの手は震えていた。
怒りだけではない。
怖いのだ。
この木が病んでいると認めれば、守るべき森そのものが壊れていると認めることになる。
「すぐ切れとは言いません」
「切る?」
リュシアの顔から血の気が引いた。
「この木を切るつもりか!」
「今すぐじゃない! でも、もしここから病気が広がっているなら、切ることも考えないと」
弓が俺へ向いた。
あまりに速く、反応できなかった。
弦へ矢はつがえられていない。
それでも、十分に怖い。
「もう一度言ってみろ」
「怖いから言いたくありません」
「孝太郎、下がれ」
ロルフが俺の前へ出る。
剣は抜かない。
ただ、いつでも動ける姿勢を取っている。
「リュシア。弟を助けたいのなら、ここでこいつを射るのは得策ではない」
「神樹を切ると言った」
「可能性の話だ」
「人間は、いつも可能性と言って森を切る! 畑が足りなくなるかもしれない。獣が出るかもしれない。道が必要になるかもしれない。そう言って一本切り、十本切り、最後には森そのものを奪う!」
叫びながら、リュシアの目に涙が浮かんだ。
「お前たちは知らないだろう。この先にあった湖が消えたことも、雨が降るたび川が赤く濁るようになったことも、森を追われた獣が村へ来るようになったことも!」
「俺は切ってません」
思わず言ってしまった。
リュシアの目が鋭くなる。
「なら関係ないと言うのか」
「……違います」
言いかけた言葉を飲み込んだ。
俺は異世界から来た。
グランヴェールの先々代が何をしたかなど知らない。
森が切られた時代には、この世界にすらいなかった。
だから責任はない。
そう言うのは簡単だった。
でも今、俺はグランヴェールの共同責任者になった。
この国を豊かにすると決めた。
都合のいい部分だけ仲間になり、過去の傷は知らないでは済まない。
「森を切ったのは俺じゃありません」
リュシアは何も言わない。
「でも、知らなかったから関係ないとも言えません。俺はいま、グランヴェールの仕事をしてる。森の被害が国のやったことなら、調べる責任はあります」
「責任を取ると言うのか」
「その言い方、嫌いなんですよ」
「何?」
「責任を取るって言って、頭を下げて終わる人が多いからです」
倉庫へ火をつけたフェルナンド。
一人で正しいことをしようとして、すべてを壊した男。
彼にも言った。
責任とは、謝って死ぬことではない。
残って片づけることだ。
「森を元へ戻せるとは言えません。俺一人じゃ無理です。たぶん何十年もかかる」
「何十年……」
「木は畑の麦みたいに、植えた年に元通りにならないでしょう」
リュシアが弓を下ろした。
「人間は短命だ。何十年後などと言って、すぐに忘れる」
「だから記録を残します」
「紙など燃える」
「石に刻んでもいい。契約にしてもいい。次の王や、その次の王が勝手に変えられない仕組みを考える」
「お前に、その権限があるのか」
「ありません」
「ないのか!」
「だから王女様と喧嘩します」
「なぜ喧嘩が前提なのだ」
「簡単には通らない話だからです」
エレオノーラなら、森のために国民の畑を減らすと言えば反対するだろう。
農民たちはもっと怒る。
明日の飯もないのに、何十年後の森を守れと言われても納得できない。
どちらが悪いわけでもない。
だから面倒なのだ。
「森を全部戻すとは約束できません。人間の暮らしもある。でも、このまま切り続ければ、人間の国だって困るはずです」
「なぜだ」
「木が減れば、雨を受け止めるものが減る。土が流れる。川が急に増水しやすくなる。乾いた時期には水が残りにくくなる」
頭の中で、災害対策の展示映像や園芸売り場の資料が再現される。
森林の保水力。
表土流出。
根による斜面の保持。
もちろん、この森でまったく同じとは限らない。
「グランヴェールで干ばつのあとに大雨被害が増えたのは、森を切った影響もあるかもしれない」
「かもしれない、か」
「そこは調べます」
「いつまでに」
「分かりません」
「またそれか」
「でも、始めます」
俺は黒い巨木を見る。
「まず、どこが切られたのか。いつから川が濁ったのか。病気が最初に出た場所はどこか。森の人しか知らないことを教えてください」
「教えれば、人間はまた森を奪う」
「教えなければ、俺は何も分からないままです」
「それでも、お前は弟を診るのか」
「診ます」
「森が何も渡さなくても?」
「腹は立ちますけど、弟さんに罪はないでしょう」
リュシアは長い間、俺を見つめていた。
疑っている。
信じたい気持ちもある。
信じて裏切られるのが怖い。
その全部が、顔に出ていた。
「縄は残してよい」
やがて彼女は言った。
「祈り手には、私から近づくなと伝える」
「ありがとうございます」
「ただし、神樹を切ることは許さない」
「今はそれでいいです」
「今は?」
「調べた結果、本当に切らないと森全体へ広がるなら、また話します」
「お前は、なぜ黙って従えない」
「それをした人が倉庫を燃やしたので」
「意味が分からない」
「そのうち話します」
リュシアは心底面倒そうな顔をした。
「人間の王女が、お前を面倒な男だと言っていた」
「いつ言ったんです?」
「城門で待っている間だ」
「何を話してたんですか、二人で!」
「お前が三歩で転んだ話も聞いた」
「王女様!」
本人はここにいない。
それでも、森の奥へ向かって叫ばずにはいられなかった。
ロルフが小さく笑う。
「元気が戻ったな」
「最初から元気です」
「さっき弓を向けられたとき、足が震えていたぞ」
「怖いものは怖いんですよ!」
「それでも口は止まらなかった」
「止めたら、もっと怖くなるので」
再び歩き始めた頃には、日が少し傾いていた。
森の奥へ進むほど、黒い斑点のある草や木が増えていく。
すべてが同じ病気なのかは分からない。
ただ、偶然で片づけられる数ではなかった。
やがて道の先から、小さな人影が走ってきた。
「姉さん!」
エルフの少年だった。
リュシアより短い緑髪と、まだ幼さの残る顔。
だが、その頬から首にかけて、墨を垂らしたような黒い斑点が広がっている。
「フィル!」
リュシアが駆け寄る。
「なぜ外へ出た!」
「人間を連れてくるって聞いたから……本当に治せる人なのか、見たくて」
少年は俺を見た。
期待と疑いの混ざった目だった。
「あなたが、黒い病を止めた人?」
「違います」
俺が答えると、少年の顔から希望が消えた。
リュシアが俺を睨む。
「言い方があるだろう!」
「嘘をついても仕方ないでしょう」
俺は少年の前へしゃがんだ。
「俺一人で病気を止めたんじゃない。でも、どうすれば悪くならないか、一緒に調べたことはあります」
「僕も治る?」
「まだ分からない」
「孝太郎!」
「でも、諦めるとは言ってない」
少年と目を合わせる。
「君の名前は、フィル?」
「うん」
「いつから熱がある。何を食べた。水はどこから飲んでる。斑点が最初に出た場所は。痛いのか、痒いのか」
「そんなに一度に聞くの?」
「ごめん。焦ってる」
フィルが少しだけ笑った。
その笑顔を見て、胸が苦しくなる。
俺には治せる保証などない。
それでも、この子の前で分からないだけを繰り返して終わるわけにはいかなかった。
「まず、村の病人を一か所に集めないでください」
リュシアが眉をひそめる。
「なぜだ。神殿でまとめて看護している」
「同じ病気じゃない可能性がある。もし人から人へ移るなら、集めるほど広がる」
「では、どうする」
「斑点が出た時期と症状で分けます。それから水場を調べたい。食事、薬、寝床、最近森で変わったものも全部」
「そんなことで弟を救えるのか」
「分かりません」
リュシアの顔がまた険しくなる。
俺はその前に続けた。
「でも、分からないものを一つずつ減らせます」
森の奥に、エルフの村が見えた。
美しい木々の間へ作られた家々。
その入口には、弓を持った大人たちが並んでいた。
誰も歓迎する顔をしていない。
先頭に立つ白髪のエルフが、俺を見て吐き捨てる。
「人間を村へ入れるな」
リュシアが弟を抱き寄せる。
「この男は、フィルを診るために来た」
「人間の知恵など、森をさらに汚すだけだ」
白髪のエルフは矢をつがえ、俺へ向けた。
「帰れ。さもなくば、この場で射る」
森を救う以前に。
俺はどうやら、村へ入る許可を得るところから始めなければならないらしい。




