第28話 耳の長い美少女が、朝一番で俺を誘拐しに来た
「城門に、エルフの使者が来ています」
朝一番にエレオノーラからそう告げられた俺は、寝間着の上から上着を引っかけ、片方の靴を履き損ねたまま廊下を歩いていた。
「待ってください。歩きにくい」
「だから着替えてから来るよう言ったでしょう」
「緊急事態だって急かしたのは王女様ですよ!」
「緊急事態と、靴を正しく履けないことに何の関係があるのです」
「寝起きの人間に完璧を求めないでください」
「あなたは起きているときも、完璧からは遠いでしょう」
「朝から容赦がないな!」
廊下を曲がったところで、前から来たマーサと出くわした。
彼女は俺の姿を上から下まで確認し、眉間に深い皺を寄せた。
「孝太郎様」
「はい」
「寝癖がついております」
「今そこ大事ですか」
「国を代表して使者と会うのでしょう」
「代表するのは王女様です。俺は名指しされただけで」
「名指しされた者が、その有り様でよいと?」
「エルフって寝癖を気にするんですかね」
「少なくとも私は気にします」
マーサは俺の返事を待たず、手に持っていた櫛で髪を直し始めた。
「痛い痛い! もっと優しく!」
「じっとしてください」
「さらわれる前に頭皮がなくなります!」
「大げさです」
エレオノーラが横でため息をついている。
「城門に着く前から騒ぎを起こさないでください」
「俺は被害者ですよ」
「毎回そう言いますね」
「毎回だいたい本当に被害者なんです」
マーサに最低限の身なりを整えられ、ようやく城門へ向かった。
朝の城門前には、すでにかなりの人が集まっていた。
騎士。
役人。
物珍しそうに遠巻きから眺める城下の住民。
そして、その中心に一人の少女が立っている。
最初に目へ入ったのは、淡い緑色の髪だった。
腰まで届く長い髪を後ろでまとめ、旅装の上に深緑色の外套を羽織っている。細身だが、背負った弓と腰の短剣は飾りには見えない。
何より目を引くのは、髪の隙間から伸びた長い耳だった。
「本当にエルフだ……」
俺が呟くと、少女の視線が真っすぐこちらへ向いた。
金色の瞳。
整った顔立ち。
人間離れした美しさという言葉が、冗談ではなく似合っている。
ただし、こちらを見る目は完全に敵を見るものだった。
「お前が異邦人か」
「たぶん、あなたが探してる異邦人です」
「久世孝太郎」
「名前まで合ってます」
少女は迷いなく俺へ近づいてきた。
エレオノーラが一歩前へ出る。
「まず名を名乗るのが使者としての礼儀ではありませんか」
少女は立ち止まり、エレオノーラを見る。
「人間の王女か」
「グランヴェール王国第一王女、エレオノーラ・フォン・グランヴェールです」
「名が長い」
「あなたに言われる筋合いはありません」
「王族は名まで土地を奪うのだな」
「初対面から随分な言い方ですね」
「事実を述べた」
まずい。
会って一分も経っていないのに、空気が尖っている。
「ええと」
俺は二人の間へ入った。
「そちらの名前を聞いても?」
「リュシア」
「リュシアさん」
「呼び捨てでよい」
「じゃあ、リュシア。木札にあった黒い病って何です?」
「説明は森でする」
「森?」
「今から来い」
「今から?」
「ああ」
「ちょっと待ってください」
「待てない」
「こっちにも準備があります。飯もまだですし」
「森に食べ物はある」
「人間が食べられるものですか?」
「毒でなければ食べられる」
「毒が混ざる可能性あるんですか!」
「人間は森の実と毒草の区別もつかないのか」
「つかないですよ。俺、この世界に来てまだそんなに長くないので」
リュシアの眉がわずかに動いた。
「本当に異邦人なのだな」
「今まで疑ってたんですか?」
「人間は嘘をつく」
「エルフはつかないんです?」
「必要がなければつかない」
「必要があればつくんじゃないですか」
「孝太郎」
エレオノーラが低い声で呼ぶ。
「使者を怒らせないでください」
「王女様は最初から喧嘩してたでしょう!」
「私は礼儀について指摘しただけです」
「それを喧嘩って言うんですよ!」
リュシアは俺たちを交互に見た。
「妙な関係だな」
「仕事仲間です」
エレオノーラが即答した。
「ただの仕事仲間ではありません」
「孝太郎?」
「正式な共同責任者です」
「そこを強調する必要がありますか」
「昨日、そう決めたでしょう」
「間違いではありませんが……」
エレオノーラがなぜか言葉を濁す。
リュシアは興味を失ったように俺へ背を向けた。
「話は終わりだ。来い」
「終わってません」
俺が言うと、少女は振り返る。
「何だ」
「俺一人で行くんですか」
「そうだ」
「嫌です」
「なぜ」
「怖いからです」
俺は胸を張って言った。
格好悪いが、事実なので仕方がない。
「あなたたちは人間を嫌ってるんでしょう。そんな森に一人で入って、帰ってこられる保証がない」
「殺すつもりなら、ここで矢を射る」
「安心材料になってませんよ!」
「では、護衛を一人許す」
「一人?」
「それ以上は森へ入れない」
エレオノーラが口を開いた。
「私が同行します」
「駄目だ」
「即答ですか」
「王家の血を森へ入れる気はない」
周囲の騎士たちがざわつく。
エレオノーラの表情から、わずかに温度が消えた。
「理由を聞かせてもらえますか」
「お前たちの祖父が森を焼いた」
「祖父ではありません。先々代の国王です」
「同じ血だ」
「では、先祖が犯した罪は、子孫へ永遠に受け継がれると?」
「森に残った傷は消えていない」
「だから私個人を拒絶するのですか」
「王族は個人ではない。人間たちが、いつもそう言う」
エレオノーラが黙った。
痛いところを突かれたのだろう。
国のために結婚する。
王族の命は自分だけのものではない。
彼女自身、何度もそう言ってきた。
「それでも」
エレオノーラは一歩も引かなかった。
「孝太郎を一人では行かせられません」
「護衛を一人認めると言った」
「私は彼の共同責任者です」
「森では役に立たない」
「それを決めるのは、あなたではありません」
「森へ入れる者を決めるのは私だ」
「この国から誰を送り出すか決めるのは、こちらです」
また空気が尖った。
「二人とも、ちょっと落ち着きません?」
「孝太郎は黙っていてください」
「異邦人は黙っていろ」
「どうして俺だけ意見が一致するんですか!」
遠巻きに見ていた兵士の一人が、吹き出しそうになって顔を伏せた。
笑い事ではない。
俺の身柄をめぐって、王女とエルフが初対面から争っている。
聞こえだけなら華やかだが、実際は胃が痛いだけだった。
「そもそも」
エレオノーラがリュシアへ向き直る。
「あなた方は助けを求めて来たのでしょう。なぜ命令するような言い方なのです」
「助けを求めた覚えはない」
「木札に、黒い病を止めろと」
「命じた」
「それを人間の国では、助けを求めると言います」
「森では言わない」
「では森の言葉で、何と言うのです」
リュシアが少しだけ目を逸らした。
「……必要な者を呼ぶ」
「ずいぶん遠回しですね」
「人間に言われたくない」
二人の会話が少しだけ人間らしくなった。
敵意の奥に、何か隠している。
俺はリュシアの手を見た。
弓を握る右手。
指先が微かに震えている。
「誰かが病気なんですね」
リュシアの肩が固まった。
「何の話だ」
「黒い病で困ってるのは森だけじゃない。身近な誰かも苦しんでる」
「勝手なことを言うな」
「違うなら、そんなに急がないでしょう」
「人間のくせに」
「人間だから分かるんです。大事な人が危ないと、話し方が雑になります」
エレオノーラが俺を見る。
「誰のことを言っているのです」
「王女様ですよ」
「私は話し方など雑ではありません」
「国境まで来たとき、かなり雑でしたよ」
「今それを持ち出しますか!」
リュシアが唇を噛んだ。
「弟だ」
小さな声だった。
「弟?」
「まだ十二の弟が、黒い病に侵されている」
十二歳。
ルーカスと同じ年だ。
エレオノーラの表情が変わる。
「症状は」
「肌に黒い斑点が広がり、熱が下がらない。森の薬も効かない。精霊術でも病の場所が分からない」
「人へ感染するんですか」
「分からない」
「他にも同じ症状の人は?」
「三人いる」
「植物にも黒い斑点が?」
「神樹の葉と、畑の穂に出ている」
人間と植物の症状が、本当に同じ原因かは分からない。
黒いから同じ病気だと思い込んでいるだけかもしれない。
感染症。
植物の病害。
毒。
水。
虫。
俺の頭の中へ、いくつもの可能性が浮かぶ。
だが、俺は医者ではない。
植物病理学者でもない。
分からないものを、分かったふりはできない。
「治せるとは約束できません」
俺が言うと、リュシアの目が鋭くなった。
「お前はラウル村の病を止めたと聞いた」
「止まったのは皆が水を沸かして、手を洗って、病人を世話したからです。俺が魔法で治したわけじゃない」
「では、役に立たないのか」
「分かりません」
「分からない?」
「見ないと何も言えません。見ても分からないかもしれない。それでも、分かるところまでは調べます」
「はっきりしない男だな」
「命に関わることを、簡単に大丈夫って言う人よりましでしょう」
リュシアは俺をじっと見つめた。
やがて、短く息を吐く。
「よい。来い」
「だから準備が」
「弟は待てない」
「分かってます」
俺はエレオノーラを見た。
「王女様」
「私も行きます」
「でも、森へ入れないって」
「交渉します」
「今から?」
「ええ」
エレオノーラはリュシアへ真っすぐ向き直った。
「私を森へ入れなさい」
「断る」
「では孝太郎も行かせません」
「弟を見殺しにする気か!」
「人質のような言い方をしないでください!」
「二人とも!」
また始まった。
「王女様、今回は残ってください」
俺が言うと、エレオノーラがこちらを睨んだ。
「嫌です」
「子供ですか」
「あなたが一人で行けば、またさらわれます」
「今回は最初から連れていかれる話でしょう!」
「それをさらうと言うのです!」
「使者として招待されるんです!」
「本人が命令したと言ったではありませんか!」
リュシアが口を挟む。
「面倒なら、眠らせて運ぶ」
「ほら! やっぱり誘拐ですよ!」
「リュシアも余計なことを言わないでください!」
「なぜ私が人間に叱られる」
「話がややこしくなるからです!」
俺は頭を抱えた。
このままでは、森へ着く前に日が暮れる。
「護衛はバルガス隊長に頼みます」
「駄目です」
「どうして」
「あなたをさらわれかけた責任を感じている隊長が、今度こそ相手の使者を斬りかねません」
「そこまで短気じゃないでしょう」
城門脇にいたバルガスを見る。
隊長は、リュシアの弓を睨みながら剣の柄を握っていた。
「……別の人にします」
「私が行きます」
「王女様は国に残る仕事があるでしょう」
「それを言われると弱いと思っていますね」
「実際、弱いでしょう」
「腹が立ちます」
「でも、正しい」
エレオノーラは反論できず、唇を尖らせた。
「誰を連れていくつもりです」
「ロルフさんを呼べませんか」
ラウル村まで同行してくれた、あの現実的な護衛だ。
腕も立つし、俺が無茶を言えば止めてくれる。何より、煮沸した水を銀貨一枚で飲んだ男なので、妙な状況にも強い。
「王都にいます」
「では彼を」
「それでも不安です」
「王女様」
「何です」
「信じてください」
言ったあと、自分でも少し恥ずかしくなった。
エレオノーラも黙る。
「絶対に無茶をしないと約束できますか」
「それは難しいです」
「なぜです!」
「状況を見ないと分からないから」
「では、必ず帰ると約束してください」
「それも」
「孝太郎」
声が低くなった。
「約束してください」
簡単に約束して、守れなかったらどうする。
そう思った。
だが、彼女が欲しいのは未来の保証ではない。
帰ろうとする意思なのだろう。
「帰ります」
「必ず?」
「できる限り」
「必ずと言ってください」
「王女様も、できない約束はしないでしょう」
「今は理屈を言わないでください」
困った人だ。
俺も、人のことは言えないけれど。
「必ず帰るつもりで行きます」
それが、俺に言える精いっぱいだった。
エレオノーラは不満そうだったが、最後には頷いた。
「分かりました。ただし、毎日使者を寄越してください」
「森の中から?」
「リュシア。可能ですね」
「面倒だ」
「大切なことです」
「人間は、なぜ何でも言葉にしたがる」
「言葉にしなければ、伝わらないからです」
リュシアは呆れたように息を吐いた。
「一日一度だけ認める」
「二度です」
「一度だ」
「朝と夜」
「一度」
「では昼も加えて三度に」
「なぜ増える!」
「交渉です」
「それは交渉ではない!」
二人がまた言い争いを始める。
俺は城壁を見上げた。
朝日が、すっかり高くなっていた。
俺の朝食はまだである。
「出発前に飯だけは食べさせてくださいね」
誰も返事をしなかった。
国を救うより先に、俺は今日も、まともな朝食を確保するところから始めなければならないらしい。
そして昼前。
俺はロルフと二人、リュシアに導かれて北の大森林へ入った。
見送りに来たエレオノーラは、最後まで不機嫌そうだった。
「必ず戻ってください」
「分かってます」
「知らない実を食べない」
「子供じゃないんですから」
「一人で水を飲まない」
「分かりました」
「リュシアと二人きりにならない」
「それは何でです?」
「何となくです!」
意味が分からない。
リュシアは長い耳をぴくりと動かした。
「人間の王女。安心しろ」
「何をです」
「この男は、私の好みではない」
「聞いていません!」
「そうですか」
なぜか少し傷ついた。
「孝太郎も残念そうな顔をしないでください!」
「してませんよ!」
「見ていました」
「見てません!」
「目が合いました!」
「人の顔くらい見るでしょう!」
久しぶりのやり取りを背に、俺は森へ足を踏み入れた。
木々は高く、昼間なのに内部は薄暗い。
湿った土の匂い。
鳥の声。
そして、ところどころに混じる、妙に甘く腐った臭い。
リュシアが突然足を止めた。
「ここから先は、何にも触るな」
「どうして」
彼女が指さした先。
巨木の幹に、墨を流したような黒い斑点が広がっていた。
その根元には、同じ色へ変わった小鳥が一羽、息絶えている。
「これが黒い病だ」
風が吹く。
黒い斑点の表面から、粉のようなものが舞い上がった。
リュシアの顔色が変わる。
「口を塞げ!」
俺は反射的に袖で鼻と口を覆った。
黒い粉は、風に乗って森の奥へ流れていく。
病はすでに、一本の木や一つの村で止まる規模ではなかった。




