第25話 さらうなら、せめて麦袋より丁寧に扱ってください
首筋へ冷たい刃が触れた。
同時に、俺の腕をつかんだ男が煙の中を走り出す。
「ちょ、待っ……痛い! 腕が抜ける!」
「黙れ」
「人をさらうなら、もう少し丁寧に扱ってください!」
「黙れと言っている!」
「麦袋だって、そんな乱暴に引きずらないでしょう!」
「お前は本当に、この状況でよく喋れるな!」
「怖いから喋ってるんですよ!」
地面の石に足を取られ、膝から転びかけた。
それでも男は手を緩めない。煙の向こうから剣のぶつかる音や怒鳴り声が聞こえるが、誰がどこにいるのか分からなかった。
「孝太郎!」
バルガスの声が遠ざかっていく。
「こっちです!」
「返事をするな!」
男が俺の襟をつかんで引き寄せた。
声で分かる。
ハインツだ。
「アルフォンス殿下は退けって言ったでしょう!」
「あの方は甘すぎる。王位を取り戻すためには、お前の知識が必要だ」
「本人の命令を聞かないのに、何が殿下のためですか!」
「貴様に何が分かる!」
「分かりませんよ! でも、嫌がってる人を無理やり王様にしようとしてるのは分かります!」
煙の外へ出た。
街道脇の森。
木につながれた馬が二頭いて、別の兵士が待っている。
「乗せろ!」
ハインツが俺の背中を押した。
「無理です!」
「何がだ!」
「俺、馬に一人で乗れません!」
「異世界人は馬にも乗れぬのか!」
「悪かったですね! 日本では普通、馬で通勤しないんですよ!」
「ニホンなど知るか!」
「俺だって、この世界の王位争いなんか知りませんよ!」
腹が立った。
怖いし、煙を吸って喉は痛いし、引きずられたせいで腕も痛い。おまけに、相手の都合でさらわれている。
召喚された日と同じだ。
俺の意思を聞く者は、誰もいない。
「早く乗れ!」
「嫌です」
「殺されたいのか」
首筋の刃が押しつけられる。
息が止まった。
言い返したかったのに、声が出ない。
格好よく啖呵を切ったところで、剣は怖い。死にたくない。痛いのだって嫌だ。
「……殺せば、知識は手に入りませんよ」
どうにか、それだけ言った。
「足の一本を斬っても、口は動く」
「そんなことしたら、絶対に何も教えません」
「拷問すればよい」
「俺、痛みに弱いですよ」
「なら話すだろう」
「たぶん、知ってることも全部忘れます!」
「ふざけるな!」
「ふざけてません! 追い詰められた人間が、正確な説明なんかできると思いますか!」
実際、今の俺は頭の中がぐちゃぐちゃだった。
記憶再現を使えば、見たものや覚えたことを鮮明に思い出せる。
だが、思い出せることと、落ち着いて説明できることは別だ。
包丁を首へ突きつけられながら、石鹸の作り方や畑の改善方法を順序立てて話せる自信などない。
「俺の知識が欲しいなら、俺に協力してもらわないと意味がないでしょう!」
「お前の意思など必要ない」
「必要です!」
俺は振り返った。
怖くて、ハインツの顔をまともに見られない。それでも目を逸らすのが悔しくて、鼻の辺りを睨んだ。
「人間を道具みたいに使えば、壊れるんですよ!」
「国を変えるには、犠牲が必要だ」
「それを言う人は、いつも他人を犠牲にする!」
ハインツの顔が歪んだ。
剣が少し離れる。
その瞬間、俺は足元の土を蹴り上げた。
狙ったわけではない。
ただ、今しかないと思った。
「ぐっ!」
土が目に入ったハインツが顔を背ける。
俺は走った。
三歩で木の根に引っかかった。
「うわっ!」
派手に転ぶ。
顔から落ちなかっただけ、まだ幸運だった。
「貴様!」
「やっぱり逃げるのも遅い!」
自分で言っている場合ではない。
ハインツが剣を振り上げる。
俺は腕で頭を覆った。
金属音が響いた。
恐る恐る目を開けると、ハインツの剣を別の剣が受け止めていた。
「久世殿から離れろ」
「フェルナンドさん?」
「ずいぶん情けない逃げ方だったな」
「助けに来て最初に言うことがそれですか!」
「木の根も見えなかったのか」
「煙のせいですよ!」
「ここには煙などほとんどない」
「緊張で視野が狭くなったんです!」
フェルナンドはハインツの剣を押し返した。
五十を過ぎていると言っていたが、剣の腕は鈍っていないらしい。
もっとも、息はかなり荒かった。
「なぜ邪魔をする」
ハインツが吐き捨てる。
「お前も王女を裏切り、国を捨てた人間だろう」
「ああ。だから分かる」
「何がだ」
「正しいと思い込んだ人間は、自分で止まれない」
フェルナンドが苦く笑う。
「誰かに殴ってでも止めてもらわなければ、間違った先まで走り続ける。私には、それをしてくれる者がいなかった」
「言い訳か」
「そうだな。半分は言い訳だ」
剣を構えながら、フェルナンドは俺を見た。
「残り半分は、王女殿下へ土産を持ち帰りたいだけだ」
「土産って俺ですか」
「盗まれた麦と、お前。それから私の身柄だ」
「自分まで土産に入れる人、初めて見ました」
「生きて帰れればな」
「縁起でもないこと言わないでください!」
ハインツが踏み込んだ。
剣と剣が激しくぶつかる。
俺は這うようにして木の陰へ逃げた。
手伝いたい。
だが剣など使えない。
下手に近づけば、フェルナンドの邪魔になる。
「孝太郎!」
森の入り口からバルガスが飛び込んできた。
後ろにリヒトとヨハンもいる。
「隊長!」
「動くな!」
「分かりました!」
「返事だけは立派だな!」
「褒めるところですか、それ!」
バルガスがハインツへ斬りかかる。
二人を相手にできるほど、ハインツも強くはなかった。
数度剣を交えた後、彼は大きく後ろへ下がる。
「まだ終わっていない!」
ハインツが懐へ手を入れた。
「また煙筒だ!」
俺が叫ぶ。
だが、彼が取り出したのは小さな角笛だった。
甲高い音が森へ響く。
その直後、つながれていた馬が暴れ始めた。
「何だ!」
「綱が切られている!」
待機していた兵士が馬へ飛び乗る。
ハインツも剣を投げ捨て、もう一頭の馬へ走った。
「逃がすな!」
バルガスが追う。
だが、暴れた馬が間へ入り、進路を塞いだ。
「孝太郎、伏せろ!」
「さっきから伏せてます!」
ハインツが馬上から俺を見下ろす。
「必ず迎えに来る」
「来ないでください!」
「お前の知識は、世界を変える」
「だからって、俺の人生まで勝手に使うな!」
馬が走り出す。
リヒトが弓を構えたが、アルフォンスの声が飛んだ。
「射るな!」
ハインツと数名の兵士は、森の奥へ消えていった。
「なぜ止めた!」
バルガスが怒鳴る。
森から歩いてきたアルフォンスは、苦しそうな顔をしていた。
「彼らは私の名を信じて集まった者たちだ」
「だから見逃したのか」
「違う。今射れば、馬から落ちた者は死ぬ」
「次は、もっと多くの人間を連れて戻るかもしれんぞ」
「分かっている」
「分かっていて!」
「隊長」
俺は立ち上がろうとして、膝が抜けた。
ヨハンに腕をつかまれる。
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないです。でも、たぶん怪我はありません」
「顔が真っ白ですよ」
「元から日本人は、そちらより顔色が薄いんです」
「そういう問題ではないと思います」
バルガスはまだアルフォンスを睨んでいた。
「追いますか」
リヒトが尋ねる。
隊長は森を見つめ、しばらく迷った。
「追わん」
「よろしいのですか」
「麦を残して兵を分ければ、別働隊に奪われる。負傷者もいる。今の我々の仕事は、賊を追うことではない」
七台の荷馬車へ視線を向ける。
「麦を王都へ戻すことだ」
誰も反対しなかった。
戦えば勝つことだけを考えると思っていたバルガスが、麦を選んだ。
俺は少しだけうれしくなった。
「何を笑っている」
「笑ってませんよ」
「口元が緩んでいる」
「王女様と同じこと言わないでください」
「殿下なら、今ごろ貴様を殴っているだろうな」
「どうして助かった俺が殴られるんです?」
「勝手に前へ出て、勝手に捕まったからだ」
「前へ出たのは認めますけど、捕まったのは俺のせいじゃないでしょう!」
「半分は貴様のせいだ」
「また半分!」
「残り半分は?」
リヒトが尋ねる。
バルガスは即答した。
「王女殿下だ」
「どうしていない人の責任まで増えるんですか!」
張り詰めていた空気が、ようやく少し緩んだ。
だが、まだ終わってはいない。
橋の向こうでは、傭兵たちが弓を下ろさずに待っていた。
「異世界人!」
頭領が大声で呼ぶ。
「何です!」
「俺たちの報酬はどうなる!」
「忘れてませんよ!」
「さっき、さらわれかけていただろう!」
「見てたなら助けてくださいよ!」
「橋の向こうからどうやって助けろと言うんだ!」
「矢は届くでしょう!」
「お前に当たったら困る!」
「急に大事にしないでください!」
傭兵の頭領が笑った。
「契約相手に死なれると、金が取れんからな!」
「やっぱり金ですか!」
結局、彼らとの交渉は、川を挟んで怒鳴り合う形で続いた。
残りの報酬の半分。
橋を壊した責任。
誰から依頼を受けたかの証言。
グランヴェール領内へ二度と武装して入らないこと。
そして、橋の修理に人手を出すこと。
「修理まで俺たちがやるのか!」
「壊した人が直すのは普通でしょう!」
「報酬を増やせ!」
「増やしません!」
「なら、食事をつけろ!」
「それくらいなら……」
「孝太郎!」
バルガスの怒声が飛ぶ。
「勝手に決めるな!」
「じゃあ隊長が交渉してください!」
「私は傭兵と値切り合うために騎士になったのではない!」
「俺だって国境で人を雇うためにホームセンターへ就職したんじゃありませんよ!」
夕方までかかって、ようやく話はまとまった。
傭兵たちはアルフォンスから受け取った前金の一部を、橋の修理費として返す。代わりにグランヴェール側は、残りの報酬を一括ではなく数回に分けて支払う。
どう考えても、エレオノーラに怒られる。
「王女様、どれくらい怒りますかね」
「今さら心配しても遅い」
バルガスは冷たかった。
「隊長も承認しましたよね」
「私は聞いていただけだ」
「ずるい!」
「貴様が交渉した」
「途中で止めなかったでしょう!」
「止めても聞かんだろう」
「それは……聞かないかもしれませんけど」
「なら同じだ」
反論できない。
七台の荷馬車は、来た道を王都へ戻ることになった。
フェルナンドと護衛たちは武器を差し出し、正式に投降した。ギルベルト伯爵はアストレアへ戻らず、事情説明のためグランヴェール王都へ同行するという。
アルフォンスも残った。
「どうしてついてくるんです?」
「ハインツの件を説明する責任がある」
「捕虜として?」
「客人として願いたい」
「俺に決められるわけないでしょう」
「では、君から王女殿下へ頼んでくれ」
「嫌ですよ。俺、もう傭兵の報酬で怒られるんです」
「一つも二つも同じではないか」
「さっき隊長にも同じことを言われましたけど、怒られる側には大違いです!」
出発準備が整ったころには、空が赤く染まっていた。
俺は麦袋へ背中を預け、ようやく息を吐いた。
「久世殿」
フェルナンドが、縄をかけられた手を前にして立っていた。
「先ほどは助かりました」
「助けたのは私だと思うが」
「だから、お礼を言ったんです」
「そうか」
会話が終わった。
気まずい。
フェルナンドも立ち去らない。
「何か言いたいことがあるなら、言ってください」
「王女殿下は……私に会うだろうか」
「会うと思いますよ」
「そうか」
「でも、許してくれるとは限りません」
「ああ」
「泣くかもしれないし、怒鳴るかもしれない。顔も見たくないって言われるかもしれません」
「分かっている」
「それでも、逃げないでください」
フェルナンドは長く黙った。
「逃げぬと約束した」
「あなた、一回逃げてますからね」
「何度も言うな」
「信用は、言葉一回では戻らないでしょう」
きついことを言った。
フェルナンドの顔が痛そうに歪んだ。
それでも、彼は怒らなかった。
「そうだな」
小さく頷く。
「何度でも約束しよう。逃げない」
荷馬車が動き始めた。
麦を取り戻した。
フェルナンドも捕らえた。
俺も、どうにか連れ去られずに済んだ。
これで王都へ帰れる。
そう思っていた。
ところが、街道を半刻ほど進んだところで、先頭の騎士が馬を止めた。
「隊長!」
「どうした!」
「前方から馬車が来ます!」
「紋章は!」
騎士が答える前に、見覚えのある女性の声が街道へ響いた。
「久世孝太郎はどこです!」
血の気が引いた。
「嘘でしょう……」
グランヴェール王家の馬車から、旅装姿のエレオノーラが飛び降りてきた。
王都に残ると約束したはずの第一王女は、俺を見つけるなり真っすぐ歩いてくる。
怒っている。
今まで見た中で、一番怒っている。
「無事なのですね」
「はい」
「怪我は」
「たぶん、ありません」
「さらわれたと聞きました」
「途中までです」
「途中まで?」
「ちゃんと逃げました」
「三歩で転んだぞ」
フェルナンドが余計なことを言った。
「今は黙っててください!」
エレオノーラの青い瞳が細くなる。
「三歩」
「木の根があったんです」
「三歩で」
「煙で見えにくくて」
「煙の外だった」
またフェルナンドが口を挟む。
「本当に黙っててください!」
エレオノーラは俺の前で立ち止まった。
手を上げる。
殴られる。
俺は目を閉じた。
だが、頬に痛みは来なかった。
代わりに、額へ彼女の額がぶつかった。
「痛っ!」
「……本当に、無事なのですね」
震える声だった。
目を開けると、エレオノーラは泣いていた。
「王女様」
「今は何も言わないでください」
「でも」
「黙っていてください。あなたが喋ると、腹が立ちます」
「理不尽じゃありません?」
「黙って!」
怒鳴られた。
それでも彼女は、俺の服の袖をつかんだまま離さなかった。
麦を七台取り戻した報告も。
傭兵を勝手に雇った謝罪も。
廃嫡王子を連れてきた説明も。
全部、あとになりそうだった。
何しろエレオノーラは、泣きながら笑い、笑いながら怒っていた。
「帰りますよ、孝太郎」
「王都へ?」
「ええ」
彼女は俺の袖をさらに強く握った。
「今度こそ、私たちの国へ帰ります」




