第18話 信じていた人に裏切られた王女様は、怒ることすらできなかった
エレオノーラは、折り畳まれた紙を握ったまま動かなかった。
「王女様」
呼んでも返事がない。
青い瞳は紙の文字へ向けられている。
だが、もう読んではいないのだろう。
「フェルナンド卿というのは」
俺が尋ねると、宰相ザイフリートが低い声で答えた。
「王国食糧庁の長官だ。各地から集めた穀物の保管、王都での配給、緊急時の放出を統括している」
「麦を一番自由に動かせる人?」
「……そうなる」
「その人が、倉庫番へ金を払ってた」
木箱から見つかった紙には、日付、銀貨の枚数、何人かの名前が書かれている。
俺には読めない。
しかしエレオノーラの反応を見れば、それが単なる買い物の記録でないことは分かった。
「王女様、その紙を見せてください」
「嫌です」
「え?」
「まだ、決まったわけではありません」
紙を胸元へ引き寄せる。
「同じ名前の別人かもしれない。誰かがフェルナンド卿を陥れるために書いた可能性もあります」
「それを確かめるために――」
「この筆跡も、彼のものではありません」
「支払いを受けた側が書いたのかもしれないでしょう」
「印章もありません」
「裏金の記録に本人の印章を押す馬鹿はいないと思います」
俺の言葉に、エレオノーラの目が鋭くなる。
「あなたは、フェルナンド卿が犯人だと決めつけるのですか」
「決めつけてません」
「今の言い方は決めつけています!」
「王女様こそ、違うって決めつけようとしてるでしょう!」
声がぶつかった。
周囲で作業をしていた者たちが、こちらを見る。
いつもの喧嘩なら誰かが笑う。
今回は、誰も笑わなかった。
エレオノーラの手が震えている。
「孝太郎」
マーサが静かに呼ぶ。
「少し、言葉を選んでください」
「分かってます。でも、ここで見なかったことにはできない」
「見なかったことになどしません!」
王女の声がひっくり返った。
「私が確認します。本人から事情を聞きます。彼は、母が亡くなった後も私と弟を気遣ってくれました。配給所へ連れていき、国民の生活を見るよう教えたのも彼です」
「だから信じたい?」
「信じたいのではありません!」
「じゃあ、何です」
「……分かりません」
急に声が小さくなった。
エレオノーラは紙を握ったまま、俯いた。
「分からないのです」
それは、王女の声ではなかった。
裏切られたかもしれない少女の声だった。
「この紙が本物なら、私は何年も、国民の食糧を盗む人間から配給制度を学んでいたことになります」
「王女様が悪いわけじゃ」
「では、誰が悪いのです?」
「盗んだ人でしょう」
「私が信頼したから、権限を与えたのです」
「任命したのは国王や宰相じゃないんですか」
「私も推薦しました!」
青い瞳に涙が浮かぶ。
「フェルナンド卿は、困窮する民のことを一番に考える人だと。古い慣習に縛られず、配給制度を改革できる人だと、私が父へ申し上げました!」
「それでも、王女様が盗めって命じたわけじゃない」
「私が人を見る目を誤ったのです!」
「すぐ全部、自分の責任にするなって言ったでしょう!」
「では笑っていろと言うのですか!」
「言ってません!」
「私が信じた者が、子供の食べる麦を奪ったかもしれないのですよ!」
「だから調べるんです!」
「調べて、本当だったらどうすればいいのです!」
問いというより、悲鳴だった。
俺は言葉に詰まった。
裁けばいい。
法律に従って罰すればいい。
他人のことなら簡単に言える。
だが、その相手が自分を幼い頃から支えた人なら。
信じた記憶まで、全部偽物に見えてしまう。
人間は、悪いことをした瞬間から過去のすべてまで悪人になるわけではない。
優しくされた記憶も、本物だったのかもしれない。
だから面倒なのだ。
「王女様」
俺は少し考えてから言った。
「今、答えを出さなくていいです」
「先ほどは、すぐに調べろと」
「調査はします。でも、王女様が今すぐ、この人を憎むか許すか決める必要はない」
「許すことなど」
「ほら、もう決めようとしてる」
エレオノーラが黙る。
「人を信じた自分が馬鹿だったって決めるのも、まだ早いです」
「この紙があるのに?」
「紙だけです。袋の重さがおかしい。商会とのつながりもある。でも、どこまで誰が関わったかは分からない」
「……」
「王女様は、フェルナンド卿を信じてた。それはそれでいいでしょう」
「よくありません」
「信じたことと、裏切られたことは別です。悪いのは裏切った側です」
「綺麗事です」
「そうですよ」
俺は即答した。
エレオノーラが顔を上げる。
「こんなとき、相手が納得する完璧な言葉なんて知りません。俺はホームセンターの店員だったんですよ」
「今、それを言いますか」
「何でも解決できるみたいに見られると困るので」
「見ていません」
「少しは期待してるでしょう」
「……少しではありません」
「重いなあ」
思わず本音が漏れた。
エレオノーラの頬がわずかに緩む。
だが、まだ泣きそうな顔だった。
「調べましょう」
俺は言った。
「フェルナンド卿本人に会う前に、逃げられないようにする。商会も、倉庫番も、帳簿も押さえる」
「それは騎士の仕事です」
バルガス隊長が口を挟んだ。
「ようやく俺と意見が合いましたね」
「そなたは余計なことをせず、麦の選別を続けろ」
「言い方!」
「孝太郎」
エレオノーラが俺の袖を掴んだ。
「私も参ります」
「どこへ?」
「フェルナンド卿のもとへ」
「駄目です」
「なぜです!」
「今の王女様、冷静じゃないでしょう」
「冷静です」
「紙を持つ手が震えてます」
エレオノーラは、慌てて手を下ろした。
「それは、怒っているからです」
「さっき、怒ることもできない顔してましたよ」
「人の顔を勝手に読まないでください!」
「この世界へ来て、みんなに鍛えられました」
「今、冗談を言う場面ではありません!」
「冗談を言わないと息が詰まるんですよ!」
俺たちは睨み合った。
いつものように。
けれど、エレオノーラの目には涙が残っている。
俺は声を落とした。
「本人に会ったら、何を聞くんです?」
「なぜ裏切ったのか」
「否定されたら?」
「証拠を示します」
「泣いて謝られたら?」
「……」
「家族のためだったと言われたら? 盗んだ麦を全部、貧しい人へ配ったと言われたら?」
「そのようなことは」
「分かりませんよ」
「では、どうしろと言うのです」
「まず事実を集める。王女様が会うのはその後です」
「私だけ逃げろと?」
「違います。王女様が先に動くと、相手が王女様へ話を合わせるかもしれない」
宰相ザイフリートが頷いた。
「異世界人の言う通りだ」
「異世界人でまとめないでください。孝太郎です」
「今はどちらでもよい」
「よくないです」
「静かにせよ」
「はい」
宰相はバルガスへ向き直った。
「フェルナンド卿の邸宅、食糧庁、関係する商会を同時に押さえよ。本人には、倉庫火災の報告を理由に登城を求める」
「承知しました」
「内通者がいる可能性も考え、命令は必要な者にのみ伝えよ」
「はっ」
騎士たちが動き始める。
エレオノーラは何も言わず、それを見ていた。
「王女様」
「何です」
「部屋へ戻ります?」
「戻りません」
「でも」
「麦の選別が残っています」
「今くらい休んでも」
「命じるだけで終わらないと、孝太郎が言ったのでしょう」
木箱の中へ手を入れ、麦を掬う。
「食用、種用、廃棄。それぞれを分けます」
「無理してません?」
「しています」
「認めるんだ」
「ですが、無理をしなければ何も進まない日もあります」
エレオノーラは木箱の前へしゃがんだ。
俺も隣へ座る。
「これは?」
王女が麦粒を見せる。
「俺に聞かないでください。カレルさん!」
「一粒ごとに呼ぶな!」
離れた場所から怒鳴られる。
「でも、分からないものは分からないので!」
「殿下に選別させるな!」
「王女様が勝手に始めたんです!」
「勝手ではありません。国の仕事です!」
「では、これは飼料用だ!」
投げるように答えが返ってくる。
エレオノーラが指定の箱へ麦を入れた。
「次は?」
「王女様」
「何です」
「泣きたいなら、泣いていいんですよ」
彼女の手が止まる。
「泣いても、麦の選別は進みません」
「泣きながらでもできます」
「器用ですね、あなたは」
「俺は肉を食べながら泣きましたから」
「それは、ただ食い意地が張っていただけでは」
「今、人が気を遣ったのに!」
エレオノーラが小さく笑った。
その直後、一粒の涙が麦の上へ落ちた。
「あ」
「見ないでください」
「見てません」
「目が合いました」
「人の顔くらい見るでしょう」
「今、その会話をしますか」
「いつも通りの方が楽かと思って」
「……馬鹿ですね」
「知ってます」
王女は顔を伏せたまま、しばらく麦を選び続けた。
泣きながら。
手を止めずに。
俺も隣で選別した。
何粒か、箱を間違えた。
カレルに怒鳴られた。
エレオノーラにも、
「私より下手ではありませんか」
と笑われた。
それでよかった。
傷ついている人間に、正しい言葉だけを投げても仕方がない。
隣にいて、同じ面倒な作業をする。
今の俺にできるのは、それくらいだった。
◇
夕刻。
フェルナンド卿は、何も知らない顔で王城へ現れた。
五十歳ほどの、柔和な男だった。
白髪交じりの髪を整え、質素だが上等な服を着ている。
俺たちがいる小会議室へ入ると、最初にエレオノーラを見て、心配そうに眉を下げた。
「殿下。倉庫火災の件、心よりお悔やみ申し上げます。お怪我はございませんでしたか」
「ありません」
エレオノーラの声は硬い。
「そうですか。それは何よりです」
本当に、優しそうな人だった。
この人が麦を盗んだ。
そう言われても、すぐには信じられない。
エレオノーラが信じた理由も分かった。
「そちらが、異世界よりいらした孝太郎殿ですな」
「どうも」
「殿下より、何度もお話は伺っております」
「どんな話です?」
「口は悪いが、根は善良だと」
「悪いところから始まるんだ」
「否定なさらないのですね」
「最近、諦めました」
フェルナンドは穏やかに笑った。
その笑顔を見て、エレオノーラの顔が苦しそうに歪む。
「殿下?」
「フェルナンド卿」
「はい」
「倉庫の麦が、帳簿の記載より少なかったことをご存じですか」
男の笑顔が消えた。
ほんの一瞬。
それでも俺は見逃さなかった。
「いいえ。初耳でございます」
「ヘルマン商会の袋だけ、何度も開封され、中身を抜かれた形跡がありました」
「それは重大な問題です。すぐに商会を調べるべきでしょう」
「すでに調べています」
「さすが殿下。対応がお早い」
あまりにも自然だった。
エレオノーラが、例の紙を机へ置く。
「これは何ですか」
フェルナンドは紙を見る。
表情を変えない。
「存じません」
「あなたの部下である倉庫番へ、銀貨が支払われた記録です」
「私の名が?」
「はい」
「ならば、私を陥れるための偽造でしょう」
俺が尋ねる。
「どうして、すぐ偽造だと?」
「私は、そのような金銭を渡しておりませんので」
「名前が書いてあるだけなら、同名の人かもしれないでしょう」
「食糧庁に、私と同じ名の者はいません」
「紙を一目見ただけで、食糧庁の記録だと分かったんですか」
部屋の空気が止まった。
フェルナンドの目が、初めて俺へ鋭く向けられる。
「この紙は、倉庫の木箱から見つけたとしか言ってません」
「……殿下が、倉庫番への支払い記録とおっしゃった」
「でも、食糧庁のものとは言ってませんよね」
フェルナンドは黙った。
エレオノーラの唇が震える。
「答えてください」
「殿下」
「なぜ、食糧庁の記録だと分かったのです」
長い沈黙。
やがてフェルナンドは、ゆっくり息を吐いた。
優しい老人の顔が消える。
「殿下は、昔から聡明でいらっしゃった」
「何の話です」
「ですが、人を見る目だけは、まだお若い」
「フェルナンド卿」
「その異世界人を、城へ入れるべきではなかった」
男が右手を上げた。
直後。
会議室の外で、剣がぶつかる音が響いた。
「何事です!」
マーサが扉へ向かう。
だが、その前に扉が開いた。
入ってきたのは王城の兵士だった。
ただし、剣先は俺たちへ向けられている。
フェルナンドが静かに告げた。
「申し訳ございません、殿下」
その声には、もう優しさなど残っていなかった。
「あなたにはしばらく、王女であることをお休みいただきます」




