第16話 食べる麦と蒔く麦、どちらを選んでも誰かが困る
翌朝。
王城の中庭は、王城らしさを完全に失っていた。
公式行事で使われるという白石の広場には、煤で汚れた麦袋が積み上がり、その間を農民、兵士、役人、侍女たちが行き交っている。
絨毯を剥がされた回廊にも、濡れた麦が薄く広げられていた。
昨日まで立派だったはずの城が、今では巨大な穀物乾燥場だ。
「踏まないでください!」
俺が声を上げると、書類を抱えた役人が慌てて足を止めた。
「こちらは通路だぞ!」
「今は麦を干してる場所です!」
「王城の通路で麦を干す方がおかしい!」
「腐らせるよりいいでしょう!」
「私は政務に向かわねばならんのだ!」
「端を歩いてください!」
「端には袋が積んである!」
「だったら飛び越えて!」
「無茶を言うな!」
朝からずっと、こんな調子だった。
昨夜運び込まれた麦は、まだ乾いていない。
袋へ詰めたままでは熱と湿気がこもる。
そのため、布や板の上へ広げたのだが、王城で働く人々には不評だった。
「孝太郎」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返る。
エレオノーラが、両腕で木箱を抱えている。
服装は簡素な作業着。
長い金髪は邪魔にならないよう、一つにまとめられていた。
「何をしてるんですか」
「見れば分かるでしょう。空の木箱を運んでいます」
「王女様の仕事じゃないですよね」
「では、誰の仕事です?」
「兵士とか使用人とか」
「全員、ほかの作業をしています」
「だからって王女様が」
「格式は食べられないと、昨日申し上げました」
「それ、便利に使い始めましたね」
「孝太郎が教えたのです」
「俺はそんな格言を教えてません」
エレオノーラは木箱を地面へ置いた。
額に薄く汗が浮かんでいる。
「それより、カレルたちは?」
「もう来ています。南側の袋を確認中です」
「種麦の話、しました?」
「まだです」
「何で?」
「全員が揃ってから話すべきでしょう」
「役人も?」
「当然です」
「絶対揉めますよ」
「分かっています」
「逃げたくなりません?」
「非常に」
「王女様でも逃げたいんだ」
「当たり前です」
エレオノーラは周囲に聞こえないよう、声を落とした。
「できることなら、自室へ戻って毛布をかぶりたいです」
「似合わないなあ」
「どういう意味です?」
「王女様って、毛布の中でも国のことを考えてそうだから」
「……否定できないのが腹立たしいです」
「じゃあ、逃げない?」
「逃げたところで、麦の量は増えません」
「真面目すぎるなあ」
「孝太郎が不真面目すぎるのです」
「昨日から寝てないくらい働いてますけど!」
「今朝、麦袋にもたれて寝ていたではありませんか」
「あれは目を閉じて考えてたんです!」
「いびきをかきながら?」
「誰が聞いたんですか!」
「中庭にいた全員です」
「もうこの城から出たい……」
俺が頭を抱えると、エレオノーラが小さく笑った。
笑われた。
だが、昨夜まで険しかった顔が少し緩んだので、まあいい。
◇
麦の選別は、想像以上に面倒だった。
焦げて炭になったものは、誰でも分かる。
問題は、水を浴びた麦だ。
「これは乾かせば食える」
カレルが手のひらに麦粒を載せ、歯で軽く噛んだ。
「こっちは駄目だ。もう嫌な臭いが始まってる」
「昨日濡れただけなのに?」
「倉庫の奥は、火が出る前から湿っていたのだろう」
「つまり保存状態が悪かった?」
俺が聞くと、倉庫の管理官が不機嫌そうに割り込んだ。
「北棟は古い。修繕費を何度申請しても、予算が下りなかったのだ」
「私の管理が悪いと言いたいのか」
カレルが眉を吊り上げる。
「誰も貴様のことなど言っておらん!」
「では何だ!」
「建物の話だ!」
「二人とも、麦の上で喧嘩しないでください!」
俺が止める。
二人が同時に睨んできた。
「お前が口を挟むな!」
「昨日、頭を下げたばかりの若造が!」
「何で俺だけ共通の敵になるんですか!」
近くで作業していた農民たちが笑う。
管理官は気まずそうに咳払いをした。
「とにかく、北棟の床板は何度も直すよう求めた。川に近いため湿気が上がるのだ」
「床下は?」
「石を敷いてある」
「風は通る?」
「風?」
「床の下へ空気が流れる隙間です。湿気がこもらないように」
管理官は答えず、カレルを見る。
カレルも首を傾げた。
「倉庫って、麦を袋に入れて積むだけですか」
「ほかにどうする」
「下に台を置いて、床から離したり。壁へぴったりつけず、間を空けたり」
「その分、置ける袋が減る」
「でも腐る量は減るかもしれない」
「かもしれない、か」
カレルが嫌そうな顔をする。
「またそれだな」
「まだ試してないからです」
「お前の国では、そうしていたのだろう」
「はい。でも、この国と湿度も建物も違う。同じで絶対うまくいくとは言えない」
「本当に、気持ちよく断言しない男だ」
「断言して失敗したら、カレルさんが殴るでしょう」
「殴りはせん」
「怒鳴る?」
「それはする」
「ほら!」
ただ、今回は帰れとは言われなかった。
その違いは大きい。
俺たちは麦の袋を一つずつ開けた。
食用。
乾燥させれば使えるもの。
家畜の餌なら使えるかもしれないもの。
完全に廃棄するもの。
そして、状態のよい麦粒は、さらに別へ分けられた。
「これが種に使えそうな麦です」
カレルが一つの木箱を示す。
全体から見れば、ごくわずかだった。
「どのくらいの畑へ蒔けます?」
「この量だけなら、王都周辺の直轄地、その三分の一にも足りん」
「ほかの倉庫に種麦は?」
エレオノーラが役人へ尋ねる。
「各領に多少は。ただ、春の作付けに必要な量を満たすとは」
「では、この麦を種として保存します」
王女が言った。
管理官の顔色が変わる。
「お待ちください、殿下」
「何です」
「この麦は配給用です」
「承知しています」
「火災で千八百袋近くを失いました。残った中からさらに種麦を抜けば、王都の配給は予定を下回ります」
「しかし、すべて食べれば春に蒔く種がありません」
「春になる前に、餓死者が出れば何の意味があります!」
管理官の声が中庭へ響いた。
作業していた者たちの手が止まる。
「私は毎日、配給所で民を見ています」
男の声が震えていた。
「一日分を受け取り、その場でパン屋へ走る母親を。自分は食べず、子供に渡す老人を。配給を減らすと伝えれば、役人へ石を投げる者もいる」
「……」
「種麦を残すことが必要なのは分かります。ですが、春のために今日のパンを減らすと、誰が民へ説明するのです」
エレオノーラの唇が固く結ばれる。
「私が説明します」
「殿下が配給所へ立てば、民はその場では従うでしょう」
管理官は引かなかった。
「しかし、殿下がお帰りになった後、窓口へ残るのは我々です」
「俺たちが責められる、と?」
「そうだ!」
俺へ向けて怒鳴る。
「王族は命令する! 異世界人は新しい方法を提案する! だが、腹を空かせた民へ『今日からパンが減ります』と告げるのは、名もない役人だ!」
その通りだった。
俺たちは決める側。
怒鳴られるのは、現場にいる人間。
「では、種麦を食べさせろと言うのですか」
カレルが低く言う。
「食べなければ死ぬ者へ、春まで我慢しろと言えるか!」
「種を食えば、春の後に皆が死ぬ!」
「その春まで生きていなければ意味がない!」
二人が向かい合う。
どちらも正しい。
だからこそ、最悪だった。
「半分にしませんか」
俺が言う。
全員の視線が集まる。
「種として必要な量の全部は残せない。だから、まず直轄地で試験的に蒔ける量を確保する。残りは配給へ」
「半分では、来年の収穫は足りん」
カレルが言う。
「分かってます。でも、今全部を種に回すのも無理です」
「それでは先送りだ」
「先送りですよ!」
声が大きくなった。
「一度で全部解決できないんです! 足りないものを、ないところから出せないでしょう!」
「では、何のための異世界知識だ!」
カレルの言葉が胸へ刺さった。
「孝太郎に、そのような言い方を」
エレオノーラが止める。
「期待したのは殿下でしょう!」
「私の責任です!」
「すぐ自分の責任にしないでください!」
今度は俺が王女へ怒鳴った。
エレオノーラが目を見開く。
「何ですって?」
「王女様が全部悪いみたいに言えば、話が終わると思ってるでしょう!」
「そんなつもりは」
「ありますよ! 国が困ったら私の責任、農民が怒ったら私の責任、俺が失敗したら私が首を差し出す!」
「そこまで言っていません!」
「似たようなことは言いました!」
中庭が静まり返っている。
またやった。
大勢の前で王女と喧嘩。
だが止まれなかった。
「責任を取るって、死んだり謝ったりすることじゃないでしょう」
「なら、何だと言うのです」
「最後まで面倒を見ることです!」
自分でも、口から出て初めて気づいた。
「今日の配給を減らすなら、王女様も配給所へ行く。種を残すなら、農民と一緒に畑へ立つ。俺が新しい方法を試すなら、失敗したときの穴埋めまで考える」
「……」
「一回決めて頭を下げて終わりじゃない。嫌われても、怒鳴られても、次の日もそこにいる。それが責任じゃないですか」
エレオノーラは何も言わない。
カレルも。
管理官も。
俺は急に恥ずかしくなった。
「……偉そうに言いましたけど、俺もできてません」
「孝太郎」
「ラウル村じゃ、最初に怒鳴って帰った。畑でも追い返された。今だって、正解なんか分かりません」
種の入った木箱を見る。
「でも、分からないままでも決めないといけない」
「何を決める」
カレルが尋ねる。
「まず、この国に本当はどれだけ種が残ってるか調べます」
「春までに間に合わん」
「一日で報告させます」
役人がざわめく。
「無理です!」
「だから数字がずれるのです!」
「各領は遠いのだぞ!」
「伝令を出す。商人にも聞く。教会や農民組合にも、同じ内容を別々に確認する」
俺はエレオノーラを見る。
「一つの報告だけを信じない。届いた数字を比べます」
「それでも正確とは限りません」
「完璧な数字を待ってたら春になります」
エレオノーラが考える。
「そして、種麦が少ない地域へ優先して回す?」
「はい。ただし、配給に回す分も残す」
「割合は?」
「情報が集まってから決める」
「また先送りか」
カレルが顔をしかめる。
「先送りじゃなく、決めるための材料を集めるんです!」
「言葉を変えただけに聞こえるぞ」
「人間は面倒なので、言葉を変えるのも大事なんですよ!」
管理官が、疲れたように笑った。
「それだけは同意する」
エレオノーラが深く息を吸う。
「各領へ伝令を出します。保有する種麦、食用麦、作付可能な畑、人手、家畜の数を、同じ書式で報告させます」
「同じ書式?」
宰相が中庭へ現れた。
いつから聞いていたのだろう。
「書き方がばらばらだと比べられません」
俺が答える。
「数える単位もそろえる。麦は袋だけじゃなく、袋の重さも確認する」
「袋の大きさは領ごとに異なる」
「だからです!」
俺は地面へ木片を置いた。
「王国共通の基準になる箱か升を作る。それ一杯を一単位にする」
「新たな器を国中へ配る時間はないぞ」
「今すぐは、王都で使っている袋へ換算させる。後で共通の容器を作る」
宰相は髭を撫でた。
「完全ではないが、今よりはましか」
「ましを積み重ねるしかないです」
「ずいぶん弱気な改革だな」
「強気で失敗したら、みんな怒るでしょう!」
「それはそうだ」
宰相が笑った。
「では、始めよ」
「決定ですか」
「そなたが言ったのだ。決めなければならぬと」
「俺が決めるんじゃないですよ」
「分かっておる。決めるのは殿下だ」
全員がエレオノーラを見る。
王女は少しだけ迷い、頷いた。
「実行します」
その声は震えていなかった。
「種麦の一部を確保します。残りは配給へ。ただし、配給を減らす地域と量は、各地の在庫報告を確認した上で決めます」
「民への説明は」
管理官が尋ねる。
「私も配給所へ立ちます」
「殿下」
「命じるだけにはしません」
エレオノーラが俺を見る。
「これでよろしいですか」
「俺に許可を求めないでくださいよ」
「先ほど、最後まで面倒を見ろと言ったでしょう」
「俺にも来いって顔してません?」
「当然です」
「やっぱり!」
「言い出したのは孝太郎です」
「王女様一人で行くと思ったんです!」
「私一人へ責任を押しつけるのですか」
「その言い方、ずるい!」
周囲から小さな笑いが起きる。
昨日まで対立していた農民と役人まで笑っていた。
問題は何一つ解決していない。
食べる麦も足りない。
蒔く麦も足りない。
放火犯も見つかっていない。
それでも、同じ場所で怒鳴り合えるようにはなった。
◇
昼過ぎ。
選別作業を再開した俺は、焦げた袋の山の陰で妙なものを見つけた。
「これ……」
一枚の木札。
荷物の出入りを記録する札らしい。
表には倉庫へ入れた袋の数。
裏には商会の印。
だが、一部が削られ、別の数字が刻み直されていた。
「管理官さん」
「何だ」
「この札、数字を直してます?」
男が受け取り、顔色を変える。
「これは……」
「よくあること?」
「袋の数を間違えれば、訂正する場合はある。だが、その際は横に新しい数字を刻み、担当者の印を押す」
「これは削ってある」
「ああ」
管理官は周囲を見回し、声を落とした。
「火災で燃えたとされる麦が、本当にすべて倉庫に入っていたとは限らん」
「つまり?」
「火をつける前に、誰かが麦を抜いていた可能性がある」
放火は、国を混乱させるためではない。
盗んだ麦の帳尻を合わせるためだったかもしれない。
そして、火災で失われたと報告された千八百袋のうち、どれだけが最初から存在しなかったのか。
俺たちは、食べる麦と蒔く麦を巡って喧嘩していた。
その一方で、誰かが国民の麦を盗み、どこかへ隠している可能性が出てきたのだった。




