第12話 国を救ってくれと言われた理由が、ようやく分かった
旅の三日目。
馬車が国境を越えた瞬間、何か劇的な変化が起きるわけではなかった。
空は同じ青。
街道も同じ土。
道端には背の低い草が生え、遠くには畑が広がっている。
「ここから、グランヴェール王国です」
エレオノーラが窓の外を見ながら告げた。
「国境って、柵とか門とかないんですね」
「主要街道には関所があります。こちらは王族専用の旧街道ですので、小さな詰所しかありません」
「抜け道みたいで危なくないですか?」
「国内の警備隊が巡回しています」
「昨日、盗賊が出るかもしれないって騎士の人が言ってましたけど」
「可能性の話です」
「王女様、虫より盗賊の方を怖がってくださいよ」
「盗賊は騎士が倒せます」
「虫も騎士に倒してもらえば?」
「虫を剣で斬る騎士が、どこにいるのですか」
「頼めば一人くらいやるでしょう」
俺は馬車の外を護衛している騎士を窓越しに見る。
目が合った。
慌てて逸らされた。
聞こえていたらしい。
「ほら。嫌そうな顔してる」
「当然です。騎士を害虫駆除に使わないでください」
「蒸し風呂ではマーサさんを使ったじゃないですか」
「あれは緊急事態でした」
「指くらいの虫が?」
「大きさは問題ではありません!」
旅の間、俺たちはほとんどこんな会話を続けていた。
国の食糧事情。
畑の作物。
穀物倉庫。
領主たちの関係。
その間に、固いパン。
馬車の揺れ。
虫。
俺の臭い。
まともな話だけをすれば、もっと早く進んだ気もする。
だが、重い話ばかりでは息が詰まった。
エレオノーラも同じだったのかもしれない。
王女でいるときの彼女は、背筋を伸ばし、声の調子を崩さない。
だが、俺と口喧嘩をするときだけは、十七歳の少女になる。
「もうすぐ、セントラ村が見えます」
エレオノーラの声が少し固くなった。
「王都の手前にある村?」
「はい。以前は、王都へ麦を供給する大きな農村でした」
「以前は?」
王女は答えなかった。
馬車が低い丘を越える。
そこで初めて、グランヴェールの現状が目に入った。
「……何だ、これ」
思わず呟いた。
街道の左右に畑が広がっている。
だが、作物はまばらだった。
土がむき出しになっている場所。
枯れた茎が放置された場所。
畑の端には壊れた農具が積まれている。
遠くに見える家々も、屋根が崩れたままのものがあった。
ラウル村も決して豊かではなかった。
それでも畑には人がいた。
子供が走り回り、家畜の声が聞こえた。
ここは静かすぎる。
「人が少なくないですか」
「若い者の一部は、仕事を求めて王都や他国へ出ました」
「畑を耕す人まで?」
「食べるものがなければ、残ることもできません」
街道脇に、年老いた男が立っていた。
馬車に気づくと、帽子を取って頭を下げる。
身体は痩せ、頬がこけている。
その後ろから、小さな子供が顔を出した。
裸足。
服は何度も継ぎ当てされている。
馬車を見ているというより、騎士が腰へ下げた食料袋を見ていた。
「止めてください」
俺が言った。
「何を?」
「馬車です。止めて」
エレオノーラが御者台へ声をかける。
馬車が止まった。
俺は扉を開けて降りる。
「孝太郎、どこへ」
「ちょっとだけです」
街道脇の男へ近づく。
男は警戒したように子供を背後へ隠した。
「旅の方で?」
「はい。王女様に連れてこられました」
「殿下に?」
男は慌てて、さらに深く頭を下げた。
「申し訳ございません。ご無礼を」
「俺には下げなくていいです。偉くないので」
自分の荷物から、ラウル村でもらった黒パンを取り出す。
出発から三日。
ただでさえ固いパンが、さらに固くなっている。
「これ、食べますか」
子供の目が大きくなる。
男はすぐに首を振った。
「いただけません」
「俺、まだほかに持ってるので」
「いけません」
「何で?」
「旅の食糧でしょう」
「王都までは、もうすぐなんですよね」
「ですが」
「固すぎて、俺は食べるのに苦労するんです。捨てるのも嫌なので、もらってください」
嘘だった。
スープへ浸せば食べられる。
この世界へ来てから何度も食べた。
男も嘘だと分かったのだろう。
それでも、子供の視線に負けたように手を伸ばした。
「……ありがとうございます」
「水かスープに浸してください。歯が折れます」
「それほどですか」
「ラウル村では、建築資材としても使われています」
背後からエレオノーラの声がした。
「使われていません」
「王女様」
「勝手に馬車から降りるので、何事かと思いました」
「パンを渡してただけです」
男と子供が、エレオノーラを見て固まる。
王女は二人の前に立った。
「お名前を聞いても?」
「ハ、ハンスと申します。こちらは孫のルカです」
「ご家族は?」
「息子夫婦は、昨年……」
男が言葉を詰まらせる。
「病ですか」
「いえ。息子は出稼ぎに向かう途中、魔物に。嫁はその後、身体を悪くして」
「……そうですか」
エレオノーラの顔が、わずかに強張った。
「配給は届いていますか」
「はい」
ハンスは即答した。
早すぎた。
王女も気づいたらしい。
「本当に?」
「……月に一度、麦が」
「先月の量は?」
「それは」
「正直に答えてください。咎めません」
男は孫を見る。
しばらく迷い、低い声で言った。
「予定の半分でした」
エレオノーラの唇が動く。
だが、声が出ない。
「どうして報告が」
「村長は報告したはずです」
「王都には、予定量を配ったと」
「分かりません。私らには」
「誰が運んできました?」
俺が口を挟む。
「代官所の役人です」
「その場で量を数えましたか」
「袋で渡されました。以前より軽いとは思いましたが」
「記録は?」
「字を書ける者は村長くらいです」
俺はエレオノーラを見る。
王女の顔から、血の気が引いている。
食糧が足りない。
それだけではない。
王都が把握している量と、実際に民へ届いている量が違う。
途中で盗まれたのか。
横流しされたのか。
あるいは、単位や報告の食い違いか。
「マーサ」
エレオノーラが呼ぶ。
「はい」
「村長から配給記録を受け取ってください。代官所へも使いを」
「かしこまりました」
「今日中に?」
俺が聞く。
「可能な限り早く調べます」
「王都へ着くのが遅れますよ」
「構いません」
「最初の日程、ぎっしりだったのに」
「予定は変えるためにもあります」
「王女様が言うと、部下が泣くやつだ」
「誰のせいだと思っているのです」
「俺?」
「あなたが馬車を止めたから判明しました」
「じゃあ、止めてよかったでしょう」
「……ええ」
エレオノーラは、素直に頷いた。
その後、騎士が持っていた保存食の一部を、村へ置いていくことになった。
だが、王女一行が持つ量など、村全体を養えるほどではない。
一時しのぎ。
目の前の数人を助けるだけ。
それでも、何もしないよりはましだ。
そう思う一方で、胃の奥が重くなった。
この村だけではないはずだ。
同じ問題が国中にあったら。
十二万人。
数字では分かっていた。
だが、腹を空かせた子供の顔を見るまで、その重さを理解していなかった。
◇
馬車は、セントラ村へ入った。
村長の家で話を聞く間、俺は村の中を歩いた。
護衛の騎士が一人ついてくる。
「逃げませんよ」
「護衛です」
「俺に必要ですか?」
「殿下から、目を離すなと命令されております」
「俺、子供扱いされてない?」
「先ほど勝手に馬車を止め、知らぬ村人へ近づいた方が何を」
「言い返せないな」
畑の端に、一人の女性が座り込んでいた。
手には枯れた麦の穂。
その隣で、少年が土を掘っている。
「何してるんです?」
俺が尋ねると、少年が顔を上げた。
「根っこ」
「根?」
「食べられる草を探してる」
女性が慌てて少年を止める。
「旅の方に、そんなことを言うんじゃないよ」
「でも、母ちゃんが」
「黙りな」
女性は俺に頭を下げた。
「失礼しました」
「謝らなくていいです」
畑を見る。
作物の残りは少ない。
雑草すら、あまり生えていない。
「種は?」
「……何です?」
「春に蒔く種。残ってますか」
女性の表情で答えが分かった。
「食べたんですか」
「食べなければ、冬を越せませんでした」
「全部?」
「少しは残しています」
「どのくらい」
「畑の十分の一へ蒔けるかどうか」
来年の収穫を増やす以前の問題だった。
蒔く種がない。
畑があっても、植えるものがなければ何も始まらない。
「国から種を配る制度は?」
騎士へ聞く。
「不作時には貸し付けがあります」
「この村には?」
「確認しなければ」
「確認ばっかりだな」
思わず口に出した。
騎士が苦い顔をする。
「申し訳ありません」
「あなたを責めてるんじゃないです」
「ですが、我々は民を守る騎士です」
「騎士が全部の村の種まで知ってるわけないでしょう」
「それでも」
「責任を全部、自分で背負うの流行ってるんですか、この国」
「何です?」
「王女様も同じこと言うので」
騎士は少し驚き、その後、苦笑した。
「殿下は、昔からそういう方です」
「止める人はいないんですか」
「止めても聞かれません」
「でしょうね」
俺は畑へしゃがむ。
土を手に取る。
乾いている。
指で崩すと、細かく砕けた。
これだけでは、土が痩せているか判断できない。
俺は土壌の専門家ではない。
「何か分かりますか」
少年が期待するように聞いた。
「今は何も」
「異世界の人なのに?」
「異世界人でも、土を触っただけで全部は分からないよ」
少年が露骨にがっかりする。
胸が痛んだ。
「でも、調べる方法は考える」
「本当?」
「たぶん」
「たぶん?」
「絶対って言って失敗したら、君が怒るだろ」
「怒らない」
「大人は怒るんだよ」
女性が俯く。
「怒りません。何もなさらなくても、仕方がないことですから」
その諦めた声が嫌だった。
俺は土を落として立ち上がる。
「仕方ないかどうかは、全部見てから決めます」
自分でも、ずいぶん偉そうなことを言ったと思う。
だが、ここで何も言わずに立ち去ることはできなかった。
◇
調査のため、セントラ村で数時間を使った。
王都へ着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
「……あれが王都?」
「はい。グランヴェール王国王都、レーヴェンです」
城壁が見える。
アストレア王国の王都と比べれば小さい。
城壁の一部は色が変わり、何度も補修されているのが分かる。
門の前には、荷車と人の列。
だが、活気がない。
露店も少ない。
荷車に積まれているのは、薪や粗末な野菜ばかりだった。
門をくぐる。
町中の建物は古い。
閉まった店。
空になった棚。
道端に座る人々。
俺たちの馬車に気づくと、皆が頭を下げる。
尊敬だけではない。
期待。
何とかしてくれという、重い視線。
「王女様」
「何でしょう」
「毎回、こうやって見られるんですか」
「最近は」
「きついですね」
「慣れました」
「嘘でしょう」
エレオノーラは答えない。
馬車が王城へ近づく。
城は立派だった。
だが、よく見ると壁の装飾が外されている。
金属製の像があったであろう台座も空。
庭の噴水には水が流れていない。
「装飾品を売ったって、本当だったんだ」
「嘘をつく理由がありません」
「王城まで、こんなに」
「まだ売れるものはあります」
「その次は?」
王女の横顔が固くなる。
「……考えています」
「考えてない顔だ」
「あなたは、私の顔を読みすぎです」
「この世界の人たちに鍛えられたので」
馬車が城の正面で止まる。
扉が開く。
降りる直前、俺はエレオノーラへ声をかけた。
「王女様」
「はい」
「分かりました」
「何がです?」
「どうして俺のところまで来たのか」
井戸一つを疑っただけの俺を。
石鹸もどきを作っただけの俺を。
王女が自ら探しに来た理由。
ほかに、すがれるものがなかったのだ。
エレオノーラは少しだけ目を伏せた。
「失望しましたか」
「何に?」
「我が国の有様に」
「正直に言えば、想像よりひどいです」
王女の顔が曇る。
「でも、まだ見始めたばかりです」
「……」
「だから、全部見せてください。いいところだけじゃなくて、隠したいところも」
「見た後で、無理だと思えば?」
「そのときは無理だと言います」
「あなたは、本当に容赦がありませんね」
「期待させて逃げるよりましでしょう」
「そうですね」
エレオノーラが頷く。
「では、お願いがあります」
「また国を救えって?」
「それもありますが」
「それ以外にもあるんですか」
「父に会う際、もう少し礼儀正しくしてください」
「俺、王様に会う服じゃないですよね」
「衣装は用意しています」
「また勝手に!」
「マーサが寸法を測りましたので」
「俺が寝てる間に上着を測ったやつ!」
「役に立ったでしょう」
「怖いんですよ!」
エレオノーラが笑う。
城の前で待つ臣下たちが、その笑顔を見て驚いていた。
「それと、父の前で私と喧嘩をしないでください」
「王女様が喧嘩を売らなければ」
「いつ私が売りました!」
「今みたいにすぐ声を上げるから!」
「あなたが失礼なことを言うからでしょう!」
城の正面で、さっそく言い合いが始まる。
マーサが額を押さえた。
騎士たちは、もう慣れた顔をしている。
居並ぶ臣下たちだけが、何を見せられているのか分からない顔をしていた。
滅亡寸前の王国。
病床の国王。
足りない食糧。
届かない配給。
食べられた種。
問題は、想像していたよりはるかに根深い。
それでも俺は、王城の扉をくぐった。
できることがあるかは分からない。
だが、何も見なかったことには、もうできなかった。




