第九章 聖女の祈りは、まだ正しい
その集落に着いたのは、雨の気配が近い夕方だった。
灰は降っていなかった。けれど空は低く、雲の底が黒く汚れている。風が吹くたび、遠くの森から湿った土の匂いと、焦げたような灰の匂いが混じって流れてきた。
集落は、十数軒ほどの小さな場所だった。石垣に囲まれた畑は半分以上が枯れ、井戸のそばには水を汲みに来た女たちが、こちらを見るなり声を止めた。
リリアは、自分の服を見下ろした。白い聖女服は、もう白とは呼びにくかった。裾は裂け、泥が跳ね、銀糸の刺繍もところどころほつれている。それでも、教会の印だけは残っていた。胸元に縫い込まれた、翼の紋章。女たちの一人が、それを見た。
「聖女さま……?」
小さな声だった。
リリアは返事に詰まった。
違います、と言えばよかったのかもしれない。もう教会には戻れない。聖女候補としての資格も、きっと失われている。ガルドはリリアを保護すると言った。セラフィナは帰りましょうと言った。けれどそのどちらも、リリアが自分で選んだ言葉ではなかった。
それでも、目の前の女はリリアを見ていた。救いを見つけたような顔で。
「お願いです」
女が、井戸の桶をその場に落とした。水が石畳にこぼれる。
「聖女さまなら、どうか、うちの子を」
エルゼが、リリアの一歩前に出た。
「人違いだ」
「でも、その紋章は」
「似た服を着てるだけだ」
エルゼの声は低かった。突き放すようで、けれど怒鳴ってはいない。
女はエルゼを見た。黒い外套。赤い瞳。包帯を巻いた左腕。
その顔に、怯えが走った。
「魔女……」
周囲にいた人たちが、ざわめいた。井戸のそばにいた老人が後ずさりし、家の戸が一つ閉まった。モルがリリアの肩の上で、耳を伏せる。
「エルゼ」
リリアが小さな声で呼ぶと、エルゼは振り返らなかった。
「行くぞ」
「でも」
「ここに長くいるな。面倒になる」
そのとき、集落の奥の家から、子どもの泣き声が聞こえた。
泣き声、というより、喉の奥から漏れる苦しそうな声だった。細く、途切れ途切れで、息を吸うたびに引っかかる。
リリアの足が止まった。女が、その音に顔を歪めた。
「お願いです。まだ、角は出ていません。でも、もう手に紋様が……このままだと、夜を越せないって」
リリアは何も言えなかった。
「行くぞ」
「エルゼ」
「リリア」
エルゼの名前を呼ぶ声が、いつもより硬かった。
「今は使うな」
リリアは、エルゼを見た。
「まだ、何も言っていません」
「顔に出てる」
エルゼはリリアの前に立ったまま、集落の奥を見ていた。
「ここで祈れば、目立つ。騎士に知られる。教会に追われる。何より、あんたの祈りは何かを削る」
「分かっています」
「分かってない」
その言葉は、鋭かった。リリアの胸が、小さく痛んだ。
分かっていない。そう言われるのは、初めてではない。けれど今は、前よりも深く刺さった。ミナの顔が浮かぶ。お母さんの顔が思い出せないと言った、あの子の声。井戸のそばで、一節だけ戻った歌を小さく歌った声。
分かっている。分かっているはずだった。
「でも、このままでは死んでしまいます」
「死なせたくないのは、あたしも同じだ」
エルゼの声が低すぎて、リリアは一瞬、聞き間違えたかと思った。
「だったら」
「でも、あんたの祈りで助けるのは、最後にしろ」
「なぜですか」
「今のあんたは、何を削るか選べない」
リリアは息を止めた。エルゼは振り返った。赤い瞳が、まっすぐにリリアを見る。
「ミナのときもそうだった。あんたは命を助けた。でも、何が削れるか分からなかった。次も同じだ。助けたあとで、何かが欠ける。欠けてから気づく」
「では、どうすればいいんですか」
声が、思ったより強く出た。リリア自身が驚いた。
「あなたが引き受けるんですか。今のその腕で」
エルゼの左腕に巻かれた包帯は、もう白くなかった。黒い染みがいくつも浮き、手首に近いところでは、布の下から灰のようなものが滲んでいる。
エルゼは答えなかった。
「あなたも限界です」
「まだ動く」
「動くから平気、ではありません」
「今はその話じゃない」
「その話です」
リリアは一歩、エルゼに近づいた。
「わたしの祈りが誰かの記憶を削るなら、あなたの力はあなた自身を削ります。どちらかだけが正しくて、どちらかだけが間違っているとは、わたしには思えません」
エルゼの目が、わずかに揺れた。
リリアは続けた。
「それでも、目の前で苦しんでいる子がいます。今なら助けられるかもしれない。見捨てたら、何も残りません」
「削って残したものを、救いって呼ぶのか」
「死んでしまったら、削るものさえ残りません」
言ってから、リリアは自分の言葉に怯えた。正しいと思った。けれど、正しすぎる言葉だった。正しすぎて、どこかで誰かを傷つける言葉だった。
エルゼは黙っていた。
集落の奥から、また子どもの声がした。今度は、はっきりと苦痛が混じっていた。
女が泣きながら膝をついた。
「お願いです。聖女さま。息子を、助けてください」
リリアは、目を閉じた。自分の中で、何かが震えていた。教会で教わった祈り。何度も唱えた言葉。人を救うための手。呪いを祓うための手。白い手袋。翼の紋章。
それらが全部、嘘だったとは思えない。
でも、それだけでは足りないことも知っている。
リリアは目を開けた。
「行きます」
「リリア」
「助けます」
エルゼが、リリアの腕を掴んだ。強い力ではなかった。止めようと思えば止められる、でも無理に引き戻すほどではない。そんな掴み方だった。
「あんたは、あとで後悔する」
「すると思います」
「なら」
「それでも、今、見捨てたらもっと後悔します」
エルゼの手が、少しだけ緩んだ。
リリアはその手を、そっと外した。
「ごめんなさい」
「謝るな」
エルゼは低い声で言った。
「謝るくらいなら、最初からやるな」
リリアは答えなかった。
女に案内されて、集落の奥の家へ向かった。扉を開けた瞬間、湿った灰の匂いが押し寄せてきた。
寝台の上に、少年がいた。
十歳くらいだろうか。細い腕が布団の外に出ていて、その手の甲から肘にかけて黒い紋様が広がっている。指先は冷たそうに震え、額には汗が浮かんでいた。
枕元には、小さな女の子が座っていた。五つか六つくらい。泣き疲れた顔で、少年の手を握っている。
「兄ちゃん」
女の子は、リリアを見るなり、泣きそうな声で言った。
「兄ちゃん、治る?」
リリアは、すぐには答えられなかった。
治る。そう言うのは簡単だった。
けれど、本当に元通りに治るのか。何も失わずに戻れるのか。リリアには分からない。
「……助けます」
リリアは、そう言った。
女の子はそれを答えとして受け取ったらしく、涙をこぼしながら頷いた。
リリアは少年のそばに膝をついた。
手袋をはめる。ほつれた白い手袋。銀糸の翼が、泥で少し汚れている。
祈りの言葉は、まだ覚えていた。
目を閉じる。胸の奥に、光が灯る。
白い光。翼のような、熱のような、何か大きなものが自分の中から出ていく感覚。
少年の手に触れた瞬間、黒い紋様が蠢いた。苦しみが流れ込んでくる。熱い。冷たい。喉の奥に灰が詰まるような感覚。少年が何日も抱えていた痛みが、光に触れて暴れた。
リリアは息を整えた。
大丈夫。助ける。助けなければならない。
白い光を、少年の中へ送り込む。黒い紋様が少しずつ薄れていく。指先から、手首へ。手首から肘へ。闇が光にほどけていく。
その途中で、何かが引っかかった。
柔らかいものだった。
声。笑い声。小さな手を引いて走る感覚。
兄ちゃん、と呼ぶ声。
リリアは一瞬、目を開けそうになった。
これだ、と思った。
削れてしまうもの。灰の呪いに絡まっている、少年の記憶。
止めなければ。
そう思った。けれど、止め方が分からなかった。
光はもう流れている。黒い紋様は消えかけている。ここで止めれば、呪いが残る。少年の呼吸が乱れる。手の甲に、再び黒が戻ろうとする。
リリアは歯を食いしばった。
ごめんなさい。
誰に向けた言葉か分からなかった。
白い光が、最後の黒を祓った。
少年の手から、紋様が消えた。部屋の中が、静かになった。
少年の呼吸が落ち着いていく。荒かった胸の上下が、ゆっくりと規則正しくなる。額の汗も引いていく。
「兄ちゃん」
女の子が、少年の手を握り直した。少年のまぶたが、かすかに動いた。
「……母さん?」
「いるよ。母さんいるよ」
女が泣きながら寝台に駆け寄った。少年はぼんやりと目を開け、母親を見た。それから、視線を横にずらした。
女の子を見た。見ている。けれど、表情が動かなかった。
「兄ちゃん?」
女の子が首を傾げた。少年は、かすれた声で尋ねた。
「……誰?」
リリアは、息が止まった。
部屋の中の時間が、止まったようだった。
女の子が笑った。冗談だと思ったのかもしれない。
「何言ってるの。マーヤだよ」
少年は、まだぼんやりしていた。
「マーヤ……?」
「妹だよ。兄ちゃんの妹」
「妹」
少年はその言葉を、初めて聞いたみたいに繰り返した。
女の子の顔から、笑みが消えた。
母親が、リリアを見た。責める目ではなかった。助かったのに、助かっていないものがある。その事実を、まだ受け止めきれていない顔だった。
リリアは、手袋を外した。指先が震えていた。
「ごめんなさい」
声が、かすれた。
「ごめんなさい」
母親は首を振った。
「いいんです。命は、助かったんです。先生が、夜を越せないかもしれないって言っていたから。だから、いいんです」
いいんです。
その言葉が、リリアの胸を刺した。ミナも怒っていないと言った。死んだら、もっと何も覚えていられなかったから、と言った。
同じだった。同じことを、またしてしまった。リリアは立ち上がった。礼を言われた。泣きながら頭を下げられた。聖女さま、ありがとうございます、と言われた。
そのたび、足元が崩れていくような気がした。
家の外に出ると、エルゼが井戸のそばに立っていた。
空は暗くなり始めていた。雨はまだ降っていない。けれど、雲の底はさっきより低い。
モルは石垣の上で丸くなっていた。何も言わなかった。
リリアはエルゼのそばまで歩いた。
「助かりました」
「そうか」
「でも、妹の名前を忘れました」
「そうか」
エルゼは、こちらを見なかった。
リリアは、その横顔を見た。
「わたしは、間違っていましたか」
エルゼは答えなかった。
風が吹いた。畑の枯れた葉が擦れ合う。遠くの家から、女の子の泣き声が聞こえた。マーヤという名前を、何度も兄に教えている声だった。
「命は助かった」
エルゼが、ようやく言った。
「はい」
「なら、間違いだとは言えない」
リリアは、少しだけ息を吸った。
けれど、エルゼは続けた。
「でも、あの子は妹の名前を忘れた」
「はい」
「それも事実だ」
「はい」
「どっちかだけ見るな」
リリアは俯いた。手袋を握りしめる。祈りの手。救うための手。何かをこぼさないように隠すための布。
「あなたの言う通りでした」
「そういう話じゃない」
「では、どういう話ですか」
リリアの声が、少しだけ震えた。
「わたしは、助けたかったんです。あの子を死なせたくなかった。あの子の妹が、兄を失うところを見たくなかった。だから祈りました。それでも、あの子は妹の名前を忘れました」
言葉が止まらなかった。
「見捨てればよかったんですか」
エルゼが、初めてリリアを見た。
「そんなことは言ってない」
「でも、あなたは止めました」
「止めた」
「では、どうすればよかったんですか」
「分からない」
その答えは、あまりにも短かった。
リリアは、何も言えなくなった。
エルゼは目を逸らした。
「あたしにも分からない。あんたが祈らなければ、あの子は死んでいたかもしれない。あたしが引き受ければ、途中で腕がもたなかったかもしれない。どれが一番ましかなんて、終わってからでも分からない」
「なら」
「でも、痛みが残ることだけは忘れるな」
エルゼの声が低くなった。
「助かったからいい。命が残ったからいい。そう言われても、削れたものは戻らない。感謝されたからって、傷がなかったことにはならない」
リリアは目を閉じた。
その通りだった。分かっていたはずだった。
でも本当は、分かっていなかったのかもしれない。命を救えば、何かが許されると思いたかった。感謝されれば、少しだけ自分を許せると思っていた。
けれど、あの女の子は今、兄に自分の名前を教え直している。
兄ちゃん、マーヤだよ。
何度も。何度も。
「わたしは、まだ、聖女の祈りが正しいと思っています」
エルゼの表情が、少しだけ硬くなった。
リリアは続けた。
「正しいと、思いたいんです。だって、そうでなければ、今までわたしが助けた人たちは何だったんですか。ミナも、あの子も、助かったことまで間違いになってしまう」
「助かったことは間違いじゃない」
「でも、それだけでは足りない」
「そうだ。足りないんだ」
その言葉が、リリアの中に静かに落ちた。足りない。間違いではない。けれど、足りない。それが一番、苦しかった。
モルが石垣から降りてきた。ぱたぱたと小さな翼を動かして、二人の間に立つ。
「リリアも、エルゼも、同じ子を助けたかったもる」
いつもの調子より、少しだけ穏やかな声だった。
「でも、歩き方が違ったもる」
エルゼは何も言わなかった。
リリアも、すぐには答えられなかった。
モルは小さな前足で、リリアの泥だらけの手袋をつついた。
「だったら、次は、一緒に歩き方を考えるもる」
「次」
リリアは呟いた。
次がある。また、誰かが苦しむ。誰かを救うか、見捨てるか、選ばなければならない時が来る。そのとき、同じことを繰り返していいのか。
リリアは、井戸の水面を見た。暗い空が映っている。その中に、白い服を着た自分が歪んでいた。聖女候補だった少女。魔女と旅をしている少女。命を救して、記憶を削った少女。どれも、自分だった。
「エルゼ」
「何だ」
「わたしは、あなたの言葉を全部は受け入れられません」
「そうか」
「でも、わたしの祈りだけでは足りないことも、もう否定できません」
エルゼはリリアを見た。
リリアは顔を上げた。
「次は、止めてください」
「止めた」
「もっと強く」
「強く止めたら、あんたは恨むかもしれない」
「それでも、止めてください。わたしも、あなたを止めます。あなたが全部を背負おうとしたら、止めます」
エルゼはしばらく黙っていた。
それから、ほんの少しだけ息を吐いた。
「面倒な聖女だな」
「もう聖女ではありません」
「じゃあ、もっと面倒だ」
モルが、少しだけ笑ったように耳を揺らした。
「二人とも面倒もる」
「うるさい」
「でも、面倒な方が、たぶんちゃんと考えてるもる」
そのとき、ぽつりと雨が落ちた。灰ではない。黒い染みを残すものではない。冷たい水だった。リリアは空を見上げた。雲は暗く、重い。けれど確かに、雨だった。
エルゼが外套を引き寄せた。
「行くぞ。ここに長くいると、また誰かに見られる」
「はい」
リリアは歩き出した。
背後の家から、まだ女の子の声が聞こえていた。
マーヤだよ。兄ちゃんの妹だよ。
その声は、雨音に少しずつ混じっていく。
リリアは振り返らなかった。振り返れば、また祈りたくなる気がしたから。だから前を向いた。白い手袋を、鞄の奥へしまった。まだ捨てることはできなかった。
けれど、すぐに取り出せる場所には、もう置かなかった。




