第八章 灰の町
翌朝、リリアたちは廃屋を出て、次の行き先を話し合っていた。
エルゼは街道を避けて北へ抜ける道を選ぼうとしていたが、リリアには一つ、気になっている場所があった。
リリアは鞄から、礼拝堂で見つけた記録を取り出した。折り畳まれた黄ばんだ紙を広げて、エルゼに見せる。
「ここに、グリムベルという地名が出てきます」
紙の端の方に、薄く書かれていた。教会の記録を集めていた者が、他の村の証言として書き留めたものらしい。灰の災厄が広がり始めた頃、グリムベルでも黒い空が見えたという記述だった。
「灰の記録が残っているかもしれません。教会が隠した以外の記録が」
エルゼは紙を見た。グリムベルという文字を、少し長く見た。
「エルゼは、知っているんですか」
「名前だけはな」
「教会の資料では、魔女に滅ぼされた町だと習いました」
「そうか」
「違うんですか」
エルゼは紙をリリアに返した。
「行けば分かる」
それだけ言って、歩き出した。
リリアはエルゼの背中を見た。何かを抑えているような、肩の張り方だった。聞いてはいけない問いがあると、今は分かる。だからリリアも、それ以上聞かなかった。
グリムベルまでは、二日かかった。街道を外れ、山の裾を回り、灰の濃い地帯を避けながら歩いた。エルゼは前日より体の動きが戻っていたが、リリアは左腕から目を離さなかった。包帯の端が黒くなっていないか、歩くたびに確認した。エルゼは気づいていたが、何も言わなかった。
二日目の夕方、山を下りたところで、町が見えた。見えた、というのは正確ではなかった。そこに広がっていたのは、かつて町だった場所だった。石造りの建物の残骸が、黒い灰の中に沈んでいた。壁だけが残り、屋根はない。通りを示していたはずの石畳は、灰に埋もれて輪郭だけが分かる。広場の中央に、噴水があったらしい。台座だけが残っていた。水は出ていない。音がしなかった。風も鳴らない。鳥もいない。ただ、灰が、静かに降っている。
「ここが」
リリアは言いかけて、止めた。エルゼが歩き出した。残骸の間を、慣れた足取りで進んだ。知っている道を歩く足取りだった。
モルがリリアの肩でぴたりと動かなくなった。
「モル、灰の匂いが、すごいもる」
「大丈夫ですか」
「大丈夫もる。でも、ここは長くいたくないもる」
リリアはエルゼのあとを追った。
町の奥へ進むにつれ、破壊の跡が濃くなった。
ただの老朽化ではない。焼かれた跡があった。黒く焦げた石壁。溶けて固まった金具。崩れ落ちた梁の残骸。火が出たのは、かなり前のことだろう。それでも焦げた匂いが、灰の中にまだ残っていた。
エルゼは一軒の廃屋の前で立ち止まった。他より少し大きな建物だった。看板の残骸がある。何かの商店だったらしい。
中へ入ると、床に灰が厚く積もっていた。棚が倒れている。什器の残骸が散らばっている。エルゼはその中を歩き、奥の壁の前に立った。
壁に、何かが刻まれていた。子どもの落書きだった。拙い線で、人の形が描いてある。大きい人と、小さい人。並んで立っている。
エルゼはしばらくそれを見た。
リリアは声をかけなかった。
エルゼが振り返った。いつもと同じ顔だった。無愛想で、感情が読めない。ただ、目の奥に何か硬いものがあった。
「ここで生まれた」
短く言った。
リリアは、すぐに返事ができなかった。
崩れた家も、灰に埋もれた道も、ただの廃墟ではなくなった。エルゼが子どもの頃に歩いていた場所なのだと、遅れて分かった。
「……そう、だったんですね」
「父親が仕立て屋だった。母親はいなかった」
「……エルゼが子どもの頃、この町はまだあったんですね」
「八つまではあった」
八つ。灰の災厄が始まった頃の年齢だと、リリアは計算した。
「魔女狩りで焼かれたのは」
「あたしが九つのときだ」
エルゼは壁の落書きから目を離して、廃屋の外へ歩き出した。リリアはそのあとを追った。何を聞けばいいか分からなかった。何も聞かない方がいいかも分からなかった。ただ、隣を歩いた。
町の外れに、少年がいた。瓦礫の上に腰かけて、空を見ていた。十四か五くらいだろうか。灰色の外套を着て、頭に布を巻いている。顔に灰がついていた。
エルゼを見た瞬間、少年の顔が変わった。
ただ驚いただけではない。警戒と、怒りと、少しだけ安堵に似たものが混じっていた。
「エルゼ」
少年が言った。
「また来たのか」
「ノア」
エルゼが呼んだ。
「まだここにいたのか」
「どこへ行けって言うんだ」
ノアは瓦礫から降りた。エルゼより頭一つ小さい。それでも、エルゼを見上げる目には、少年らしい無防備さがなかった。
「その人は」
ノアの視線が、リリアに移った。白い服、切れた裾、灰に汚れた袖を順に確かめる。
「聖女か」
「候補だった。今は違う」
「どっちでも同じだ」
ノアはリリアから目を離しエルゼに向き直った。
「何しに来た」
「記録を探してる。灰の災厄に関する、教会以外の記録だ」
「そんなもの、残ってるわけがない」
「残ってる可能性がある」
「どうして」
「礼拝堂の資料にグリムベルの名前があった」
ノアは少しの間考えた。それからリリアを見た。
「あんたが調べてるのか」
「一緒に調べています」
「聖女が教会の秘密を調べる」
「元候補です」
「同じだ」
ノアはまたエルゼを見た。
「こいつを信用してるのか」
「まだ全部は信用していない」
エルゼの答えに、リリアは少し驚いたが言い返さなかった。
「そうか」
ノアはため息をついた。
「ついて来い。一か所だけ、案内できる場所がある」
ノアが案内したのは、広場の地下だった。
噴水の台座の裏に、石の扉があった。苔と灰で塞がれていたが、ノアが慣れた手つきで引くと開いた。
「昔、町の人間が使っていた貯蔵庫だ。教会の騎士が来たとき、何人かがここに隠れた」
中は暗かった。ノアが持ってきた蝋燭で照らすと、石の棚が並んでいた。食料の残骸。壊れた道具。そして、棚の奥に、木箱がいくつか重ねてあった。
「その箱に、この町の古い記録が入ってる。騎士が来る前に、町の書記が隠したものだ」
「なぜ知っているんですか」
リリアが聞くと、ノアは少し黙った。
「書記が俺の祖父だった。死ぬ前に教えてくれた」
リリアは何も言わなかった。エルゼも言わなかった。
木箱を開けると、紙が束になって入っていた。湿気で端が波打っているが、文字は読める。エルゼとリリアで手分けして、紙を見た。
町の税収の記録。住人の名簿。農作物の収穫記録。そして、束の一番下に、別の紙があった。
リリアがそれを手に取った。
書かれていたのは、騎士団が来た日のことだった。
魔女を探している、と騎士たちは言った。灰の呪いを操る者がいるはずだ、と。町の人間は知らないと言った。騎士たちは信じなかった。家々を調べ始めた。そして、灰の紋様を持つ子どもを見つけた。
仕立て屋の子どもだった。
「エルゼ」
リリアは読みながら、声が出た。
「見なくていい」
エルゼが言った。声が、いつもより低かった。
「でも――」
「見なくていい。続きは、あたしが知ってる」
リリアは紙を下ろした。
仕立て屋の子ども。灰の紋様。騎士団。
エルゼは九つのとき、この町で何かを受けた。礼拝堂の記録に書いてあった施設のことを思い出した。灰の呪いに侵された人々を実験体として扱った、教会の施設。
まだ全部はつながっていない。でも、つながりかけていた。
「ノア」
エルゼが少年に向いた。
「この記録、借りてもいいか」
「燃やすつもりか」
「使う」
「何に」
「教会の嘘を暴くのに」
ノアはしばらくエルゼを見た。
「どうせあんたは、また誰かを助けようとして、自分が壊れるまで使うんだろう」
ノアの声は、怒っているというより、疲れているように聞こえた。
「そいつを連れてても、同じだ」
リリアを顎で示した。
「あんたは誰でも背負う。背負って、勝手に壊れる」
エルゼは答えなかった。否定もしなかった。
ノアはリリアを見た。
「聖女、あんたは何のためについて来てる」
「エルゼと一緒に、灰の真実を調べるためです」
「それだけか」
「今のところは」
「今のところ」
ノアは繰り返した。何かを確かめるように。
「あんたが本気でそいつのそばにいるつもりなら、一つだけ言っておく」
ノアは石の棚に背をもたせかけた。
「エルゼは助けを求めない。求め方を知らない。だから周りが気づかないまま、限界を超える」
「……知っています」
「知ってるなら、見ててやれ」
それだけ言って、ノアは木箱を閉めた。
「記録は持っていっていい。どうせ俺には使い道がない」
地上へ戻ると、空が暗くなり始めていた。エルゼは廃屋の並ぶ通りを、また歩き始めた。町の外へ向かっている。リリアはその隣を歩いた。モルは静かだった。いつもなら食べ物か宿の心配をしている時間なのに、何も言わなかった。
廃屋の一軒の前を通ったとき、エルゼが一度だけ足を止めた。
壁が残っているだけの建物だった。窓の縁に、錆びた金具がついている。かつて看板でも掛けていたのかもしれなかった。仕立て屋の、と思ったが、リリアは言わなかった。
エルゼはすぐに歩き出した。
町を出た。灰が濃くなっていた。足元が黒く染まっている。
「ノアは、ここに住んでいるんですか」
リリアが聞いた。
「住んでると言えるかどうか分からないが、いる」
「一人で」
「一人で」
「寂しくないんでしょうか」
「あいつに聞いてみろ」
「エルゼが聞いたことは」
「ない」
エルゼは答えた。それから少しの間、黙った。
「あいつの家族も、騎士団が来たときに死んだ。だからここを離れられないんだろう」
「エルゼは離れられた」
「離れるしかなかった」
その言葉の意味を、リリアはすぐには聞けなかった。
モルが肩の上で小さな声で言った。
「エルゼの故郷、怖いところだったもる」
「違う。怖いところじゃなかった。怖くされた」
モルは何も言わなかった。リリアも言わなかった。
灰が降る中を、二人と一匹は歩いた。
町が遠くなった。残骸が闇に溶けていった。エルゼは振り返らなかった。
リリアは一度だけ振り返った。暗い中に、小さな光が一つ見えた。ノアが蝋燭を持って、噴水の台座のそばに立っているのかもしれなかった。それとも、ただの灰の反射かもしれなかった。
どちらか分からないまま、リリアは前を向いた。
エルゼの隣を、歩き続けた。




