第七章 魔女を背負う聖女
川沿いの道を、リリアはエルゼを支えながら歩いた。エルゼは歩けると言い張ったが、足が定まらなかった。リリアは肩を貸したまま離さなかった。文句を言われても離さなかった。エルゼは三度言ってから、諦めた。
半刻ほど歩いた頃、林の際に廃屋が見えた。屋根の半分が落ちているが、壁は残っている。扉は蝶番が錆びて動かなかったが、エルゼが蹴ると開いた。蹴るだけの力は残っていた。
「ここでいいですか」
「他にないなら」
中へ入った。床に枯れ葉が積もっている。隅に古い藁が残っていた。リリアはエルゼをそこへ座らせた。エルゼは壁にもたれて、目を閉じた。
「火を起こします」
「あんたにできるか」
「昨日教わりました」
「一回教わっただけで――」
「やってみます」
リリアは枯れ葉と枯れ木を集めた。火打ち石はエルゼの外套の内ポケットにある。取り出していいかと聞くと、エルゼは黙って外套を渡した。
石を打った。火花が散らなかった。もう一度。散らなかった。三度目で、小さな火花が出た。枯れ葉が煙を上げた。四度目で、炎が立った。
細い炎だったが、消えなかった。リリアは細い枝を足して、少しずつ育てた。
「できました」
エルゼは目を開けなかった。
「見てた」
「見ていたなら、褒めてください」
「一回で成功しなかっただろう」
「三回で成功しました」
「昨日より一回多い」
「昨日は初めてでした」
返事がなかった。眠ったかと思ったが、呼吸は穏やかに続いていた。
リリアは水を探した。廃屋の外に雨水を受ける桶があった。覗くと、底に水が残っている。灰が混じっているかもしれない。布で漉してみた。清潔な布を一枚使って、水を染み込ませ、もう一枚で絞った。完全ではないが、飲めないよりましだ。
モルが戻ってきたのは、そのときだった。
「木の実あったもる」
小さな前足に、いくつかの木の実を抱えている。
「どこで」
「林の中もる。モルは食べ物の匂いが分かるもる」
「よく見つけてきましたね」
「モルは役に立つもる」
「ありがとう、モル」
モルは満足そうに羽をぱたつかせた。それからエルゼを見た。
「エルゼ、寝てるもる?」
「休んでいます」
「起こしていいもる?」
「駄目です」
「モルが持ってきた木の実、あげたいもる」
「あとで起きたら、あげてください」
モルは少し迷ってから、エルゼの膝の上に木の実を一つ置いた。それから自分もその隣に丸くなった。小さな番人のように、動かなくなった。
エルゼが目を覚ましたのは、日が傾いてからだった。
リリアは火の前で、エルゼの包帯を替えようと布を準備していた。外套のポケットを探ると、予備の包帯が出てきた。こういうものを常に持ち歩いているのだと気づいたとき、リリアの胸の中で何かが重くなった。
「包帯を替えさせてください」
目が覚めたエルゼに、まず言った。
「自分でできる」
「見せてください。まずどのくらい広がったか確認したい」
エルゼは少しの間リリアを見た。それから、左腕を差し出した。
リリアは包帯を解いた。
紋様は、昨日より広がっていた。肩の付け根まで来ている。黒い紋様は皮膚の上にあるのではなく、皮膚の中から滲んでいるように見えた。触れると冷たかった。
「痛いですか」
「慣れてる」
「それは答えになっていません」
エルゼは黙った。
「痛いのか痛くないのか、それだけ教えてください」
「……少しは痛い」
正直に答えた。リリアはそれを聞いて、また何かが重くなった。慣れているから痛くない、ではなかった。慣れていても、痛い。それでも慣れていると言う。
新しい包帯を巻きながら、リリアは言った。
「エルゼ」
「何だ」
「自分の体を当然のように傷つけないでください」
エルゼが少しだけ固まった。
「当然とは思ってない」
「そう聞こえます」
「あたしの体のことだ」
「今日、わたしを助けてくれました」
「それとこれとは――」
「同じです」
リリアは包帯を結んだ。きつくなく、緩くなく。
「エルゼが自分を傷つけることを当然だと思っているなら、わたしはそれを、当然だと思いたくない」
沈黙があった。
火が爆ぜた。
「……聖女みたいなことを言う」
「聖女候補でした。今はもう違いますが」
「今も充分聖女みたいだ」
「それは褒め言葉ですか」
「さあ」
エルゼは視線を火に向けた。横顔が、炎の色で染まっていた。普段より少し幼く見える。疲れているからか、それとも普段は力を入れている何かが、今は抜けているからか。
モルが膝の上で木の実を押し付けてきた。
「エルゼ、これあげるもる。モルが持ってきたもる」
「……ありがとう」
エルゼは木の実を受け取った。モルがまた満足そうにした。
二人と一匹で、乏しい夕食を囲んだ。
木の実と、干し果物の残り。布で漉しただけの水。
リリアは干し果物を半分に割って、モルの前に置いた。
「明日は、どこかで食べ物を買えますか」
「町があればな」
エルゼは木の実の殻を割りながら答えた。
「モルは甘いものがいいもる」
「贅沢を言うな」
「甘いものは大事もる。怖い夢のあとには、特に大事もる」
エルゼは返事をしなかった。けれど、干し果物の小さい方をモルの前に押しやった。
モルはそれを両前足で抱えた。
「エルゼは少しだけ優しいもる」
「黙って食え」
夜になった。モルはリリアの鞄の中で眠った。エルゼは壁にもたれたまま、目を閉じていた。眠っているのかどうか、分からなかった。
リリアは火を見ながら、今日のことを考えていた。
セラフィナの祈りを見た。美しかった。完璧に見えた。その美しさの裏で、誰かが苦しんでいた。知らなければ、ただ美しいと思っていた。
自分の浄化も、同じなのだろうか。
リリアが祈るたびに、誰かの記憶が消える。それを代償と呼んで、目を逸らしてきた。セラフィナの「見えない犠牲」と、どこが違うのか。
違う、と思う。でも、どう違うのかを言葉にするのが、まだできない。
「眠れないのか」
エルゼの声がした。
「少し考えていました」
「何を」
「セラフィナさんの祈りのことです。それと、わたし自身の浄化のことも」
エルゼは目を開けなかった。
「同じだと思ってるか」
「分からないんです。違うとは思う。でも、どこがどう違うのか」
「違う」
「どこが」
「セラフィナは選ぶ。誰を傷つけるか、自分で選んで移す。あんたは選ばない。救おうとして、結果として削れる」
リリアは黙って聞いた。
「同じじゃない。ただ、どちらも完全じゃない。それだけだ」
「エルゼの力も、完全じゃないですね」
「そうだ」
「誰の力も、完全じゃない」
「当たり前だろう」
リリアは膝を抱えた。
「教会は、浄化は完全な救済だと言っていました。教わってきたことが、全部そうでした。完全な救いがあって、聖女はそれを体現する存在だと」
「嘘だったな」
「嘘だったと思います。でも」
少し間を置いた。
「完全じゃないから、救おうとしてはいけないということにはならないと、今は思っています」
エルゼが目を開けた。リリアを見た。
「ミナが言っていました。助けてくれたことまで嘘にはしないで、と」
「聞いてた。あの子は強いな」
「そうですね」
火が小さくなっていた。リリアが枝を足した。炎が戻った。
「エルゼ」
「何だ」
「故郷の話を、いつか聞かせてもらえますか」
しばらく、答えがなかった。
火が爆ぜた。
「いつかな」
それだけ言った。今すぐではない。でも、絶対に話さないとも言わなかった。
「おやすみなさい、エルゼ」
「……ああ」
エルゼはまた目を閉じた。
リリアも目を閉じた。壁に背をもたせかけて、膝を抱えたまま。聖女服の裾が、また汚れているだろうと思った。銀糸が、また何本か消えているだろうと思った。
それでも今夜は、眠れそうだった。
火が、穏やかに燃えていた。




