第六章 完璧な聖女の祈り
リリアたちは、村から離れた林の中で夜を明かした。日が昇り切る前に動き始め、街道を外れた山道を進んでいた。方角はエルゼが決めた。人が少なく、騎士が鎧で追いにくい道だ。
先頭を歩くエルゼが、不意に足を止めた。
「来た」
声に出さず、口だけが動いた。リリアも気配を感じた。林の中の静けさが、変わった。鳥が鳴くのをやめた。風が止んだ。
木々の向こうに、白が見えた。
セラフィナが一人で立っていた。騎士を連れていない。白い聖女服は、林の中でも汚れていなかった。枝が顔に当たった様子もなく、足元の泥も踏んでいないように見える。どこをどう歩けばそうなるのか、リリアには分からなかった。
「追いかけるのは好きではないのですが」
セラフィナは穏やかに言った。
「リリアが心配で」
「騎士は」
エルゼが聞いた。
「少し遠ざけました。あなたたちと話したかったので」
「話すことはない」
「リリアとは、あります」
セラフィナはリリアを見た。青い目が、真っ直ぐに向いていた。
「リリア。一度だけ聞かせてください。今でも、帰る気はありませんか」
「ありません」
セラフィナは小さく目を伏せた。悲しんでいるように見えた。演じているのか、本当にそう感じているのか、リリアには分からなかった。たぶん、両方だと思った。
「そうですか」
セラフィナが顔を上げた。微笑みが戻っていた。
「なら、仕方ありません」
次の瞬間、林の空気が変わった。
白い光だった。セラフィナの背中から、翼のような光が広がった。リリアの祈りに似ているが、違う。リリアの光は温かい。セラフィナの光は、美しいが冷たかった。
林の奥から、唸り声がした。灰に侵された獣が出てきた。大きな熊だった。首から背中にかけて黒い紋様が走り、目が赤く濁っている。苦しんでいる。それが分かる唸り方だった。
セラフィナが祈った。光が熊に触れた。黒い靄が熊の体から抜けた。紋様が薄くなった。熊は一度震えて、大人しくなった。
美しかった。リリアは思わずそう感じた。完璧な浄化だと。けれど。
エルゼが素早く周囲を見た。
「リリア、林の奥を見ろ」
リリアは視線を向けた。木の陰に、人がいた。木こりか、旅人か。灰に侵されていない、普通の人間だ。だがその人の顔が突然歪んだ。膝をつき、苦しそうに胸を押さえた。
「あの人は――」
「セラフィナの祈りの代償だ」
エルゼの声は低かった。
「熊から抜いた灰を、あそこへ移した。見えないところで、誰かが苦しんでる」
リリアは動けなかった。見ていた。熊が大人しくなるのを。そして木陰の人が倒れるのを。同時に起きていることだった。なのにセラフィナの祈りは美しく、完璧に見えた。
「酷い」
リリアは言葉が出た。
「世界はそういうものです」
セラフィナが答えた。
「苦しみはなくなりません。移動するだけです。わたしの祈りは、その移動を最も効率よく行う。強い者から弱い者へではなく、多数が苦しまないように配分する」
「あの人は」
「見知らぬ旅人です。一人が少し苦しめば、熊が暴れて村人が傷つかずに済む」
「それが正しいと思っているんですか」
「正しいかどうかより、機能するかどうかです」
セラフィナの声は穏やかだった。責めているように聞こえないのに、言葉が鋭く刺さってくる。
「リリア。あなたの浄化も、代償を取っています。記憶を削る。わたしの祈りと、本質的に何が違うのですか」
リリアは答えられなかった。違う、と言いたかった。でも、どこがどう違うのか、すぐには言葉にできなかった。自分の浄化は、救う相手から代償を取る。セラフィナの祈りは、関係ない誰かから代償を取る。どちらが正しいかという問いに、今のリリアは答えを持っていなかった。
「エルゼを渡しなさい」
セラフィナが言った。
「あの魔女がいる限り、あなたは教会に戻れない。魔女を渡してくれれば、リリア、あなたを守ります」
「断る」
答えたのはリリアだった。自分でも、思ったより早かったと思った。迷わなかった。考えなかった。ただ、断る、と言った。
「断ります」
もう一度言った。
「エルゼは渡しません」
セラフィナがゆっくりと瞬きした。
「そうですか」
また、その言葉だった。
「では仕方ありません」
戦いが始まった。セラフィナの光が広がった。今度は熊に向けてではない。エルゼに向けて。白い光が複数の帯になって、空中を走った。エルゼが飛び退いた。光が地面を打ち、土が焦げた。熱くはないはずなのに、触れた草が枯れた。直接当たればどうなるのか、リリアには分からなかった。
「モル、下がれ」
エルゼが命令した。モルがリリアの鞄に潜り込む。エルゼは左腕の包帯を外した。黒い紋様が露わになった。腕に刻まれた灰の紋様は、肘から手首まで走っている。そこから靄が滲み出した。今まで見せてきたものとは、量が違った。
「エルゼ」
リリアが呼んだ。
「下がれ」
「でも……」
「あんたが前に出る場面じゃない。今は」
エルゼが前に出た。黒い靄が盾のように広がり、セラフィナの光を受けた。靄が光を飲み込んだ。光の中に含まれていた灰を、エルゼが自分の腕に引き受けた。
セラフィナが表情を変えた。初めて、驚きに近いものが顔に出た。
「灰の呪いを自分に引き受けるとは」
「それがあたしの力だ」
「愚かですね」
「そうかもな」
エルゼは前に進んだ。靄を広げながら、光の帯を一つずつ受け止めた。セラフィナが帯を増やす。エルゼが靄を増やす。
リリアは見ていた。エルゼの左腕の紋様が、広がっていくのが分かった。黒が、肘を超えて肩へ向かっている。使いすぎれば、エルゼ自身が侵食される。分かっている。それでもエルゼは止まらない。肩口まで届いた黒が、首筋に細く伸びた。エルゼの息が、一度だけ詰まる。けれど彼女は膝をつかなかった。黒い靄を広げたまま、セラフィナの光を受け止め続けている。
「エルゼ、もう――」
「下がってろ」
返ってきた声は、いつもより掠れていた。喉の奥に灰が詰まっているような声だった。
その声を聞いた瞬間、リリアは初めて思った。
この力は、エルゼを守ってくれない。
エルゼは、誰かの苦しみを引き受けるたび、自分の形を少しずつ灰に近づけている。
セラフィナが光を収めた。代わりに、林の奥から気配がした。また、獣だ。一頭ではない。複数の、灰に侵された獣の唸り声。
「リリア」
セラフィナが呼んだ。
「あなたは救いたいのでしょう。ならば祈りなさい。あの獣たちを浄化すれば、その苦しみは誰かへ移る。あなたの祈りも、わたしの祈りも、同じことをしている。それを認めてしまえば、楽になれますよ」
リリアは獣を見た。三頭。灰の紋様が体を覆いかけた、狼たちだ。苦しんでいる。救いたいと思う。でも。
手袋をはめようとした。
「リリア、するな」
エルゼの声だった。肩越しに、振り返らずに叫んだ。
「あの獣は、セラフィナが呼んだ。浄化すれば代償をどこかへ移される。それはあいつの思い通りだ」
「でも、獣たちが――」
「一度騙されたら終わりだ」
リリアは手袋を握ったまま、動けなかった。
救いたい。でも、その救いが使われる。リリアが祈るたびに、その代償がどこかの誰かへ移る。それをセラフィナが操る。
正しいことをしようとすることが、間違いに使われる。
その可能性を、リリアは今まで考えたことがなかった。
獣の一頭が、エルゼへ向かって走った。エルゼは靄を向けた。獣の脚を絡め取ろうとした。だが今のエルゼには余裕がない。靄がうまく広がらない。獣が腕に噛みつこうとした、その瞬間。
「エルゼ!」
リリアは動いた。祈りを使ったわけではない。ただ、走った。エルゼと獣の間に割り込んで、手袋をはめた手で獣の顎を押さえた。
力ではかなわない。押さえ込めるとは思っていない。ただ、一瞬の隙を作りたかった。
その一瞬で、エルゼが靄を集めた。獣の脚を絡めた。獣が動きを止めた。
二人は顔を見合わせた。一瞬だけ。
セラフィナが残りの獣に光を向けた。その光が、今度は獣ではなくリリアたちの足元の地面を打った。地面が割れた。リリアがよろけた。エルゼが腕を掴んだ。
「走れ」
「でも――」
「今は走れ」
二人は走った。モルが鞄の中で叫んでいた。林を抜け、坂を下り、川沿いの道へ出た。
セラフィナは追ってこなかった。
川のそばで、二人は息を整えた。エルゼが左腕を見た。黒い紋様が、肩まで広がっていた。包帯がないまま露わになっている。リリアはそれを見た。
「包帯を」
「ある」
「貸してください。巻きます」
「自分でできる」
「両手でやった方が綺麗に巻けます」
エルゼはリリアを見た。少しの間、そのままでいた。それから腕を差し出した。
リリアは鞄から清潔な布を出した。本来は祈りの道具を包むためのものだが、今はこれしかない。エルゼの腕に巻いた。紋様が見えなくなった。黒が、白い布の下に隠れた。
「ありがとうございます」
リリアが言うと、エルゼが眉を上げた。
「礼を言う方向が逆だろう」
「わたしが割り込んだせいで、エルゼの靄が乱れました。ごめんなさい」
「乱れてない」
「乱れていました」
「……少しだけだ」
エルゼは川の方を向いた。水が流れる音がした。灰が川面に落ちて、黒い輪を作っては消えていく。
「割り込んだのは」
エルゼが言った。
「はい」
「自分でも驚いたか」
リリアは少し考えた。
「驚きました。考えていなかったので」
「考えてから動く人間だと思ってた」
「わたしもそう思っていました」
エルゼは何も言わなかった。川を見ていた。
モルが鞄から顔を出した。
「終わったもる?」
「終わりました」
「モルは怖かったもる」
「わたしも怖かったです」
「エルゼは?」
「うるさい」
「怖かったもる」
「うるさいと言った」
モルはぷくりと羽を膨らませて、またもぐった。リリアはその様子を見て、少しだけ笑った。エルゼは笑わなかったが、口の端が僅かに動いた気がした。
リリアは包帯を巻いた腕を見た。この下の紋様が、今日また広がった。エルゼは慣れていると言う。慣れている、と言えてしまうことの意味を、リリアはまだうまく受け止められない。
「セラフィナさんは」
「また来る」
「次は、どうすればいいですか」
エルゼは少しの間、黙った。
「あんたが割り込んできたとき」
「はい」
「あれで、あたしの靄が繋がった。うまく繋がった」
リリアは意味を考えた。
「わたしがいたから、エルゼの力が届いたということですか」
「……そういうことに、なるかもしれない」
断言はしなかった。けれど否定もしなかった。
リリアは川を見た。灰が落ちて、消えていく。落ち続けているのに、川は流れ続けている。
一人では届かないところに、二人なら届くかもしれない。
その可能性を、リリアはまだ言葉にしなかった。ただ、胸の中に置いた。
隣で、エルゼが倒れた。
声もなく、膝から崩れた。
「エルゼ!」
リリアが駆け寄った。エルゼは地面に片膝をついて、意識はある。ただ、顔が青白かった。
「平気だ」
「平気ではありません」
「少し、使いすぎた」
「立てますか」
「立てる」
立てなかった。リリアが肩を貸した。エルゼの体重がかかった。思ったより軽くて、それが怖かった。
「歩けますか」
「歩ける」
「嘘です」
「……少し待てば歩ける」
「待ちます」
リリアはエルゼを支えたまま、川のそばに座り込んだ。エルゼは抵抗しなかった。
モルが鞄から出てきて、エルゼの膝の上に乗った。
「エルゼを背負うもる?」
「背負います」
「モルも手伝うもる」
「ありがとう、モル」
「モルは役に立てるもる」
エルゼは何も言わなかった。ただ、目を閉じた。その顔は、普段より幼く見えた。
灰が、リリアたちの上に音もなく降った。




