第五章 女神は十年前に死んだ
紙を持ち帰ることにしたのは、エルゼの判断だった。
燃やしてしまえという選択肢もあった。こんなものを持ち歩けば、見つかったときに言い訳が利かない。だがエルゼは紙を丁寧に折り、外套の内側に差し込んだ。
「証拠になるかもしれない」
それだけ言った。
リリアは頷いた。モルはまだリリアの胸の中で小さくなっていた。頭の痛みは引いたらしいが、どこか上の空だった。いつもなら食べ物の話をしている時間なのに、何も言わなかった。
礼拝堂を出て、リリアたちは林の中へ入った。ガルドが村を再び訪れる前に距離を取る必要があった。
歩きながら、リリアはあの文章を何度も頭の中で繰り返した。
女神の翼が崩れ、灰が降った。
教会はそれを隠すために、魔女という名を使った。
十年前。灰の災厄が始まった年。リリアが物心ついた頃には、すでに灰は降っていた。物心がつく前から教会にいたから、灰のない世界を知らない。女神は天に帰り、その嘆きが灰になったと教わった。魔女が女神を傷つけたから、女神は泣いていると教わった。
嘘だったのかもしれない。
その可能性が、今、足元の地面のように確かなものとしてそこにあった。
次の村に着いたのは、夕刻だった。
小さな宿があった。エルゼが持っている銀貨で、二人分の部屋を借りた。リリアが財布を出そうとすると、エルゼは首を振った。
「あんたの財布は教会のものだろう。使えばどこから来た金か分かる」
「……考えていませんでした」
「これからは考えろ」
部屋は狭く、寝台が一つと、小さな卓があるだけだった。モルは卓の上に丸くなり、リリアは寝台の端に座り、エルゼは窓の外を見ていた。
リリアは礼拝堂で見つけた紙のことを考えながら、もう一つ、ずっと考えていたことを口にした。
「女神が死んでいるとしたら」
エルゼが振り返った。
「灰は止まらないですね。魔女を全員捕まえても、呪いは消えない。教会がどれだけ祈っても、根本には届かない」
「そういうことになる」
「教会はそれを知っている」
「知ってて隠してる」
リリアは膝の上で手を重ねた。
「どうして隠すんでしょう。女神が死んだと認めれば、別の方法を探せるかもしれないのに」
「認めたら、教会が終わるからだろう」
エルゼは窓から離れて、壁に背をもたせかけた。
「女神を守れなかった教会に、誰が従う。聖女の祈りも、騎士団の剣も、女神の力があってこそだと人々は思ってる。その根本が腐ってると分かれば、教会の権威は崩れる」
「それでも」
「権威がなくなれば、秩序も崩れる。そう考えてる人間は、嘘をつき続けることを正しいと思える」
リリアは黙った。ガルド隊長の顔を思い出した。任務だ、私情を挟むな、と言ったガルドの目。感情のない、硬い目。あの目の奥に、何があるのか。信念か。恐怖か。それとも、もっと別の何かか。
「モル」
リリアはモルを呼んだ。
「礼拝堂で、何が見えましたか」
モルはゆっくりと顔を上げた。
「白いものもる」
「白い、何が」
「翼、かもしれないもる。でも、ちゃんと見えなかったもる。靄の向こうにあって、掴もうとすると消えるもる」
「女神の翼ですか」
「分からないもる」
モルは小さな前足で頭を押さえた。
「モルはよく分からないもる。自分が何を知ってて、何を忘れてるのか、それすらも分からないもる」
その言葉には、珍しく道化た響きがなかった。本当に困っているときの、素直な声だった。リリアはモルの頭を指先で撫でた。モルが目を細めた。
翌朝、扉を叩く音がした。宿の主人が、来客だと告げた。
リリアとエルゼは顔を見合わせた。エルゼが先に扉を開いた。
廊下に立っていたのは、若い女だった。金髪。青い瞳。完璧に整えられた白い聖女服。裾も、袖も、どこも汚れていない。旅の疲れが見えない顔で、穏やかに微笑んでいた。
「リリア」
その人はリリアを見て、優しく言った。
「よかった。無事でしたね」
リリアの体が固まった。
知っている顔だった。知っている声だった。教会にいた頃、何度もその背中を目で追った。完璧な祈り。美しい浄化。リリアが目指していた聖女の姿。
「セラフィナ、さん」
「ずっと探していました」
セラフィナ・アークライトは、リリアに向かって一歩踏み出した。
「心配しましたよ。魔女に連れ去られたと聞いて」
「連れ去られたわけでは――」
「リリア」
セラフィナの声が、少し柔らかくなった。
「あなたが迷っているのは分かります。魔女の言葉は、聡明なあなたには響きやすい。でも、帰りましょう。教会へ。あなたの場所へ」
リリアは答えなかった。
セラフィナがエルゼを見た。微笑みが変わらない。ただ、目の温度だけが違った。
「魔女、リリアを返してもらえますか」
「自分で来い」
エルゼは短く言った。
「あんたに話すことは何もない」
「そうですか」
セラフィナは微笑んだまま言った。
「残念です」
その瞬間、リリアは何かを感じた。
部屋の空気が、変わった。重くなった、というより、何かが抜けた。温度が下がったわけでもない。ただ、呼吸をするたびに、何か大切なものが薄くなるような感覚。
「セラフィナさん」
リリアは呼んだ。
「あなたの祈りは――」
「祈っていません。ただここに立っているだけですよ」
セラフィナは答えた。
エルゼが前に出た。
「嘘をつくな」
その声は、普段より低かった。左腕の包帯の上から、僅かに黒い靄が滲んでいる。
「あんたの祈りには、別の誰かを犠牲にする気配がある。今もそうだ」
セラフィナはゆっくりと瞬きした。
「鋭いですね」
否定しなかった。
「わたしの祈りは、確かに代償を必要とします。ただし、その代償はいつも、もっとも苦しみの少ない形で配分されます」
「誰かに押しつけてるだけだろう」
「押しつけ、とは人聞きが悪い」
セラフィナの声は穏やかなままだった。責められているように聞こえないのに、言葉の奥で相手を押し込んでいく。リリアはその感覚を知っていた。教会にいた頃、何度もそれを心地よいと感じていた。今は、怖いと思った。
「リリア」
セラフィナがリリアを見た。
「あなたはまだ、知らなくていいことを知ってしまったのですね」
その言葉は、優しかった。本当に優しかった。
だからこそ、リリアは答えた。
「知らなくていいことが、知らないままでいいこととは違います」
セラフィナの微笑みが、ほんの少し揺れた。
次の瞬間、廊下の奥から足音がした。複数の、重い足音。白い鎧の騎士たちが、角を曲がって現れた。
「エルゼ」
リリアは振り返った。
「窓だ」
エルゼはすでに動いていた。窓を開け、外を確認する。二階だが、下に屋根がある。
「モル、先に行け」
「行くもる!」
モルが影に溶けた。エルゼが窓枠に足をかけた。リリアも続いた。白い聖女服の切れた裾が、窓枠に引っかかった。エルゼが引っ張って外した。
下の屋根に着地した。瓦が滑った。エルゼがリリアの腕を掴んだ。
上から、セラフィナの声が降ってきた。
「リリア」
ただ、穏やかに呼んだ。
「あなたは優しい子です。だから、迷ってしまうのですね」
リリアは屋根の上で一瞬止まった。
エルゼが引いた。
「行くぞ」
走った。屋根から路地へ、路地から裏道へ。騎士の足音が追ってくる。だが今回は、昨夜より慣れていた。エルゼのあとを、転ばずについていけた。
村の外へ出た。林の際を走り、茂みに潜り込んだ。足音が遠ざかった。茂みの中で息を整えた。リリアはセラフィナの声を、まだ耳の奥に聞いていた。
優しい声。あなたは優しい子です。知らなくていいことを知ってしまった。
知らなくていいことが、知らないままでいいこととは違います。
自分が言い返した言葉を、リリアは冷静に確かめた。
それは、本当にそう思って言った言葉だった。
「エルゼ」
「何だ」
「礼拝堂の記録。あれをもっと詳しく知るには、どうすればいいですか」
エルゼは少し考えた。
「古い記録を持っている人間を探す。教会の外で、灰の災厄を記録しようとしていた人間が、どこかにいるはずだ」
「そういう人が、いるでしょうか」
「教会が全部消してるとは限らない」
茂みの外で、風が鳴った。灰が葉の上に落ちる、かすかな音がした。
モルが二人の間に座って、小首を傾げた。
「次はどこへ行くもる」
「まだ決まっていません」
「食べ物はあるもる?」
「少しなら」
「ならまあいいもる」
モルは丸くなった。呑気だと思う。けれどその呑気さが、今は少しだけありがたかった。
エルゼが立ち上がった。
「行くぞ。セラフィナが騎士を出した。長居はできない」
「はい」
リリアも立ち上がった。白い服の裾が、また泥で汚れていた。銀糸の刺繍が、何本かなくなっていた。
それでも歩ける。昨日より、少しだけ確かに。




