第四章 忘れられた母の歌
北の集落に一夜の宿を借りた翌朝、リリアたちは次の行き先を話し合っていた。エルゼは街道を避けながら次の町へ向かう道筋を考えている。リリアはその話を聞きながら、ずっと別のことを考えていた。
「ミナのところへ行きたいんです」
エルゼが手を止めた。地面に枝で描いていた地図のようなものを、そのままにして。
「戻るのか」
「ガルドが戻ってくる前に、少しだけ」
「見つかったら終わりだ」
「分かっています」
リリアは膝の上で手を組んだ。
「でも、確かめなければならないことがあります。わたしが浄化したあとのミナが、今どうしているか」
「見たところで、変わらないだろう」
「変わらなくても、見なければならないんです」
エルゼはリリアをしばらく見た。それからため息をついた。正確には、ため息に聞こえる何かだった。
「分かった。ただし、騎士の気配があればすぐ離れる」
「はい」
「モル、先に行って匂いを嗅いでこい」
「モルが行くのもる?」
「あんたは灰の匂いより騎士の鎧の匂いが分かるだろう」
「……分かるもる」
モルは不服そうに羽をぱたつかせたが、影の中へ溶けて消えた。影渡りだ。短い距離しか移動できないが、偵察には使える。
リリアはエルゼに向かって、頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はいいと言った」
「それでも言います」
エルゼは答えなかった。視線を地面の地図に戻して、枝の先で何かを書き直していた。
ミナの村には、午前のうちに着いた。
モルが先行して、騎士の気配はないと告げた。村はあの夜より静かだった。灰はまだ降っているが、村人たちが外を歩いている。浄化を受けた男たちが、崩れかけた柵を直していた。
リリアたちは村の端から入った。エルゼは外套の黒が目立つからと、リリアの後ろを歩いた。それでも何人かの村人が、エルゼの赤い瞳を見て足を止めた。リリアは気づかないふりをした。
ミナは村の井戸のそばにいた。一人で座って、石畳に何かを描いていた。木の枝で、ゆっくりと。近づいてみると、それは人の顔だった。うまくはない。丸い輪郭に、目と口だけがある。それでも、ミナは真剣な顔で描いていた。
「ミナ」
リリアが呼ぶと、ミナが顔を上げた。一瞬だけ考えるような間があって、それから笑った。
「リリアお姉ちゃん」
名前を覚えていた。リリアは少しだけ息をついた。
「また来てくれたの?」
「少しだけ。元気にしていましたか」
「うん。ご飯も食べられるし、体は全然いい」
ミナは立ち上がった。それから、リリアの後ろのエルゼを見た。黒い外套と、赤い瞳。ミナは怖がらなかった。ただ不思議そうに首を傾げた。
「誰?」
「旅の連れです」
「ふうん」
ミナはエルゼをもう一度見て、また石畳に目を落とした。自分が描いていたものを見た。
「お母さんの顔、描こうとしてるんだけど、うまく描けなくて」
リリアは胸の奥で、何かが痛んだ。
「顔、思い出せない?」
「思い出せない」
ミナは首を振った。
「目がどんな形だったか。鼻が高かったか低かったか。笑うとどんな顔だったか。全部、靄がかかってるみたいで」
「……ごめんなさい。わたしのせいです」
「知ってる」
ミナはあっさりと言った。責めた口調ではなかった。
「村長おじいさんが教えてくれた。聖女さまの浄化は、呪いと一緒に記憶も少し持っていくって。でも助けてくれなかったら、わたしは異形になってたって」
「それでも」
「いいよ。怒ってない。死んだら、もっと何も覚えてられなかったから」
「でも、わたしは」
「だから、助けてくれたことまで、嘘にしないで」
ミナは、石畳に描いた顔を見た。
「お母さんの顔を思い出せないのは悲しい。でも、リリアお姉ちゃんが助けてくれたのも、本当だから」
その言葉は、リリアには思ったより重かった。
怒っていない。助かった。それは本当のことだ。だがリリアが削ったものも、本当のことだ。どちらかを消せば、もう一方も消えてしまう。そういう問題だった。
エルゼがミナの隣にしゃがんだのは、そのときだった。
石畳に描かれた、不格好な顔を見て。包帯を巻いた左腕を地面に近づけた。黒い靄が、ほんの少し滲み出る。
リリアは声をかけようとした。エルゼが手で制した。
靄が石畳に触れた。灰の紋様が残っている場所を、ゆっくりと撫でるように。ミナが息を呑んだ。
「何か、見えるか」
エルゼが尋ねた。
「……なんか」
ミナは目を細めた。
「あったかい感じがする。手を握られてるみたいな」
「お母さんの手か」
ミナは答えなかった。唇が少し動いた。それから、小さな声で言った。
「歌、聞こえる」
リリアは動けなかった。
「どんな歌ですか」
「分からない。ことばが聞こえない。でも、メロディだけ」
ミナは目を閉じた。しばらく黙っていた。エルゼの靄が、ゆっくりと引いていく。石畳から、地面から、エルゼの腕の中へ。
ミナが目を開けた。
「思い出した」
ひそやかな声だった。
「一節だけ。全部じゃないけど、一節だけ」
そしてミナは、小さな声で歌った。ことばはなかった。音だけだった。揺れるような、短い旋律。子守歌の断片だと、聞けば分かった。
リリアは黙って聞いた。エルゼは靄を完全に引き戻して、左腕を押さえた。包帯の端が、また少し黒く滲んでいた。
ミナが歌い終わった。
「全部は戻らない」
エルゼが言った。柔らかくはないが、乱暴でもない声で。
「それだけ戻れば、少しはましか」
「うん」
ミナはうなずいた。
「うん。ましもる」
リリアは瞬きした。
ミナが笑った。
「モルって子の言い方、うつったかも」
モルはいつの間にかリリアの肩に戻っていて、「うつるのは本望もる」などと言っていた。
村を出る前に、リリアはエルゼの隣を歩いた。
「ありがとうございます」
「また礼か」
「また言います」
エルゼは前を向いたまま答えなかった。
「あなたの力は、記憶を拾えるんですね」
「拾える、というか」
エルゼは少し間を置いた。
「灰の中に残ってるものを、引き出せることがある。完全じゃない。残ってないものは、どうしようもない」
「それでも」
「それでも、何だ」
「わたしが削ったものを、あなたが拾える場合があるということです」
エルゼがリリアを見た。少しだけ、目が細くなった。
「そういうことになるな」
「それは」
リリアは言葉を選んだ。
「わたしたちの力は、組み合わせることができるかもしれない、ということですか」
「考えすぎだ」
「考えすぎでも」
「一度うまくいったからといって、いつもそうとは限らない」
「それでも、可能性はある」
エルゼは答えなかった。それが否定ではないと、リリアには分かった。
モルが肩の上で呟いた。
「二人とも、救い方が違うもる。でも向いてる方向は同じもるね」
「うるさい」
エルゼが言った。
「図星もる」
エルゼはそれ以上言わなかった。リリアも言わなかった。
村が遠くなった。ミナが井戸のそばで手を振っていた。あの手の中には、今、母親の歌の一節がある。完全ではない。欠けたままだ。けれど、昨日よりは少しだけ多い。
リリアはその手を見ながら、自分の浄化がどういうものだったかを、もう一度考えた。
正しかったのかと問えば、分からない。けれど全部が嘘だったとも言えない。ミナは生きている。歌を覚えている。怒っていないと言った。
それがどういう意味を持つのか、リリアにはまだうまく整理できなかった。ただ、村が見えなくなるまで、ミナの振る手から目を離さなかった。
村を出てすぐ、古い石造りの建物が見えた。村はずれの礼拝堂だった。扉は半開きで、中に人の気配はない。おそらく、灰の災厄が広がってから使われなくなったのだろう。
「待ってください」
リリアは足を止めた。
「何だ」
「あの礼拝堂、入ってみてもいいですか」
エルゼは礼拝堂を見た。それから空を見た。まだ昼には間がある。
「短くしろ」
礼拝堂の中は、薄暗かった。長椅子に灰が積もっている。祭壇の上の女神像は、腕が一本欠けていた。窓の彩色硝子は、一枚が割れて、そこから外の光が入っていた。
リリアは祭壇の前に立った。女神像を見た。白い翼を広げた女神。その翼が、今は片方だけ上を向いて、もう片方は力なく垂れている。
「昔はこういう場所で、毎朝祈っていました」
リリアは伝えた。エルゼは扉のそばに立って、外を見張っていた。
「今も祈るのか」
「今は、何に祈ればいいか分からなくて」
エルゼは何も言わなかった。
リリアは祭壇の引き出しを開けた。古い蝋燭と、使い古された祈祷書が入っていた。その下に、別の紙束が挟まっていた。
手に取った。
紙は黄ばんでいた。文字が細かく、インクが滲んでいる。書かれた日付を見ると、十年以上前のものだった。
読み始めて、リリアの手が止まった。
「エルゼ」
「何だ」
「これを見てください」
エルゼが近づいた。紙を覗き込む。
そこには、こう書かれていた。
十年前の秋、空が黒くなった。女神の翼が崩れ、灰が降った。これは魔女の仕業ではない。われわれはこの目で見た。女神が、女神自身が、黒く腐っていくのを。教会はそれを隠すために、魔女という名を使った――
文章はそこで途切れていた。残りのページは、破られていた。
二人は黙った。モルがリリアの肩から紙を覗き込んだ。そして、頭を押さえた。
「モル、頭が、いたいもる」
小さな体が、ぐらりと揺れた。リリアが咄嗟に両手で受け止めた。
「モル、どうしました」
「分からないもる。でも、なんか、白いものが、見えて……」
モルの赤い目が、一瞬だけ別の色に見えた。白に近い、淡い光。それはすぐに消えた。
モルはリリアの手の中で震えていた。小さな羽が、ぱたぱたと不規則に動いている。
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないかもしれないもる」
正直な答えだった。
リリアはモルを胸に抱いた。エルゼは紙をもう一度見た。それから窓の外の空を見た。灰が降っている。十年前から降り続けている、黒い灰が。
女神が、黒く腐っていく。その言葉が、リリアの中でゆっくりと沈んでいった。




