第三章 聖女さまは歩き方を知らない
朝が来た。小屋の屋根の穴から、灰色の光が差し込んでいた。雪のような明るさではない。曇った空の、くすんだ白だ。リリアは体を起こして、首の後ろをさすった。壁に背をもたせかけて眠ったせいで、肩が固まっている。
エルゼはいなかった。
リリアは一瞬だけ、置いていかれたと思った。それから鞄の上でまだ丸くなっているモルを見て、少し落ち着いた。モルがいるなら、完全に捨てられたわけではないだろうと、根拠のない判断をした。
「リリア、起きたもる?」
モルが赤い目を開けた。
「起きています」
「エルゼは水を探しに行ったもる。すぐ戻るって言ってたもる」
「そうですか」
「モルはお腹が空いたもる」
「昨夜の干し果物が、まだ残っています」
「食べていいもる?」
「どうぞ」
モルはぱたぱたと羽を動かして鞄に潜り込んだ。ごそごそという音がしばらく続いた。リリアは立ち上がり、扉の隙間から外を見た。
林はまだ暗い。鳥の声もしない。灰のせいで、この辺りの鳥は声を出さなくなったのだろうか。それとも、もういなくなってしまったのだろうか。
足音がした。エルゼが戻ってきた。片手に水の入った革袋を持っている。もう片方の手には、何か茶色い丸いものをいくつか持っていた。
「木の実だ。食えるやつ」
エルゼはリリアに差し出した。
「朝食はそれで我慢しろ」
「ありがとうございます」
「礼はいい」
エルゼは小屋の中に入り、壁際に腰を落とした。木の実を一つ手のひらに乗せて、外套の端で割った。慣れた手つきだった。
リリアも座って、木の実を一つ口に入れた。硬くて、少し苦い。教会の食堂で出てくるものとは、何もかもが違った。
「今日、どこへ行くか決めましたか」
「北へ向かう」
エルゼは木の実を噛みながら言った。
「ガルドは街道を使って追ってくる。だから街道は使わない。林を抜けて、北の集落まで出る」
「どのくらいかかりますか」
「歩いて半日。あんたのペース次第でもっとかかる」
「わたしのペース」
「昨夜の走り方を見た。旅慣れてない」
リリアは反論できなかった。事実だったから。
出発したのは、日が完全に上りきる前だった。
林の中は、思ったより歩きにくかった。街道なら何ということもない距離でも、木の根が地面を這い、低い枝が顔に当たり、足元の枯れ葉が予想外に深い。リリアは三度目につまずいたとき、そのまま手をついた。
「っ」
「また転んだもる」
モルが肩の上から告げた。いつの間にかそこが定位置になっていた。
「分かっています」
リリアは手についた泥を聖女服で拭いた。白い袖が、灰色になった。
「手を貸せ」
エルゼが戻ってきた。少し先を歩いていたはずが、いつの間にか引き返している。差し出された手を、リリアは一瞬見た。左腕ではない。右手だ。
「……お借りします」
手を取ると、あっさりと引き起こされた。エルゼの手は、思ったより温かかった。
「足元を見て歩け。聖女服の裾は短くできないか」
「裂いてしまえば、多少は……」
「裂け」
「でも、これは教会から――」
「追われてる最中に、服の心配か」
リリアは言い返せなかった。エルゼはしゃがんで、迷いなくリリアの聖女服の裾を掴み、膝下あたりでざっと裂いた。銀糸の刺繍が途切れた。
「歩きやすくなっただろう」
「……はい」
「ならいい」
エルゼはまた先を歩き出した。その背中を見て、リリアは自分の裾を見た。不揃いにちぎれた白い布。銀糸がほつれている。
不思議と、惜しいとは思わなかった。
昼前に、林の中で火を起こすことになった。
モルが「寒いもる」と言い続けていたのと、リリアが手の感覚をなくしかけていたのが理由だった。エルゼは短く舌打ちして、枯れ木を集め始めた。
「手伝います」
「あんたは石を集めてくれ。平たいやつ、これくらいの大きさで五つ」
エルゼが手で大きさを示した。リリアはうなずいて、足元を探した。石を探すことなら、体力の問題ではない。
五つ集めて戻ると、エルゼはすでに枯れ木を組んでいた。リリアが石を円形に並べる。エルゼが火打ち石を取り出して、枯れ葉に火花を散らした。
リリアはその作業を見ていた。
「わたしも覚えた方がいいですか」
「できるか?」
「やってみれば分かります」
エルゼは火打ち石を無言で渡した。リリアは真似をして、石を打ち合わせた。火花が散らない。もう一度。散らない。三度目で、かろうじて小さな火花が出たが、枯れ葉には届かなかった。
「難しいですね」
「最初はそういうもんだ」
エルゼが代わって、すぐに火をつけた。小さな炎が枯れ葉に広がり、細い枝へ移る。リリアはその炎の前に手を差し出した。じんじんとした痛みのあとで、指先が戻ってくる感覚がした。
モルはリリアとエルゼの間に割り込んで、炎のすぐ手前に座った。
「あったかいもる」
「近すぎる。焦げるぞ」
「モルは焦げないもる」
「根拠は」
「モルが焦げると思ってないもる」
エルゼが無言でモルをつまんで少し後ろへ移動させた。モルが抗議の声を上げたが、エルゼは無視した。
リリアはその様子を見て、小さく笑いそうになった。こらえた。こらえて、炎を見た。
「エルゼさん」
「エルゼでいい。さんはいらない」
「……エルゼ」
呼び方が変わっただけで、少し違う感じがした。
「あなたは、ずっとこうやって旅をしているんですか?」
「そうだ」
「一人で?」
「今まではな」
今まで、という言葉が引っかかった。今は、一人ではない、ということだろうか。リリアはそれを聞いていいのか分からなくて、黙った。
「火起こしは慣れる。木の実はどれが食えるか、どれが食えないかも、見れば分かるようになる。方角は、朝なら太陽で、夜なら星で分かる。曇りの日は……まあ、そのうち覚える」
「教えてもらえますか」
「必要なら」
「必要です」
エルゼが少しリリアを見た。
「覚える気があるなら教える」
「あります」
「なら教える」
それで話は終わりになった。短い言葉のやり取りだったが、リリアには何か決まったような気がした。この旅が、今日一日で終わらないということが。
午後になって、獣が現れた。林の奥から、低い唸り声がした。リリアは足を止めた。エルゼも止まった。モルが肩の上でぎゅっと縮んだ。
「モル、怖いもる」
「静かにしろ」
エルゼが低い声で言った。茂みが揺れた。出てきたのは、大きな鹿だった。ただし、普通の鹿ではなかった。首から肩にかけて、黒い灰の紋様が走っている。角の先が黒く変色して、ところどころ崩れかけていた。目が赤く濁っていた。
灰に侵された獣だ。
「リリア、祈りを使うな」
エルゼがリリアの前に出た。
「下がれ」
「でも、浄化すれば――」
「あれの中には、まだ正気が残ってる」
エルゼは左腕を前に出した。包帯の上から、黒い靄が滲み始める。
「記憶を削る必要はない。あたしがやる」
「あなたの腕が――」
「下がれ」
リリアは退いた。モルがリリアの首にしがみついた。
エルゼが一歩、鹿に近づいた。鹿が唸る。角を下げて、突進しようとする。エルゼは動じなかった。左腕の靄が広がり、地面を這い、鹿の足元に触れた。
鹿の体が、一瞬震えた。
黒い紋様が、ざわりと動いた。エルゼの腕の靄が、紋様の中に入り込むように見えた。鹿の唸り声が、変わった。低い、苦しいものから、何か別のものに。
やがて、鹿は大人しくなった。
赤く濁っていた目が、少しだけ澄んだ。角の黒も、わずかに薄くなった気がした。鹿はそのまま、ゆっくりと草の上に横たわった。眠るように。
エルゼが腕を引いた。
リリアは近づいた。横たわった鹿の、規則正しい呼吸を確認した。
「消えていない」
「消してない」
エルゼは包帯の上から左腕を押さえた。
「引き受けただけだ。あいつの中の苦しみを、少し分けてもらった」
「分けて……あなたの中に?」
「そうだ」
「それは」
リリアは言葉を探した。
「あなたが、痛いということですか」
「慣れてる」
短く、そう言った。
リリアは鹿を見た。安らかに眠っている。呪いは消えていないが、苦しみは和らいでいる。そしてその苦しみは今、エルゼの中にある。
自分の浄化とは、何かが根本的に違った。自分は灰を祓う。その過程で、人の記憶を削ってしまう。エルゼは灰を取り除かない。ただ、苦しみを自分の中へ引き受ける。どちらが正しいかではない。どちらが何を失うかが、まるで違う。
「エルゼ」
「何だ」
「あなたの力は、壊す力じゃないですね」
エルゼは振り返らなかった。
「……背負う力だ」
リリアは思ったままを言った。エルゼは少しの間、動かなかった。それから歩き出した。
「行くぞ。日が落ちる前に集落に出る」
リリアはそのあとを追った。
モルがリリアの肩の上で、小声で言った。
「エルゼは怖い顔だけど、いいやつもる」
「そうですね」
リリアは小声で答えた。
歩きながら、エルゼの左腕を見た。包帯の端が、出発前より少しだけ黒く滲んでいた。
リリアはそれを見て、何かが胸の中で動く感覚を持った。心配とも違う。痛みとも違う。ただ、目を逸らしてはいけないと思った。
あの黒が、どこまで広がっているのか。
いつか、聞かなければならない気がした。




