第二章 灰かぶりの魔女
足音が聞こえたのは、エルゼが名乗ってすぐのことだった。
一つではない。複数の、揃った足音。重い靴底が地を踏む音に、金属の擦れる音が混じる。鎧だ、とリリアは思った。騎士の鎧。
エルゼの表情が変わった。
それまで静かに立っていた少女が、一瞬で周囲を見渡した。廃屋の角を確認して、林の向きを確かめて、リリアの位置を測る。その動作のすべてが素早く、無駄がなかった。逃げ慣れている人間の動き方だと、リリアは直感した。
「騎士か」
「わたしの護衛隊です。ガルド隊長が――」
「来たのは隊長だけじゃない」
エルゼが遮った。
「六人いる。こんな小さな村で、聖女一人を守るにしては多すぎる」
言われて、リリアも耳を澄ませた。確かに、足音は複数の方向から来ている。村を囲むように。どうして、と思う間もなかった。
「リリア様」
廃屋の陰から、ガルドが現れた。白い鎧が夜の中でも光って見える。その手には、剣が抜かれていた。
リリアは安堵しかけた。ガルドだ。隊長が来てくれた。それなら――
「下がってください」
ガルドはリリアではなく、その背後を見て言った。
声が硬かった。いつもの任務口調とは、何かが違った。
「魔女を確認しました」
短く、そう言った。
リリアはガルドの視線の先を振り返った。エルゼが立っている。赤い瞳が細くなった。
「リリア様、こちらへ」
ガルドが手を伸ばした。リリアへ向けた手ではなかった。リリアをエルゼから引き離すための手だった。
「待ってください」
リリアは動かなかった。
「ガルド隊長、この子は――」
「魔女です」
「でも、話を――」
「リリア様」
ガルドの声が、低くなった。
「君は今夜、魔女と接触しました。それは教会規則に照らして、重大な問題です」
リリアは意味を飲み込もうとした。
問題。重大な。魔女と接触したことが。
「それは……どういう、意味ですか」
「そのままの意味です」
ガルドの目がリリアを見た。感情がない。いつも通りの、任務を果たす騎士の目だった。
「聖女候補が魔女と接触した場合、その聖女候補は教会の管理下に置かれます。これは規則です」
「管理、下……」
「保護です」
ガルドは言い直した。
「君を保護します、リリア様。抵抗は許されません」
その瞬間、リリアはようやく理解した。
ガルドの剣は、エルゼだけに向いていない。
自分にも、向いている。
エルゼが動いたのは、騎士たちが包囲を狭めた瞬間だった。
「走れ」
それだけ言って、左腕を前に出した。包帯の巻かれた腕から、黒い靄が滲み出した。靄は一瞬で広がり、騎士たちの足元に影を作った。地面に染み込んだ影が揺れ、騎士の一人がよろめく。
「走れって言った」
「でも――」
「あんたを捕まえようとしてるのが分からないか」
エルゼがリリアの腕を掴んだ。強引に、迷いなく。リリアは引っ張られるまま、駆け出した。
後ろでガルドが叫んだ。
「追え!」
廃屋の間を抜け、林の際を走った。エルゼの足は速かった。手を引かれなければ、リリアは途中でつまずいていた。聖女服の裾が枯れ草に引っかかる。銀糸の刺繍が、暗闇の中で意味をなさない。
林の中へ入った。木の根が地面を這い、枝が顔に当たる。灰がまだ降っている。黒い粒が目に入りそうになって、リリアは顔を伏せた。
どれくらい走っただろう。
足音が遠くなった。騎士たちは林の外で止まったらしかった。夜の林は、鎧の重さでは追いにくい。
エルゼが足を止めた。太い木の幹を背にして、息を整える。リリアもその隣で立ち止まり、膝に手をついた。息が上がっている。胸が痛い。こんなに走ったことは、教会にいた頃はなかった。
「……逃げられた、ですか」
「今は。明日の朝には探される」
エルゼは林の奥を見た。
「もっと入る。歩けるか」
「歩けます」
「嘘くさい」
「歩けます」
リリアはもう一度言った。エルゼは少し見て、それから歩き出した。
しばらく無言で歩いた。足元は暗く、枯れ葉が音を立てる。エルゼは方角を迷わない。この林を、前に通ったことがあるのかもしれなかった。
「どうして」
リリアは歩きながら言った。
「何が」
「どうして、わたしを連れてきたんですか。あなたには関係のないことでした」
エルゼは少し黙った。
「置いていけなかった」
それだけ言った。それ以上は説明しなかった。
リリアはその背中を見た。黒い外套。肩にかかる灰色まじりの黒髪。見知らぬ少女だ。昨夜初めて会ったばかりの。自分を魔女と呼ばれることを否定しなかった少女。
なぜかその背中が、今夜のガルドの目より、ずっと真実に見えた。
林の中に、古い炭焼き小屋があった。屋根に穴が開き、扉は蝶番が外れかけている。それでも壁は残っていた。エルゼは当然のように中へ入り、地面に腰を下ろした。
「座れ。今夜はここにいる」
リリアは扉のそばで立っていた。土の床に、枯れ葉が積もっている。教会の自室とは、何もかもが違った。
それでも座った。他に選択肢がなかったから。
「……騎士たちは、なぜわたしを」
「教会の秘密に近づいたからだろう。あたしと話したのを見られただけでも充分な理由だ」
エルゼはさっぱりと言った。
「でも、わたしは聖女候補で……」
「だから始末される。余計なことを知った聖女候補は、管理した方が都合がいい」
リリアは言葉を失った。
始末。管理。自分が。教会に育てられた自分が。
「教会は、わたしのことを……」
「道具だと思ってる」
エルゼは淡々と言った。
「あんたが何を思ってるかなんて、関係ない。祈りが使えれば充分で、知りすぎれば邪魔になる。たぶん、最初からそういうものだった」
リリアは膝の上で手を握った。白い手袋の中で、指先が冷えている。
信じないと、自分が崩れてしまうから信じていた。教会を。救済を。自分のしていることの正しさを。
それが、こんな形で崩れるとは思っていなかった。
「何か食べ物あるか」
エルゼが唐突に言った。
「え」
「あんたの鞄、大きい。何か入ってるだろう」
リリアは肩に掛けていた布鞄を見た。教会から持たされた旅の荷物だ。中には浄化のための道具と、数日分の携帯食が入っている。
「……乾パンと、干し果物があります」
「出してくれ」
リリアが鞄を開けると、中から何かが飛び出した。
黒い、丸いものだった。長い耳。小さな翼。赤い目。手のひらより少し大きい、ウサギともコウモリとも言いがたい生き物が、鞄の中からぽとりと落ちて、土の床に着地した。
そしてリリアとエルゼとその生き物は、しばらく黙って見つめ合った。
「モルは」
生き物が言った。鈴を転がすような、少し幼い声で。
「モルは、灰の匂いを追ってきたもる」
リリアは瞬きした。
「……しゃべった」
「うるさい小動物だな」
エルゼが呆れ顔で言った。
「黒い人は失礼もる」
生き物はぷくりと羽をふくらませた。
「エルゼだ。黒い人じゃない」
「じゃあエルゼは失礼もる」
「言い直しても失礼だろ」
「モルはずっと前からここにいたもる。誰も気づかなかっただけもる」
「なぜわたしの鞄に」
「あったかかったもる」
答えになっていなかった。リリアは何と言えばいいか分からず、ただその赤い目を見つめた。生き物はしばらくリリアを見て、それから、ちょこちょこと近づいてきて、鞄の縁に前足をかけた。
「モルは、モルというもる」
「……リリアです」
「リリアはいいにおいもる」
「え」
「灰の匂いがしない。あったかい匂いもる」
リリアはなんと答えればいいか分からなかった。エルゼは干し果物を一粒つまんで口に入れながら、興味なさそうにしていた。
「あんたのものか」
「違います。今日初めて見ました」
「ならいらないだろう」
「モルはいるもる!」
生き物、モルは羽をぱたぱたさせた。
「モルはここにいるもる。エルゼの外套は灰の匂いがして、リリアの鞄はあったかい。どちらもいいもる」
「どちらでもよくない」
「じゃあエルゼの外套もる」
「入ってくるな」
モルはすでにエルゼの外套の裾をくわえて引っ張っていた。エルゼが払いのける。モルが抗議する。リリアはその光景を、夢の中の出来事を見るような気分で眺めた。
今日、村に着いた。ミナを浄化した。夜に外へ出て、魔女と出会って、騎士に追われた。林を走って、古い小屋にいる。黒い喋る小動物が現れた。
何もかもが、教会の中では起きなかったことだった。
「モル」
リリアはそっと呼んだ。モルがこちらを見た。
「あなたは、どこから来たんですか」
「モルも分からないもる」
モルは小首を傾げた。
「気がついたら、灰の匂いがして、そっちへ来たもる。ずっとそうしてるもる」
「ずっと、というのは」
「ずっとは、ずっともる」
それ以上は分からないらしかった。モルは答えることに飽きたように、くるりと丸くなってリリアの鞄の上に乗った。
小屋の外で、風が鳴った。灰が屋根の穴から少し入ってくる。
「眠れ。明日、早く動く」
エルゼはそう命じ、外套を羽織り直して、壁に背をもたせかける。
「どこへ行くんですか?」
「決めてない。ガルドが諦めるまで、遠ざかる」
「ガルド隊長は諦めない人です」
「なら長い逃亡になる」
エルゼはそれだけ言って、目を閉じた。
リリアは膝を抱えた。聖女服の裾が土で汚れている。銀糸の刺繍に、枯れ葉が引っかかっている。
わたしは、何を間違えたんですか。
その問いに答えてくれる人は、今夜の小屋の中にはいなかった。教会もなかった。ガルドもいなかった。
あるのは、壁際で目を閉じた魔女と、鞄の上で丸くなった正体不明の生き物と、穴だらけの屋根から落ちてくる、黒い灰だけだった。
それでもリリアは、いつの間にか眠っていた。
疲れていたから、というだけでなく。
何故かこの場所が、恐ろしくなかったから。




