第一章 聖女は灰の村へ行く
灰が降っていた。
雪に似ている、とリリアは思った。
けれど、雪ではない。白くない。冷たくない。空から降ってくるそれは、指先に触れる前にほどけて、黒い染みだけを残して消えた。
馬車の窓の外で、枯れた畑がゆっくりと黒くなっていく。麦の穂は刈り取られないまま倒れ、井戸の縁には灰が積もり、村へ続く道には人の足跡がほとんどなかった。
「リリア様」
向かいの席から、低い声がした。
白い鎧をまとった騎士隊長、ガルド・ヴァイスが、窓の外ではなくリリアを見ていた。
「窓を閉めてください。灰を吸えば、聖女候補であっても無事では済みません」
「……はい」
リリアは小さくうなずいて、窓を閉めた。硝子一枚を隔てただけで、世界の終わりが少し遠くなる。そんな気がした。
膝の上には、銀糸で翼の刺繍が入った白い手袋が置かれている。祈りの前に身につけるものだ。教会では、それを聖女の手と呼んだ。人を救うための手。呪いを祓うための手。けれどリリアには、ときどきそれが、何かをこぼさないように隠すための布に見えることがあった。
「村までは、あとどのくらいですか」
「半刻ほどです」
ガルドは短く答えた。
「灰蝕症の進行者が三名。うち一名は子どもです。到着後、すぐに浄化を行っていただきます」
「分かりました」
返事は、自然に出た。何度も練習した言葉だったからだ。
分かりました。お任せください。わたしが、救います。
聖女候補リリア・クレストは、そう言える少女でなければならなかった。たとえ、救ったはずの人が、救われる前とは少し違う目をすることを知っていても。
リリアは窓に映る自分の顔を見た。白銀の髪。淡い青の瞳。左右で色がほとんど変わらないのに、右の瞳だけが、祈りを使うたびに白く滲む。
それが何を意味するのか、教会は教えてくれなかった。聖なる証だと言った。女神の寵愛だと言った。リリアは信じようとした。信じないと、自分が崩れてしまうような気がしたから。
村は、小さかった。かつては農村として栄えていたのだろう、その面影だけが残っていた。石積みの家々は軒先まで灰で汚れ、広場の中央には村人たちが肩を寄せ合って立っている。リリアが馬車から降り立つと、一斉にこちらを見た。
すがるような目だった。救いを求める目は、王都でも、辺境でも、変わらない。リリアはそれが怖かった。自分がその期待に応えられるかどうかではなく、応えてしまうことが怖かった。
「聖女さま」
村長と思しき老人が歩み寄ってきた。腰が曲がり、白い髭に灰が積もっている。それでも深く頭を下げた。
「よくぞ来てくださいました。もはや、聖女さまのお力以外に頼れるものがございません」
「頭をお上げください」
リリアは声を整えた。穏やかに。落ち着いて。聖女候補として。
「灰に苦しむ方が、お三人いらっしゃると伺っています。まず、状態を見せてもらえますか」
「はい、はい。こちらへ」
案内されたのは、村はずれの小屋だった。中には三人が寝かされている。二人は成人の男で、首筋と手の甲に黒い紋様が浮き出ていた。灰に侵された体は、やがてその紋様が広がり、獣の角を生やし、最後には理性を失う。それが灰蝕症だ。
だが、三人目を見たとき、リリアの足が止まった。
子どもだった。九つか、十になるかならないか。薄い茶の髪を二つに結って、眠ったように横たわっている。けれどその眠りは深すぎた。まぶたが青白く、右の頬に、小さな灰の紋様が一つ咲いていた。
「ミナといいます」
村長が傍らで、穏やかな声で言った。
「母親は半年前に灰蝕症で亡くなりました。それからこの子が灰に触れて……どうか、お救いください」
リリアはミナのそばに膝をついた。手袋をはめ、祈りの言葉を胸の中で繰る。
目を閉じると、世界が変わった。
白い光が背中から広がる感覚がある。翼のような、熱のような、何か大きなものが自分の中から出ていくような。リリアはその光をミナへ向けた。灰の紋様が揺れる。黒い靄が、光の中に溶けていく。
浄化は、数刻で終わった。ミナの頬から、紋様が消えた。まぶたの青白さも薄れた。胸が、規則正しく動いている。
「よかった」
村長が泣きながら言った。
リリアは手袋を外した。両手のひらを見る。光はもう消えている。
次の二人も、同じように浄化を行った。それぞれ、灰の紋様は消えた。男たちは目を覚まし、ありがとうございます、と言った。助かりました、と言った。
リリアは笑顔で答えた。それが正しい聖女の姿だから。
夕方になって、ミナが目を覚ました。
リリアは小屋に残っていた。特に理由はなかった。ただ、その子の目が開くのを見たかった。
「お姉さん、誰?」
起き抜けのかすれた声で、ミナが尋ねた。白い聖女服を見て、それから白銀の髪を見て、少し驚いた顔をした。
「リリアといいます。あなたを助けに来た人です」
「……頭が、ぼうっとする」
「すぐ良くなりますよ」
リリアはミナの額に手を当てた。熱はない。体の灰は消えている。
ミナはしばらくぼんやりしていた。それから何かを思い出そうとするように眉を寄せた。
「お母さんは?」
リリアの胸が、虚しく冷えた。
「お母さんが、歌ってくれるって言ってたの。目が覚めたら歌ってくれるって……」
「ミナ、お母さんは、半年前に――」
リリアは冷静に言った。
「知ってる」
ミナは小さくうなずいた。
「知ってる。死んだこと、知ってる。でも、顔が……どんな顔だったか、思い出せなくて」
思い出せない。
リリアは黙った。
「声も、あんまり覚えてなくて。歌を歌ってくれたのに、どんな歌だったか、もう……」
ミナの目から、涙が一滴落ちた。泣いていいのかどうか分からないような泣き方だった。
リリアは何も言えなかった。知っていた。自分の浄化は完全ではない。灰の呪いを取り除くとき、その人の記憶や感情の一部が一緒に削れる。それを教会は「救済に必要な代償だ」と言った。呪いと感情は深く結びついている、だから切り離しようがない、と。
リリアは信じようとしていた。
けれど今、ミナが「お母さんの顔を思い出せない」と言っている。
これが、代償なのだと理解しながら、リリアはその言葉の意味に耐えることができなかった。
夜になった。村人たちは小屋に火を灯し、感謝の食事をリリアとガルドに振る舞った。リリアは笑顔で席についたが、何を食べたか覚えていない。
「救済には代償がある」
食事のあと、ガルドが淡々と言った。リリアの様子を見ていたのだろう。
「君は正しいことをした」
「……はい」
「あの子は助かった。それは事実だ」
「はい」
リリアはうなずいた。でも、お母さんの顔を忘れてしまいました。そう言うと、ガルドは何と答えるだろう。きっとまた、「救済には代償がある」と言うだろう。それは間違いではないかもしれない。でもリリアの中で、その言葉がうまく収まってくれなかった。
一人になりたかった。
リリアは「少し外を歩いてきます」と告げて、小屋を出た。
夜の村は静かだった。灰はまだ降っている。細かく、黒く、音もなく。空に星はない。雲の向こうに月があるのかどうかも分からない。
リリアは村外れまで歩いた。廃屋の並ぶ道を抜けると、黒い林が広がっている。その手前で、足を止めた。
誰かいた。
廃屋の陰に、黒い外套をまとった人影が立っていた。動かない。こちらを見ている。
リリアは声をかけようとした。その前に、向こうが言った。
「聖女さま、ずいぶん遅くまで出歩くんだな」
女の子の声だった。ただし、聖女さま、という言葉には、何一つ敬意がなかった。
その人影が、廃屋の陰から姿を現した。黒髪。赤い瞳。肩にかかる髪は、ところどころ灰色に色が抜けている。左腕には、包帯が巻かれていた。
リリアは一歩引いた。
「あなたは――」
「村の人間じゃない」
少女は言った。
「見てたよ。昼間のあんたの祈り」
「……魔女、ですか?」
問いかけた瞬間、自分の声が固くなったことに気づいた。魔女。灰の呪いを操る者。王国中から追われている存在。教会がそう教えた。
「そう呼ばれてる」
少女は否定しなかった。赤い瞳がリリアをじっと見た。怒っているわけではないのに、少し怖い目だった。けれどリリアは、その視線から逃げられなかった。
「あの子の祈り、見てたか」
「ミナのことですか」
「母親の顔、忘れてた」
リリアは答えられなかった。
「それは救いじゃない」
少女は言った。声が低く、落ち着いていた。
「教会が都合よく壊してるだけだ」
リリアの胸の中で、何かがひびを入れた。
「わたしの浄化が――」と言いかけた。
「間違いだと言ってるんじゃない」
少女は遮った。
「ただ、あれは“救う”とは呼ばない。あたしはそう思ってる」
リリアは反論しようとした。あなたに何が分かるのですか、と言おうとした。聖女を名乗る者が魔女に批判される理由はないと言おうとした。
けれど言葉が出てこなかった。ミナが「お母さんの顔が思い出せない」と言ったときの声を、また聞いた気がしたから。
「……あなたの名前は」
かわりにそれだけ尋ねた。
少女はほんの少し間を置いてから、答えた。
「エルゼ。エルゼ・ヴァルト」
灰が降っていた。二人の間に、音もなく、静かに。
リリアはまだ、自分が立っている場所が正しいのかどうか、分からないでいた。




