第十章 灰を喰らう腕
翌朝、エルゼはリリアたちを林の奥へ案内した。グリムベルから街道を外れて一刻ほど歩いた先に、古い廃屋が一軒建っていた。外から見れば何の変哲もない。ただ、床の一枚を外すと、石段が続いていた。
地下への入り口だった。
「知っていたんですか」
「記憶にある」
エルゼは石段を降りながら言った。
「ここへ連れてこられたことがある」
リリアは黙ってあとに続いた。モルはリリアの鞄にしっかりとしがみついていた。
石段の先は通路になっていた。壁が石で組まれている。古い造りだが、丁寧な仕事だった。蝋燭の台が等間隔に並んでいるが、蝋燭はすべて燃え尽きていた。エルゼが持ってきた火で照らしながら進んだ。
通路の突き当たりに、扉があった。
重い鉄の扉だった。鍵穴がある。エルゼは外套の内側を探り、細い金具を取り出した。しばらくいじると、鍵が開いた。
「開けられるんですか」
「ノアに昔教わった。あいつは、ここに残ってから妙なことばかり覚えた」
扉の向こうは、広い部屋だった。
リリアは中を見渡して、息を止めた。
石の台が並んでいた。台の上に、金具で固定するための輪がついている。人を拘束するための台だ。壁には棚があり、瓶が並んでいた。中身は乾いて固まっているが、かつては何かの液体だったと分かる。記録用の紙束が棚の隅に残っていた。湿気で端が崩れかけているが、文字は残っていた。
部屋の奥の壁には、大きな図が描かれていた。人体の略図に、灰の紋様の走り方が書き込まれている。どの経路で侵食が進むか。どこまで進むと正気が保てなくなるか。細かく、丁寧に、記録されていた。
「ここが」
リリアは声が出た。
「研究施設ですか?」
「そうだ」
エルゼは部屋の中央に立った。周囲を見渡した。感情の読めない顔だった。ただ、その立ち方が、昨日の廃屋の前と同じだった。知っている場所に立つ、静かな緊張。
「エルゼ、ここに来たことがあるというのは」
「ここで、左腕に灰の紋様を植えつけられた」
リリアは台を見た。金具の輪を見た。それから、エルゼの包帯を巻いた左腕を見た。
「九つのときですか?」
「そうだ」
「教会が」
「教会の研究者が。騎士団がグリムベルで灰の紋様を持つ子どもを見つけたと報告して、それを聞いた研究者が来た。灰の呪いを制御できる被験体として使えると判断した」
リリアは言葉を失った。
九つの子どもを。灰の研究施設に連れ込んで。左腕に、灰の紋様を植えつけた。
「痛かったでしょうに」
声に出すつもりではなかった。出てしまった。
「覚えてない部分もある」
エルゼは棚の紙束を手に取った。
「都合よく忘れてる部分があるらしい。あとでノアに聞いた。あたしは何日もここにいたらしい」
「助け出してくれたのはノアが」
「ノアの祖父だ。書記だった人間が、こっそり鍵を手に入れた。その後、騎士団に見つかって殺された」
リリアは台から目を離した。代わりに、部屋の端の壁を見た。壁に、何かが刻まれていた。近づくと、小さな傷があることが分かった。石に爪か何か硬いもので刻んだ跡。文字ではない。ただの線だった。縦に並んだ線が、いくつかある。日数を数えた跡だ。
「エルゼ」
「見なくていい」
「これも」
「見なくていい」
リリアは壁から離れた。エルゼは紙束を読んでいた。
モルが鞄からそっと顔を出した。部屋を見回した。それから、音もなく鞄の中に戻った。
棚の記録を調べるのに、半刻以上かかった。教会の研究者が残した記録は、細かかった。灰の呪いの侵食速度。被験体の反応。浄化を行った場合の変化。複数の被験体が記録されていた。名前ではなく、番号で管理されていた。
リリアは一枚の紙の前で手を止めた。
被験体の中に、浄化の実験に関する記録があった。灰に侵された被験体に、聖女候補の祈りを当てた場合の変化が書かれていた。灰は消える。しかし同時に、記憶の一部が失われる。その失われた記憶は、浄化の際に発生する光の中に溶け込み、消滅する。
消滅する。
リリアは紙を持ったまま、エルゼを見た。
「エルゼ、これを見てください」
エルゼが近づいた。紙を覗き込んだ。
「記憶は消滅する、と書いてある」
「ああ」
「ミナのお母さんの記憶を、エルゼは灰の中から拾い上げた。でもここには、記憶は消滅すると――」
「拾えた記憶は、消滅しきれなかったものだ」
エルゼは紙を返した。
「完全に消える前に、灰の中に残滓が残ることがある。あたしはそれを引き出した。ただし、時間が経つほど残滓は薄れる」
「では、時間が経てば」
「何も残らなくなる」
リリアは紙を棚に戻した。
時間が経てば、消える。だからミナの記憶も、早く戻さなければ完全に失われるところだった。早く戻れたことが、ただの偶然ではなかったのかもしれない。
棚の奥に、別の束があった。エルゼが引き出した。紙ではなく、硬い革に書かれたものだった。
エルゼが開いた。読み始めた。途中で、手が止まった。
「リリア」
「はい」
「これを見ろ」
リリアは覗き込んだ。そこには、使い魔についての記録があった。
女神に仕えていた使い魔の記録。女神が死ぬ直前、最後の心臓の欠片を使い魔に託したという記録。その使い魔は、黒いウサギとコウモリの中間のような外見を持ち、赤い目を持つと書かれていた。
女神の心臓を守る番人として、記憶を封じられた使い魔。教会はその使い魔を探していた。見つければ、女神の力の残滓を回収できると考えていた。
「モル」
リリアは鞄に向かって呼んだ。
返事がなかった。
「モル」
もう一度呼ぶと、鞄がゆっくりと動いた。モルが顔を出した。いつもの丸い顔だったが、赤い目が揺れていた。
「モルは」
小さな声だった。
「その記録、読んでほしくなかったもる」
「知っていたんですか、自分のことを」
「知らなかったもる。でも、なんとなく怖かったもる。ここに入ったとき、なんか、思い出しそうで怖かったもる」
モルは鞄の縁に前足をかけた。
「白い翼が、見えるもる。女神さまの。でも顔が見えないもる。手だけ見えるもる。何かを、モルに渡してる手が」
声が震えていた。
リリアはモルをそっと両手で包んだ。モルの小さな体が、震えているのが分かった。
「思い出さなくていいです、今は」
「でも、関係あるもる。モルは、関係あるもる」
「関係あっても、今すぐ全部思い出さなくていい」
「怖いもる」
「怖いですね」
リリアはそのままモルを抱いていた。エルゼは革の記録を読み続けていた。
しばらくして、エルゼが言った。
「女神の心臓の欠片がモルの中にあるなら、それが何を意味するか、あとで考える必要がある」
「はい」
「今は記録を持って出よう。この施設には、他にも何かあるかもしれないが、長居は危ない」
リリアはうなずいた。モルをそっと鞄に戻した。モルは鞄の中で小さくなっていた。
記録をまとめて持ち出し、扉を閉め、石段を上り、床板を戻した。
外へ出ると、昼過ぎの灰色の光が差していた。林の中は静かだった。
エルゼが扉を施錠した。金具をしまった。それから地面を見た。
「エルゼ」
「何だ」
「九つのとき、一人でここから逃げたんですか」
「ノアの祖父が鍵を開けたあと、逃げた」
「それから」
「それから、ずっと一人で逃げてる」
短く言った。もう終わり、という言い方だった。
でもリリアは続けた。
「一人じゃなくなりました、今は」
エルゼがリリアを見た。それから、前を向いた。
「行くぞ」
歩き出した。リリアも歩いた。二人の足音が、林の中に重なった。どちらがどちらの足音か、少し分からなくなるくらいに。
鞄の中で、モルが囁くような声で言った。
「モル、思い出したくない。でも、忘れたままもいやだもる」
リリアは鞄をそっと抱えた。
エルゼは立ち止まらなかった。でも、歩く速さが、少しだけ遅くなった。
リリアたちは林を抜けた。空は灰色で、灰が降っている。どこまで行っても変わらない空だった。
それでも、歩いていける気がした。




