第十一章 モルは思い出したくない
リリアたちは施設から離れた林の中で夜を明かしていた。記録を持ち帰ったことで、エルゼは次の行き先を考えていた。リリアは火の番をしながら、持ち出した記録の写しを頭に入れようとしていた。モルはリリアの鞄の上で丸くなって眠っていた。少なくとも、眠っているように見えた。
いつの間にか、リリアも眠っていた。
夜明け前、リリアは目を覚ました。
焚き火の火は、ほとんど消えていた。薄い灰色の煙だけが、地面を這うように流れている。
肩のあたりが、いつもより軽かった。
リリアは手を伸ばして、そこにいるはずの小さな体を探した。
けれど、指先は空を掴んだ。
「……モル?」
モルがいなかった。最初は、鞄の中に潜り込んだのだと思った。鞄を開けた。いなかった。周囲を見た。エルゼは木の幹にもたれて目を閉じている。林の中は暗い。灰が降る音だけがしている。
「モル」
小声で呼んだ。
返事がなかった。
リリアは立ち上がった。火から離れると、すぐに暗くなった。木の間を見た。影がある。どれも動いていない。
「モル」
もう少し大きな声で呼んだ。
「何だ」
エルゼが目を開けた。
「モルがいません」
エルゼはすぐに立ち上がった。
「いつから」
「分かりません。気づいたら」
「どこへ行った」
「分かりません。呼んでも返事がなくて」
エルゼは周囲を見渡した。暗い林の中を、素早く確認した。
「方角は分かるか」
「影渡りを使えば、どこへでも……でも、お腹が空いていると失敗すると言っていました。夜中に何も食べていないなら」
「失敗するな」
エルゼが先に歩き出した。
林の中を、二人で探した。
名前を呼びながら歩いた。リリアが前を、エルゼが少し離れた場所を、並行して進んだ。木の根に足を取られないように気をつけながら、暗い林の中を歩いた。
「モル」
リリアは呼び続けた。
「モル、どこにいますか」
返事がなかった。
五分ほど歩いたところで、エルゼが立ち止まった。
「こっちだ」
少し離れた木の根元を指した。リリアが駆け寄った。
モルが木の根の陰に丸くなっていた。羽を体に巻きつけて、頭を前足で覆っている。丸まり方が、普段の眠っているときとは違った。震えていた。
「モル」
リリアはしゃがんだ。
「ここにいたんですか」
モルが顔を上げた。赤い目が、濡れていた。
「リリア」
「ここにいましたね。探しました」
「ごめんもる」
モルの声は小さかった。
「眠れなくて、外に出たもる。そしたら、また白いものが見えて、怖くなったもる」
「白いもの」
「翼もる。あの施設から出てから、ずっと見えるもる。目を閉じると見えるもる。女神さまの翼が、黒く腐っていくもる」
リリアはモルを両手で包んだ。体が震えているのが分かった。
「走って逃げようとしたら、影渡りが失敗したもる。お腹が空いてたから。それで、ここで動けなくなったもる」
「怪我はありませんか」
「ないもる。ただ、怖いもる」
エルゼがしゃがんで、モルを見た。
「何が見えた」
「翼もる。白い翼が、だんだん黒くなっていくもる。それから、灰が降るもる。空から、どんどん降ってくるもる。止まらないもる」
「それだけか」
「……声もするもる」
モルは羽を縮めた。
「女神さまの声もる。何を言ってるか分からないもる。でも、悲しい声もる。泣いてるみたいもる」
リリアたちは暗い林の中で、しばらく動かなかった。
リリアはモルを抱いたまま、その震えが収まるのを待った。エルゼは立ち上がり、周囲を確認した。それから二人の隣に座った。
「モル」
エルゼが言った。珍しく、柔らかい声だった。
「なんもる」
「無理に思い出さなくていい」
「でも、関係あるもる。モルは、何か関係があるもる」
「関係があっても、今夜じゃなくていい」
モルはエルゼを見た。
「エルゼは、怖くないもる? 知らない方がよかったこととか、思い出したくないこととか」
エルゼは少しの間、黙った。
「ある」
「怖くないもる?」
「怖い」
「でもエルゼは逃げないもる」
「逃げられないだけだ」
モルはまたリリアの手の中に顔を埋めた。
「モルは逃げたもる」
「それでもここにいる。逃げても、ここにいる。それでいい」
エルゼは言った。モルはしばらく動かなかった。
やがて、震えが少し収まった。
夜が明け始めた頃、二人と一匹は焚き火のそばに戻った。
火は消えていた。黒くなった枝の間に、わずかな熱だけが残っている。エルゼはその奥を崩して、細い枝を足した。しばらくして、小さな火が戻った。
リリアは鞄から干し果物を出して、モルに渡した。モルは食べた。少しだけ食べて、また止まった。
「モル、もう少し食べますか」
「あとでもる」
食欲がないのは、モルにとって珍しいことだった。リリアは果物を引っ込めずに、そばに置いておいた。
エルゼは火を見ながら、昨夜施設から持ち出した記録を広げていた。革に書かれた使い魔についての記録を、もう一度読んでいた。
「女神の心臓の欠片というのが、どういうものか、まだはっきり分からない」
エルゼが言った。独り言のようだったが、リリアに向けた言葉だとも分かった。
「記録には、女神が死ぬ直前に、自分の一部を使い魔に託したと書いてあります」
「心臓の欠片、という表現が比喩なのか、文字通りなのか」
「分かりません。ただ、モルが女神の残滓がある場所に近づくと体が光ると、施設の記録にも書いてありました」
「モルが光るのを見たことがあるか」
リリアは考えた。
「ないと思います。少なくとも、わたしが気づいた範囲では」
「まだそういう場所に近づいていないということか」
「あるいは、モルの記憶が封じられているから、力が眠っているのかもしれません」
エルゼは記録を閉じた。モルを見た。モルは干し果物を一粒だけ食べて、また丸くなっていた。
「モル」
「なんもる」
「嫌なら答えなくていい。一つだけ聞く」
「なんもる」
「女神の翼が見えると言っていた。それは怖い夢か、それとも記憶に近いか」
モルは少しの間、前足で顔を覆った。
「記憶、に近いもる。夢みたいだけど、夢じゃないもる。確かにあったこと、という感じがするもる。ただ、靄がかかってて、はっきり見えないもる」
「無理に見ようとしなくていい」
「でも、モルは」
モルが顔を上げた。
「女神さまが、悲しんでるもる。今も、どこかで悲しんでるもる。それだけは分かるもる。記憶じゃなくて、感じるもる」
リリアは火を見た。女神が死んで、十年が経った。その死骸が聖都の地下に封じられていると、礼拝堂の記録は示唆していた。死骸が悲しむのかどうか、リリアには分からない。けれどモルが感じているのなら、何かがある。
「モルは、女神さまのことが好きですか」
リリアが聞いた。
モルはしばらく考えた。
「好きもる。たぶん。記憶がないのに、なぜか好きもる。大事にしてもらってた気がするもる」
「なら、その記憶が戻っても、怖くないかもしれません」
「怖いもる。でも」
モルは干し果物をもう一粒食べた。
「でも、忘れたままは、もっと嫌もる。女神さまが何を頼んだのか、分からないままは嫌もる」
「思い出したくない、でも忘れたままは嫌」
「そうもる」
「それでいい」
「どうしてもる」
「どっちかに決めなくていい。思い出したくて、忘れたくもなくて、それでいい。その両方が本当のことだ」
モルはエルゼを見た。それから、ちょこちょこと歩いてエルゼの膝の上に乗った。
「エルゼは、怖い顔だけど、パンをくれるからいいやつもる」
「パンは渡してない」
「いつかくれそうもる」
「根拠がない」
「感じるもる」
エルゼは追い払わなかった。モルは膝の上で丸くなった。
日が完全に昇ってから、リリアは灰の残滓に気づいた。
焚き火から少し離れたところで、黒い靄が地面を這っていた。施設の近くだからか、この辺りは灰の濃度が高い。その靄が、少しずつ焚き火の方へ向かっていた。
「エルゼ、あれは」
「見てる」
エルゼが立ち上がった。モルをそっと地面に降ろした。
靄が集まり始めていた。人の形に近い何かを作ろうとしている。灰の残滓が集まって、形を持ちかけている。完全な異形ではない。かつて人間だったものの、残滓だ。
「浄化するべきですか」
「待て」
エルゼが左腕を出した。靄が向かってくる。エルゼの腕の紋様が滲んだ。
リリアは手袋を握った。使うべきか判断できなかった。セラフィナの言葉が頭をよぎった。あんたの祈りも、記憶を削ると。
でも、目の前の靄の中に、記憶が残っているとしたら。
「エルゼ、残滓の中に記憶があるかもしれません」
「分かってる」
「浄化したら消えてしまう」
「だから待てと言った」
エルゼの靄が広がった。残滓の靄に触れた。黒と黒がぶつかった。エルゼが苦しそうに息を吸った。
「何が」
「かつての人間の苦しみが残ってる。名前は分からない。でも、痛かったことだけは残ってる」
「引き受けるんですか」
「引き受けるほど残ってない。このくらいなら、散らせる」
エルゼの靄が押し広げた。残滓が薄くなった。形が崩れた。靄が散った。
地面に何かが落ちた。
小さな、光るものだった。リリアが拾った。手のひらに乗るくらいの、灰色の石のような形をしていた。淡く、白に近い色で光っていた。
「これは」
「残滓の核だ。灰になりきれなかった、一番濃い部分。記憶の欠片が固まったものかもしれない」
その光が、かつて誰かの記憶だったとしたら。名前も、顔も、残っていないが、ここに確かにある何かが。
リリアは石を握った。
その瞬間、モルが声を上げた。
「モル、見えるもる」
振り返った。モルが地面に立って、石を見ていた。赤い目が、普段と違う色に光っていた。白に近い、淡い色。
「モル、何が見えますか」
「その石、知ってるもる」
モルが震えていた。
「見たことある、と思うもる。女神さまが、そういうものを集めてたもる。灰になってしまった人の、残滓もる」
「女神が集めていた」
「救えなかった人の残滓を、集めてたもる」
モルの目の光が、強くなった。そして弱くなった。また強くなった。
「モル」
「モル、少し思い出したもる」
モルはその場に座り込んだ。足がふらついていた。リリアが支えようとすると、モルは首を振った。
「大丈夫もる。ただ、びっくりしたもる」
「何を思い出しましたか」
「女神さまが言ってたもる」
モルは石を見たまま言った。
「忘れないで、って言ってたもる。救えなかった人たちを、忘れないで、って。だからモルに、集めて守るように言ったもる」
リリアは石を見た。
女神が集めていた。救えなかった人の残滓を。それをモルに守るよう託した。その女神は今、死んで、聖都の地下に封じられている。
「女神さまは、誰かを救いたかったんですね」
リリアが呟くと、
「そうもる」
モルは落ち着いた口調で答えた。
「救いたくて、救いたくて、でも全部は救えなくて、悲しかったもる。その悲しさが、灰になったのかもしれないもる」
リリアたちはしばらく、その言葉の意味の中にいた。
灰の災厄が、女神の悲しみから来たとするなら。魔女の呪いではなく、救えなかった者への悲しみが灰になったとするなら。
教会はそれを知っていた。知っていて、隠した。
「行きましょう」
リリアが言った。
「イリスという名前が記録にありました。異端学者。聖都の地下にいると。その人なら、もっと詳しいことを知っているかもしれません」
「聖都に近づくのは危険だ」
「それでも行かなければならない気がします」
エルゼはリリアを見た。それから、モルを見た。モルは石を見ていた。
「モル、行けるか」
「行けるもる」
「無理するな」
「エルゼこそもる」
エルゼは何も言わなかった。リリアは石を鞄の中に入れた。
モルが鞄に乗った。いつものように、少し偉そうに。ただし、いつもより少し大人しかった。
「次の村では、甘いパンがあるといいもる」
小さな声で言った。
リリアは笑った。エルゼは笑わなかったが、歩き出した。その歩き方が、少しだけ急いでいた。
リリアたちは林を抜けた。空は灰色で、灰が降っている。
それでも、向かうべき場所が、今はある。




