第十二章 異端学者は笑って真実を語る
聖都へ向かう前に、寄る場所があった。
エルゼが言い出したのではない。記録の中に、地名が一つあった。聖都の近郊、地下街と呼ばれる区画。かつて教会から追われた者たちが集まる場所として、施設の記録の端に書かれていた。イリスという名前の隣に、その地名があった。
「地下街というのは」
リリアが歩きながら聞くと、エルゼが答えた。
「聖都は地上と地下に分かれてる。地上は白い建物と礼拝堂が並んで、きれいな町だ。地下は、地上に居場所のない者たちが暮らしてる。教会は黙認してる。見て見ぬふりをする方が、都合がいいから」
「エルゼは行ったことがありますか」
「一度だけ。情報を買いに行った」
「危ない場所ですか」
「慣れている人間には、そうでもない」
「わたしは慣れていません」
「見て分かる。目立つな。聖女服を何とかしろ」
リリアは自分の服を見た。裾は切れ、袖は汚れ、銀糸の刺繍は半分消えている。それでも白い。白は目立つ。
「外套を貸してもらえますか」
「あたしの外套は黒い。それも目立つ」
「灰色の布はありますか」
「ない」
「では」
「次の村で何か買う。それまでは俯いて歩け」
モルが肩の上で言った。
「モルが隠れるから大丈夫もる」
「モルは小さすぎます」
「モルはいい目くらましもる」
「どういう意味ですか」
「可愛いから、みんなモルを見るもる」
「うるさい」
「図星もる」
リリアは、思わず少し笑った。
次の村で、エルゼが灰色の外套を一枚買った。
村の端にある古着を扱う店だった。店主は二人を見て、特に何も言わなかった。この辺りでは、追われている人間が通ることも珍しくないのかもしれなかった。
リリアが外套を羽織ると、白い聖女服がほとんど隠れた。
「どうですか」
「まあいい」
エルゼはリリアの頭を見た。
「髪が目立つ」
「白銀は仕方ありません」
「頭巾を被れ」
また店に入って、くたびれた布の頭巾を買った。リリアが被ると、白銀の髪が隠れた。
「これで大丈夫ですか」
「百点ではないが、七十点くらいにはなった」
「百点を目指したい気持ちもあります」
「贅沢を言うな」
モルが頭巾の端をくわえて引っ張った。
「モルにも何か欲しいもる」
「何が欲しいんですか」
「甘いものもる」
「甘いものは外套ではありません」
「モルは食べ物が欲しいもる」
エルゼが黙って干し肉を一切れ渡した。モルが喜んで食べた。リリアはその様子を見て、エルゼのことを少し、いい人だと思った。声には出さなかった。
聖都の近郊に着いたのは、三日後の夕刻だった。
聖都は遠くからでも見えた。白い建物が丘の上に並んで、夕陽の中で光っていた。どれだけ灰が降っても、聖都だけはきれいに見えた。
地下街への入り口は、聖都の外壁の裏にあった。石の壁に、人一人が通れるくらいの扉がある。鍵はかかっていない。エルゼが押すと、軋みながら開いた。
石段を降りると、地下に空間が広がっていた。
思ったより広かった。天井が低く、蝋燭と油灯が点在していた。その明かりの下で、人々が暮らしていた。小さな店が並び、子どもが走り、老人が咳をしながら座っている。教会から追われた者、灰蝕症から逃げてきた者、行き場のなくなった者たちが、ここに集まっているのだと分かった。
「どうやってイリスを探すんですか」
リリアが小声で聞いた。
「聞いて回る」
「それだけですか」
「他に方法があるなら言え」
なかった。
エルゼが近くにいた老人に声をかけた。リリアは少し離れて待った。モルは頭巾の陰から顔だけ出して、周囲の匂いを嗅いでいた。
二回聞いて、三回目で答えが返ってきた。
エルゼが戻ってきた。
「奥の区画にいるらしい。本ばかり積んでる場所、と言われた」
「本ばかり」
「異端学者だからな」
奥の区画は、他より暗かった。
扉が一つあった。ノックすると、中から声がした。
「誰?」
女の声だった。若い。けれど落ち着いている。
「エルゼ・ヴァルトだ。グリムベルの施設の記録を持っている」
間があった。
扉が開いた。部屋の中は、本と紙と計測器具で埋まっていた。棚に本が積まれ、棚に入りきらない本が床に積まれ、床に積まれた本の間に人が一人座っていた。
年齢はリリアたちより少し上だろうか。二十歳前後に見えた。茶色の髪を無造作に結んで、眼鏡をかけていた。外套は灰色で、あちこちにインクのしみがついている。
「教会の施設の記録を持ってるって本当?」
その人が言った。エルゼを見て、リリアを見て、モルを見た。モルで少し目が止まった。
「その生き物は何」
「モルもる」
「喋った」
「喋るもる」
その人は眼鏡を押し上げた。
「入って。立ち話でできる話じゃなさそう」
その人がイリス・ヴェルンだと分かったのは、中に入ってからだった。
本の間に座って、エルゼが持ってきた記録を受け取ると、すぐに読み始めた。読む速さが速かった。目が紙の上を滑るように動いた。
「これは本物ね。施設の記録は、私も断片的にしか持っていなかった。こんなにまとまったものは初めて見る」
「全部読んだのか」
「斜め読みしただけ。でも本物だと分かる」
イリスは記録を膝に置いた。リリアを見た。
「あなたが聖女候補?」
「元候補です」
「リリア・クレスト、で合ってる?」
リリアは驚いた。
「なぜ知っているんですか?」
「教会が手配書を出してる。エルゼ・ヴァルトと一緒に逃亡中、とある。この地下でも噂になってたよ。聖女候補が魔女と逃げたって」
「噂に」
「なってる。大丈夫、ここでは誰も教会に売らない。全員が教会に恨みを持ってるか、少なくとも好意を持っていないから」
イリスは眼鏡を外して、レンズを外套の裾で拭いた。
「あなたの祈りの話も聞いてる。灰を浄化できるが、記憶を削る。そうでしょ」
「そうです」
「一言で言うと、それは治療じゃない。切除だね」
リリアは息を止めた。
切除。
「傷ついた?」
「少し」
「ごめん、でも事実だから言った」
イリスは眼鏡をかけ直した。
「灰の呪いは、人間の感情と深く結びついている。悲しみ、恐怖、後悔、そういう感情が灰の侵食を助ける。だから浄化するとき、感情ごと取り除かれる。あなたの祈りは、その部分を切り取ることで灰を除去している」
「それを、教会は知っていて」
「知っていて、代償と呼んでいる。代償という言葉は便利だから。必要なことだと聞かせれば、人は受け入れやすい」
リリアは膝の上で手を握った。知っていた。知っていたが、こうして外の人間にはっきり言われると、また違う重さがあった。
「あなたがずっと感じていた違和感は、正しかった」
イリスが続けた。声は柔らかくなかったが、否定もしなかった。
「感じていたのに、教会の言葉で蓋をしてきた。それも分かる。でも今は、その蓋を外せる場所にいる」
「はい」
「傷つくことが分かっていても、聞く?」
「聞きます」
イリスは少しの間、リリアを見た。それから、うなずいた。
イリスが話し始めたのは、女神のことだった。
十年前、女神は死んだ。死因は、祈られすぎたことだ、とイリスは言った。
「女神は人々の祈りを受け取る存在だった。祈りを受け取って、力に変えて、守護として返す。その循環が、女神を生かしていた」
「祈られすぎる、というのは」
「祈りが多すぎれば、受け取れなくなる。器が溢れる。灰の災厄が始まった頃、人々は恐怖から祈りすぎた。助けてくれ、救ってくれ、守ってくれ。女神はその全部を受け取ろうとした。結果、自我を失った」
「自我を」
「自分が誰だか分からなくなった。人々の願いだけが残って、女神自身が消えた。そして死骸から、灰が溢れ出した」
リリアは黙って聞いていた。
女神が、人々の願いを受け入れ続けた結果、消えた。自分のことが思い浮かんだ。救わなければ、正しくなければ、誰かの期待に応えなければ。そう思い続けてきた自分が。
「教会はそれを知っていた」
「最初からは知らなかった。途中で知った。知って、隠した。女神が死んだと認めれば、教会の権威が失われる。だから魔女のせいにした」
「灰の呪いの原因を」
「魔女が女神を傷つけたという話を作った。魔女狩りを始めた。灰の原因を外に向けることで、教会の内側を守った」
エルゼが冷静に言った。
「グリムベルも、そのためだったか」
「そう。灰の紋様を持つ人間は、魔女の証拠として狩られた。実際には、灰の呪いに強く反応する体質の人間というだけなのに」
エルゼは答えなかった。
「女神さまは、悲しかったもる。救えなかった人の残滓を集めていたもる」
イリスがモルを見た。
「その生き物、本当に何なの」
「施設の記録に書いてありました。女神の使い魔だと」
イリスが立ち上がった。本の間を掻き分けて、棚の奥から一冊を引き出した。ぼろぼろの表紙の本だった。ページを繰って、一か所で止めた。
「ここに書いてある。女神の使い魔は、女神の最後の心臓の欠片を守る番人として、記憶を封じられた。見た目は黒いウサギとコウモリの中間で、赤い目を持つと」
「それが、モルです」
「そういうことね」
イリスはモルをじっと見た。モルは見られて、少し羽を縮めた。
「怖い顔で見ないでほしいもる」
「怖い顔はしてないつもりだけど」
「目が研究者の目もる」
「研究者だから仕方ない」
イリスは本を閉じた。リリアを見た。
「本題に入ります」
声が変わった。今まで説明していた声ではなく、もっと直接的な声になった。
「女神の死骸は、聖都の地下に封じられている。教会はその死骸を利用して、王国全体に浄化の網を張ろうとしている。女神の残骸に人間を接続して、大規模な浄化装置を作る計画だ」
「その器に」
リリアは言いかけた。
「あなたが選ばれている」
イリスがはっきりと言った。
「リリア・クレスト。次代の聖女候補として育てられたのは、そのためだ。浄化の力を持ち、教会に従順で、消えても誰も追及しない立場の人間。教会はそれを、長い時間をかけて用意してきた」
部屋が静かになった。リリアは手が冷えるのを感じた。知っていた。うすうす感じていた。でも、こうして言葉にされると、また違った。
「儀式は、いつですか」
「三日後。聖都の中央礼拝堂で行われる予定だ」
「三日」
「あなたが逃亡中だから、少し遅れているとも言える。でも、代わりの器を用意するより、あなたを連れ戻す方が早いと教会は判断している」
「だから、セラフィナが追ってきていた」
「そういうこと」
エルゼが言った。
「どうすれば止められる」
「女神の死骸を、儀式の前に無力化することができれば止められる」
「方法は」
「ある」
イリスは眼鏡を外した。目を細めた。
「ただし、かなり危険で、成功するかどうか分からない方法が」
「聞く」
エルゼが言った。リリアもうなずいた。モルが羽を広げた。
イリスはリリアたちを見て、少し間を置いた。それから、眼鏡をかけ直した。
「まず、聖都に潜入する必要がある。そこから先の話は、中に入ってからでないとできない。情報が古くなる可能性があるから」
「潜入の方法は」
「私が知っている。一緒に行く」
「危険だと分かって」
「私は研究者だ」
イリスはあっさりと言った。
「女神の死骸について、一番詳しいのは私だと思ってる。現場にいなければ意味がない」
エルゼがリリアを見た。リリアはうなずいた。
「三日しかありません」
「だから急ぐ」
イリスが立ち上がった。本を一冊抱えて、外套を引っ張り出した。
「出発は明朝にしたい。今夜は食事をして、休んで、準備をする」
「食事。甘いものはあるもる?」
モルの声が変わった。
「ある」
「イリスはいいやつもる」
「ありがとう、小さい使い魔」
「モルというもる」
「モル」
イリスが繰り返した。それから、微かに笑った。研究者の顔ではない、年相応の笑い方だった。
リリアはその笑い顔を見て、ここに来て正しかったと思った。
三日しかない。でも、向かう方向は、今はっきりしている。




