第十三章 聖都潜入
聖都は、白かった。
夜明け前に地下街を出て、イリスの案内で外壁の裏道を進んだ。外壁には表と裏がある。表は巡礼者が通る正門で、白い柱と彫刻が並んでいる。裏は、物資の搬入に使う通用路だ。イリスは通用路の一つを知っていた。見張りの交代時間に空白が生じる場所で、そこを抜けた。
中に入った瞬間、リリアは足が止まりそうになった。
建物が白い。石畳が白い。礼拝堂の尖塔が白い。朝の光を受けて、すべてが眩しかった。灰が降っているはずなのに、聖都の中には積もっていなかった。どこかで払い続けているのか、それとも別の理由があるのか。
「きれいですね」
リリアが言うと、イリスが表情を変えずに答えた。
「きれいに見えるだけ」
「どういう意味ですか」
「あとで分かる」
エルゼは何も言わなかった。ただ、白い建物を見ながら、少し眉を寄せていた。
モルはリリアの頭巾の陰から顔だけ出して、周囲の匂いを嗅いでいた。
「灰の匂いがするもる」
「外と同じですか」
「違うもる。ここは、違う種類の匂いもる。古い灰もる。ずっと前からある灰もる」
「地下から来ている。女神の死骸が地下にある。その匂いが漏れてる」
イリスが案内したのは、中央礼拝堂から離れた区画だった。
市場に近い場所で、人の往来が多い。顔が割れていても、人混みの中では目立ちにくい。イリスはその中の一軒、布地を扱う商店の裏口から入り、地下へ降りた。商店の主人が顔見知りらしく、何も聞かずに通した。
「ここを拠点にする」
地下は物置になっていた。棚に反物が積まれている。その奥に、小さなスペースがあった。
「荷物を置いて、まず状況を確認する。私が外を見てくる」
「一人で大丈夫ですか」
「私の顔は手配書に出ていない。大丈夫」
イリスが出ていった。
リリアたちは物置の中で待った。
エルゼが壁に背をもたせかけた。リリアは積まれた反物の端に座った。モルが鞄から出て、棚の上に登った。
「高いもる」
「降りてください。落ちます」
「落ちないもる」
「落ちますよ」
落ちた。リリアが受け止めた。モルが羽をパタつかせた。
「モルは無事もる」
「知っています」
「落ちると思ってなかったもる」
「言ったでしょう」
エルゼが小さく息をついた。笑ったわけではないが、それに近い何かだった。
リリアはモルを膝に乗せながら、白い建物のことを考えた。灰が積もっていなかった。きれいに見えるだけ、とイリスは言った。その意味が、まだ分からなかった。
イリスが戻ってきたのは、半刻ほど後だった。
顔が、少し硬かった。
「見てきた」
「何かありましたか」
「ある」
イリスは座った。外套の中から紙を出した。走り書きのメモだった。
「儀式の準備が、予定より早く進んでいる。三日と言ったが、もしかすると二日になるかもしれない」
「なぜ早まるんですか」
「リリアの逃亡が長引いているから、代替手段を検討し始めているらしい。でも代替より本人を使う方が精度が高いと判断して、捜索を強化している。見つけ次第、儀式を行う予定に変わった」
「つまり、わたしが見つかれば即座に」
「そういうこと。だから慎重に動く必要がある」
エルゼが尋ねた。
「儀式を止めるには、地下に降りる必要があるか」
「降りる必要がある。ただし地下への入り口は、中央礼拝堂の中にしかない。そこまで近づくには」
「人が多い」
「ガルドの騎士団が礼拝堂の周囲を固めている。通常の参拝者は入れる。ただし、私たちは顔が割れている」
リリアは考えた。
「礼拝者として入れませんか」
「頭巾と外套で顔を隠しても、中に入れば騎士が確認する。聖女候補の白銀の髪は、教会の中では特に目立つ」
「では」
「別の方法がある」
イリスはメモを折り畳んだ。
「礼拝堂には、地上からの入り口の他に、地下からつながる旧水路がある。百年以上前に使われていた排水路で、今は閉鎖されているが、私は入口の場所を知っている」
「その入口は」
「この建物の地下から、さらに降りた先にある」
全員が、足元を見た。
「今夜、入口を確認する。明日の夜、地下に潜る。儀式が早まる前に動く」
夜になった。イリスが入口の確認に出ると言い、エルゼもついていくことになった。リリアは物置で待つことになった。
「一人で大丈夫か」
出がけにそう聞かれて、リリアは少しだけ瞬きした。
「大丈夫です」
「モルがいる」
「いるもる」
「ならいい」
エルゼとイリスが出ていった。
物置は静かだった。
リリアはモルと二人になった。正確には二人ではないが、それに近い静けさだった。
「リリア、怖いもる?」
「少し」
「どんな怖いもる」
「自分が器にされることが怖いというより……」
リリアは言葉を探した。
「エルゼが無理をすることが、怖いです」
モルは少し考えた。
「モルも怖いもる。エルゼは、使いすぎるもる」
「そうですね」
「でも、止めても聞かないもる」
「聞かないですね」
「だから、一緒にいるしかないもる」
リリアはモルを見た。小さな赤い目が、穏やかにこちらを見ていた。
「モルは、女神さまのことを思い出してきていますか」
「少しずつもる」
モルは前足で頭を押さえた。
「怖いけど、少しずつもる。女神さまが、優しかったことは思い出せるもる。翼が白くて、声が穏やかで、いつもモルの頭を撫でてくれてたもる」
「会いたいですか」
「会いたいもる」
少し間があった。
「でも、会えないもる。女神さまは、もういないもる。死骸だけが残ってるもる」
「……そうですね」
「だから」
モルは羽を広げた。
「モルは、女神さまの代わりに何かしたいもる。頼まれてたことを、ちゃんとしたいもる。記憶が全部戻ったら、分かると思うもる」
リリアはモルの頭を撫でた。モルが目を細めた。
エルゼとイリスが戻ったのは、深夜近かった。
二人とも、顔が真剣だった。特に、エルゼが。
「入口は確認できた。ただし、問題がある」
イリスが言った。
「何ですか」
「地下の旧水路に、灰蝕症の進行者がいる。何人かが、地下に流れ着いて、そこで暮らしている。進行が進んでいて、半分正気を失っている人もいる」
リリアは立ち上がった。
「助けないといけません」
「今夜はできない。今夜は確認だけだった」
「明日」
「明日、地下に降りるとき、その人たちの前を通ることになる。どうするかは、その場で判断する必要がある」
エルゼが言った。
「浄化は使うな」
「でも――」
「記憶を削る。今の状態では、それは困る。その人たちに残っている記憶が、女神の死骸に関する何かを持っているかもしれない」
「残っているとは限らない」
「残っていないとも限らない」
リリアは頷いた。
「分かりました。でも、放置もできません」
「その場で考える」
それが今夜の結論だった。
翌日は、三人と一匹で過ごした。イリスが本を読んだ。エルゼが地図を書いた。リリアは施設の記録を読み直した。モルが食べ物を要求して、イリスが干し肉を渡した。
昼過ぎに、物置の上、商店の方から声がした。
急いで静かにした。商店主が客と話している声だった。やがて遠ざかった。
夕方になった。
「そろそろ準備をする」
イリスがそう言って、各自、荷物を確認した。リリアは手袋をはめた。エルゼは包帯を確認した。イリスは小さな計測器具をいくつか外套に入れた。
「地下に降りたら、私の指示に従って。旧水路は複雑だから、迷ったら戻れなくなる」
「分かりました」
「モルは匂いで道を覚えられる?」
「できるもる」
「なら先を歩いてもらうことがあるかもしれない」
「モルは役に立つもる」
「知ってる」
イリスが先に地下へ降りた。リリアたちが続いた。
旧水路の入口は、物置の床の下に隠れていた。石板を三枚ずらすと降り口が現れた。石段ではなく鉄の梯子だった。錆びているが、体重をかけても大丈夫だとイリスが言った。
一人ずつ降りた。水路は、思ったより広かった。大人が二人並んで歩けるくらいの幅がある。床は石で、昔は水が流れていた跡が残っている。今は乾いている。天井が低く、背の高い人間は頭を下げる必要があった。エルゼが少し屈んだ。
イリスが先頭を歩いた。蝋燭を持っている。
モルが肩の上で匂いを嗅いだ。
「まっすぐもる。曲がり角まで、まっすぐもる」
「ありがとう」
水路の壁に、文字が刻まれていた。古い、読めない文字だった。リリアが触れようとすると、エルゼが腕を掴んだ。
「触れるな。灰の紋様が混じってる」
見ると、文字の周囲に薄く、黒い模様が走っていた。
さらに進むと、気配がした。
人の気配だった。イリスが蝋燭を覆った。暗くなった。声を出さないように、手で示した。水路の横に、窪みがあった。そこに何人かがいた。灰の呪いに侵された人々だった。眠っているのか、意識がないのか、横たわっていた。首筋と手に、黒い紋様が走っている。進行が進んでいる。
リリアは手袋をはめた手を、握った。
浄化したい。でも、記憶を削る。でも、このまま放置すれば、もっと進行が進む。
エルゼがリリアの隣に来た。左腕を出した。包帯の上から、靄が薄く滲んだ。窪みの方へ向けた。
眠っている人々が、少しだけ、安らかな顔になった。
「苦しみだけ、少し引き受けた」
エルゼが小声で言った。
「進行は止まらない。でも、今夜は楽に眠れる」
「それで」
「それが今できる限りだ」
リリアは窪みの人々を見た。それから、前を向いた。
「地下へ向かいましょう」
さらに進んで、水路が広くなった。
天井が高くなり、広間のような空間が現れた。中央に、古い石の扉があった。重い。鉄の金具がついている。
「ここから先が」
イリスが言いかけた瞬間、後ろから声がした。
「動くな」
振り返った。
白い鎧が、水路の向こうに見えた。蝋燭の光を反射して、光っていた。
ガルドだった。
右手に剣を持っていた。左手に、蝋燭を持っていた。傷のある右目が、まっすぐにリリアを見ていた。
「聖女候補リリア」
硬い声だった。いつもと同じ、任務の声だった。
「君を保護する。今度こそ、逃がさない」
剣が、前に出た。
リリアは後退しなかった。エルゼが前に出た。




