第十四章 騎士は正義を疑わない
ガルドの剣が、エルゼに向いた。
水路の広間は、狭かった。逃げ場が少ない。後ろには石の扉。左右は壁。来た方向にはガルドがいる。蝋燭の光が、白い鎧と剣の刃を照らしていた。
「魔女」
ガルドが言った。
「退け。リリア様に用がある」
「リリアには用がない」
エルゼが答えた。
「帰れ」
「命令する立場ではないだろう」
「あんたも同じだ」
ガルドの目が細くなった。感情は出ていない。ただ、任務の重さだけが、その立ち方に出ていた。
「リリア様」
ガルドがリリアを見た。
「君は騙されている。魔女は人を惑わす。一緒にいれば、君の力が利用される」
「利用されているとしたら」
リリアは問いかけた。
「それはどちらの話をしているんですか」
ガルドが少し止まった。
「教会はわたしを器にしようとしています。それを知っていますか、隊長」
「……救済のための儀式だ」
「わたしの心が消えても、救済と呼びますか」
ガルドは答えなかった。
その沈黙が、答えだとリリアには分かった。知っていた。知っていて、任務として来ている。
「隊長」
「君を連れ戻すことが、今の任務だ」
「任務ですか」
「そうだ」
「あなたは、それでいいんですか」
ガルドは剣を構えた。
「関係ない」
エルゼが左腕を出した。靄が広がった。
ガルドの動きは速かった。靄が伸びるより早く、半歩踏み込んで剣を振った。靄が霧散した。エルゼが後退した。ガルドが追った。
剣と靄が、狭い水路の中でぶつかった。
ガルドの剣は聖銀製だった。灰の呪いに対して有効な金属で、エルゼの靄を断ち切ることができた。靄を盾にしても、斬られれば意味をなさない。
エルゼは靄ではなく、体で避けることに切り替えた。壁を背にして、剣の軌道を読みながら動いた。
リリアはイリスの横で、状況を見た。
「イリス、何かできますか」
「私は戦えない。計測器具しか持っていない」
「モルは」
「影渡りで後ろへ回れるもる。でも、何もできないもる」
「後ろへ回って、出口を確認してください」
「分かったもる」
モルが影に溶けた。
リリアは手袋をはめた。浄化で何かできるか。できない。浄化はガルドには意味がない。ガルドは灰蝕症ではない。
では何が。
水路の壁を見た。文字が刻まれている。灰の紋様が混じっている場所。触れるな、とエルゼが言った。
でも。
「イリス」
「何?」
「壁の紋様は、灰蝕症と同じものですか」
「正確には違う。古い灰が石に染み込んだもの。直接触れなければ危険ではないけど、何かしようとしているの?」
「少し考えています」
エルゼとガルドの戦いを見た。エルゼは避けることに精一杯だった。攻撃に転じる余裕がない。ガルドの剣技は確かで、無駄がない。
広間の奥から、音がした。
水路の別の方向から、人の声がした。ガルドの部下だろうか。増援が来ている。
「エルゼ」
リリアが呼んだ。
「何だ」
「少しだけ、場所を変えてください」
「どこへ」
「壁際です。わたしの横」
エルゼがガルドの剣を一つかわして、壁際へ動いた。ガルドが追う。
リリアはその瞬間に、エルゼの横に出た。
ガルドが足を止めた。リリアが目の前にいる。剣を向けることを、一瞬躊躇した。
その一瞬だった。
リリアは手袋をはめた手で、壁の紋様に触れた。直接ではない。手袋を通して。
祈りを使った。
浄化の力ではない。灰の呪いを取り除こうとするのではなく、壁の中に染み込んだ灰の残滓に、光を送り込んだ。エルゼが灰の残滓を引き出すように、リリアは逆に、光を中へ押し込んだ。
壁が光った。白い光が、水路の壁を伝わった。天井へ、床へ、広間全体へ。灰の紋様が光を受けて、一瞬だけ激しく反応した。
ガルドが目を覆った。眩しさで動きが止まった。
エルゼが靄を出した。今度は断ち切られることなく、ガルドの足元に巻きついた。
ガルドの動きが鈍った。
「行くぞ」
エルゼがリリアの腕を掴んだ。イリスが石の扉を引いた。重い扉が、軋みながら開いた。リリアたちが中へ入った。モルが影から戻ってきて、一緒に入った。
扉を閉めた。
エルゼが金具で内側から止めた。
扉の向こうで、ガルドの声がした。
「リリア様」
怒鳴っていない。いつもの硬い声だった。
「戻ってください」
リリアは扉の前に立ったまま、答えなかった。
ガルドの声が続いた。
「魔女の呪いで、灰の病が広がった。私の家族も、十年前にそれで死んだ。妻と、娘が」
リリアは動かなかった。
「魔女さえいなければ、助かったはずだ。そう思ってここまで来た。間違っていたとは思っていない」
「隊長」
リリアは扉に向かって言った。
「魔女が灰の呪いを起こしたのではありません。それは教会が作った嘘です」
「……知っている」
扉の向こうが、少し静かになった。
「知っているのに、任務だと言うんですか」
「知っていて、それでも魔女を憎んでいる。論理の話ではない」
リリアは何も言えなかった。
エルゼが扉の近くに来て、小声で言った。
「行くぞ。時間がない」
「でも」
「ガルドはあたしを憎んでいる。それは今日変わらない。変わるなら、時間がかかる。今夜じゃない」
リリアは扉を見た。それから、前を向いた。
イリスが先を歩いていた。
扉の先は、また通路だった。
今度は石造りではなく、もっと古い造りだった。壁が荒削りで、天井が更に低い。百年以上前の旧水路の、更に奥だとイリスが言った。
「ここから先は、私も記録の上でしか知らない」
「記録だけで進めますか」
「進むしかない。モル、匂いは?」
「古い灰もる。濃いもる。でも、別の匂いもするもる」
「別の匂い」
「あったかい匂いもる。でも遠いもる」
イリスが考えた。
「女神の残滓の可能性がある。近づいているということね」
モルの体が、薄く光った。
全員がモルを見た。
「モル、光っています」
「知ってるもる。なんか、光るもる。止められないもる」
「無理に止めなくていいです」
「怖いもる」
「怖くても、光っていていいです」
モルは羽をパタつかせた。
「リリアはいいこと言うもる」
光が道を照らした。蝋燭の代わりになるくらい、柔らかく、白い光だった。
通路を進んだ。
角を曲がるたびに、イリスが記録と照合した。モルが匂いを確認した。エルゼが壁の紋様を確認した。リリアは後ろを確認した。
扉を三つ通った。
四つ目の扉の前で、イリスが止まった。
「ここだ」
扉は他と違った。石ではなく、灰色の金属でできている。表面に、細かい紋様が刻まれている。灰の紋様ではない。別の、もっと古い文字に似たものだった。
「この扉の向こうに、地下の灰の病患者たちがいる」
「さっきとは別の人たちですか」
「別のグループ。こちらはもっと進行が進んでいる。暴走している可能性がある」
扉の向こうから、音がした。
低い唸り声だった。人の声だが、人の声ではないように聞こえた。いくつかの声が重なって、広い空間に響いているように聞こえた。
「どのくらいの人数ですか」
「記録では十人前後」
「十人」
エルゼが包帯を確認した。リリアが手袋を確かめた。
「どうするか」
イリスがリリアたちを見た。
「女神の死骸に近づくには、この部屋を通る必要がある。迂回路は記録にない」
「進む」
エルゼが言った。
「浄化は」
リリアに向いた。
リリアは考えた。記憶を削る。でも、十人の暴走した人々の前では、記憶を守ることと命を守ることのどちらが先か。
「使わないように努力します。でも、どうしても必要なら使います」
「分かった」
エルゼが扉に手をかけた。
扉を開けた瞬間、唸り声が大きくなった。
広い空間だった。かつては何かに使われていた部屋らしく、崩れた台や棚の残骸が残っていた。その中に、人影があった。十人以上。灰の紋様が体の大部分を覆い、目が赤く濁っている。完全に異形化する直前の状態だった。
人影の一つが、こちらを向いた。
扉が開いたことで、気づいた。
唸り声が集中した。
「散らばって」
エルゼが左腕を出した。靄が広がった。人影の一つに向けた。靄が紋様に触れた。人影が痙攣した。エルゼが苦しそうに息を吸った。引き受けている。苦しみを、自分の中へ。
別の人影がイリスに向かった。
「イリス、下がってください」
リリアが前に出た。手袋をはめた手を広げた。浄化の光が出かけた。止めた。別の方法を考えた。
壁の紋様を見た。ここにもある。
さっき、光を押し込んだ。その逆をやれば。
試みた。壁の紋様に触れて、中の灰を引き出した。浄化ではない。ただ、引き出した。
灰が、部屋の中央に集まった。
人影たちが、引き寄せられるように中央を向いた。動きが遅くなった。
「エルゼ」
「見てる」
エルゼの靄が中央の灰に向かった。人影たちではなく、集まった灰に向けた。靄と灰がぶつかった。
人影たちの動きが止まった。
紋様が、薄くなった。完全にではない。でも、暴走が収まった。
一人が、床に座り込んだ。次の一人も。
目の赤みが、少し引いた。
正気ではない。でも、暴走していない。
「今だ」
エルゼが言った。
「通れる」
四人は部屋を横切った。座り込んでいる人影たちの間を、急ぎ足で進んだ。
一人が、リリアの外套の裾を掴んだ。
リリアは止まった。
その人は、女性だった。灰の紋様に覆われていたが、目の奥にまだ何かが残っていた。口が動いた。
「……帰りたい」
かすれた声だった。
リリアは膝をついた。女性の手を、両手で包んだ。
「帰れます」
言える保証はなかった。でも言った。
「まだ帰れます」
女性の目が、少しだけ澄んだ。涙が出た。
「リリア」
エルゼが叫んだ。
「分かっています」
リリアは立ち上がった。女性の手を、そっと床に置いて、向こうの扉に向かった。
扉を抜けた先の通路で、ガルドの声がした。
別の入口から回り込んでいた。
扉の向こうに、白い鎧の影が見えた。今度は一人ではない。二人、三人いる。
「囲まれました」
イリスが伝えた。
「前は」
「女神の死骸への道だ。もう少し先」
エルゼが包帯を見た。黒が滲んでいた。使いすぎていた。
リリアが前に出た。
「わたしが行きます」
「一人は駄目だ」
「一人ではありません。モルがいます」
モルが光っていた。道を照らすくらいの、白い光で。
「わたしが扉を開けます。女神の死骸に、触れます。何かが変わるかどうか分かりません。でも、試みます」
「何を試みる」
「浄化できるかもしれません。今まで使ってきた浄化ではなく、もっと直接的な方法で。モルの光と、わたしの祈りで」
「根拠は」
「ありません」
リリアははっきり言った。
「でも、向かう必要があります」
エルゼがリリアを見た。長い間ではなかった。一秒か二秒。
「行け」
「エルゼは」
「ここで止める」
「一人で」
「イリスがいる」
横から、イリスが言った。
「私は戦えないって言いました」
「モル、リリアから離れるな」
「離れないもる」
「リリア」
エルゼがリリアの腕を一度だけ掴んだ。すぐに離した。
「行けたら行け。無理なら戻れ」
「戻ります」
「約束しろ」
「約束します」
リリアは前を向いた。
モルが肩の上で光っていた。
後ろで、エルゼの靄が広がる音がした。ガルドの声がした。
リリアは走った。
突き当たりに、扉があった。
金属ではなく、石だった。重い。一人では動かせないかもしれない。
リリアは手袋をはめた両手を扉に当てた。
祈った。
浄化の光が出た。扉の石に、光が染み込んだ。石の中の灰の残滓が、光に反応した。扉が、内側から光り始めた。
軋みながら、動いた。
「開きましたもる」
「開きました」
中へ入った。
扉を閉めた。
暗かった。モルの光だけが、部屋を照らした。
部屋の中央に、何かがあった。
大きな、白いものだった。
かつては白かったのだろう。今は、灰色に変色していた。形が、翼に似ていた。巨大な翼の形をした、石のようなものが、部屋の中央に横たわっていた。
女神の死骸だと、すぐに分かった。
「女神さま」
モルが、小さな声で呼んだ。
光が揺れた。
モルの赤い目から、涙が落ちた。




