第十五章 器にされる少女
モルが泣いていた。音を立てない泣き方だった。小さな体が震えて、赤い目から涙が伝わって、それだけだった。リリアはモルを肩から下ろして、両手で包んだ。
「モル」
「女神さまもる。女神さまが、ここにいるもる」
「見えますか」
「感じるもる。匂いがするもる。昔の匂いもる。翼の匂いもる」
リリアは部屋の中央を見た。灰色に変色した、翼の形をした何かが、横たわっていた。近づいた。
石ではなかった。触れる前から分かった。石と違う、もっと別の何かだった。灰が固まって形を保っているような、あるいは光が灰の中で眠っているような。
手袋をはめた手を、近づけた。光が滲んだ。手袋の向こうから、祈りの光が漏れた。死骸が、わずかに反応した。灰色の表面が一瞬だけ白くなった。そしてすぐに元に戻った。
「繋がれています。何かで、繋ぎ止められています。眠らされているというより、縛られているみたいです」
「教会が封じたもる。利用するために、封じたもる。女神さまが完全に消えないように、ここに留めてあるもる」
「消えることもできない」
「そうもる」
リリアは手を下ろした。
後ろで、扉が揺れた。外からガルドが押しているのかもしれなかった。まだ開かない。エルゼが止めているのか、扉が重いのか。
時間がなかった。部屋の壁を確認した。四方の壁に、紋様が刻まれていた。灰の紋様ではなく、もっと整った、古い文字に似た記号だった。イリスが記録の中で言っていた封印の形だと、直感した。
四か所。それぞれの壁に、一つずつ。中央の死骸と、四つの封印が、細い線で繋がっているのが見えた。見えた、というのは正確ではない。光の流れのようなものが、微かにあると感じた。祈りを使えば感じ取れる何かが。
「モル、光を強くできますか」
「やってみるもる」
モルの体の光が、少し強くなった。部屋が明るくなった。
封印の記号が、はっきり見えた。
四つのうち、一つの記号が、他と違う色をしていた。黒く染まっていた。灰の汚染が他より強い場所だった。
そこへ近づくと、触れる前から重さを感じた。灰の濃度が、他の場所より格段に高い。ここに、封印の核があるのかもしれなかった。
手袋を通して、触れた。
祈りを押し込んだ。記号が、光を受けた。白い光と、黒い灰が、手の中でぶつかった。痛みがあった。手袋の向こうで、右手が熱くなった。
記号が、少しだけ揺らいだ。でも、崩れなかった。
「一人では無理です」
リリアは手を引いた。右手が、震えていた。
「エルゼの力と合わせれば、できるかもしれません。でも今は、エルゼが外にいて」
扉が、また揺れた。今度は強く揺れた。開いた。入ってきたのは、ガルドではなかった。セラフィナだった。白い聖女服。金髪。微笑み。どこも汚れていない。水路を来たとは思えない清潔さで、扉を抜けて、部屋に入った。
後ろに、騎士が二人ついていた。
「リリア」
セラフィナが呼んだ。
「よかった。無事でしたね」
「セラフィナさん」
「心配しました。ガルドから連絡が来て、急いで来ました」
セラフィナは死骸を見た。一瞬だけ、目が変わった。微笑みの奥の何かが動いた。それはすぐに消えた。
「ここまで来てしまったんですね」
「見ました」
「見たことで、納得できたなら、よかったです」
「何が納得できるんですか。女神が死んで、ここに封じられている。教会はそれを利用しようとしている。わたしをここに繋いで、浄化の道具にしようとしている。納得できることが、何もありません」
セラフィナは微笑んだままだった。
「納得ではなく、受け入れです」
「違います」
「リリア」
「受け入れません」
セラフィナの微笑みが、少し変わった。悲しみに近いものが混じった。本当に悲しんでいるのだと、リリアには分かった。
「あなたは優しい子です。だから、苦しいのです」
「苦しくても、受け入れません」
「一人が消えれば、王国が救われます」
「それは救済ではありません」
「ではなんですか」
「わかりません」
リリアははっきり言った。
「でも、それが救済ではないことは分かります」
廊下から、声がした。エルゼの声だった。次の瞬間、廊下の方から激しい音がした。靄と剣がぶつかる音。ガルドの声。エルゼの声。もう一人、イリスの声も混じっていた。
セラフィナが騎士に目配せした。
騎士が動いた。一人がリリアに向かった。もう一人がモルに向かった。
リリアは後退した。壁に当たった。
騎士がリリアの腕を掴んだ。手袋をはめた手を取ろうとした。手袋を外させようとした。祈りを使えなくするために。
「放してください」
「動くな」
「放してください」
モルが騎士の顔に向かって、影渡りを使った。騎士が驚いて腕を離した。一瞬だけ。
その一瞬に、リリアは壁の封印に手を当てた。
今度は祈りを入れるのではなく、封印を読もうとした。この記号が何を意味するか。どうすれば崩せるか。光を封印の中に流しながら、構造を感じ取ろうとした。
封印が、内側から見えた気がした。
複雑な構造だった。四つの封印が、互いを支え合っている。一つを崩すだけでは、残り三つが補填する。四つ同時に崩さなければ、死骸を解放することも、完全に消すことも、できない。
一人では無理だ。この瞬間、部屋の中に一人で来たことを、リリアは後悔した。
廊下の音が変わった。エルゼの声がなくなった。
扉が開いた。ガルドが入ってきた。エルゼを抱えていた。
正確には、引きずっていた。エルゼは意識があったが、左腕の包帯が黒く染まりきっていた。使いすぎた。足が動いていなかった。
「エルゼ」
「動くな」
ガルドがリリアに言った。
「動けば、この魔女を斬る」
「それは脅しですか」
「任務だ」
リリアは動かなかった。
エルゼが目を上げた。リリアを見た。
「逃げろ」
「逃げません」
「馬鹿か」
「逃げません」
エルゼは目を閉じた。
セラフィナが前に出た。
「リリア」
声が、今までより低かった。微笑みは消えていなかった。でも、奥の何かが、変わっていた。
「時間がありません。大司教がもうすぐここへ来ます。儀式の準備が整っています」
「受けません」
「あなたが受けなくても、意識を失った状態でも儀式はできます」
リリアは手袋を握った。
「セラフィナさん」
「はい」
「あなたは、本当にこれでいいと思っているんですか」
セラフィナは、少し間を置いて、
「よくはありません。でも、仕方がないのです」
微笑みのままで答えた。
「仕方がない、とは」
「他に方法がないから」
「あります」
リリアは、セラフィナから目を逸らさずに言った。
「あるとしたら、もっと長い時間と、もっと多くの犠牲が必要です。今すぐ王国を救うには、これしかありません」
「今すぐでなくてもいい」
「何万人かが、今も灰に苦しんでいます」
「わたしが消えても、灰は完全には止まらないはずです」
セラフィナが、初めて表情を崩した。
驚きだった。微笑みが、崩れた。
「なぜ知っているんですか」
「施設の記録に書いてありました。女神の死骸を使った浄化は、一時的な効果しかない。根本的な解決にはならないと」
セラフィナは、また表情を整えた。でも、今度は完全には戻らなかった。
「一時的でも、今を救える」
「今を救って、誰かを消して、それをまた繰り返すんですか」
「……」
「セラフィナさんは、それを繰り返せますか」
答えがなかった。
その沈黙に、リリアは何かを感じた。セラフィナが揺れている。信じてきたものが、揺れている。
でも、揺れているだけで、止まってはいない。
廊下から、別の足音がした。
ゆっくりした、静かな足音だった。杖をついている音が、規則正しく床を打っていた。
白い法衣の老人が、扉から入ってきた。
痩せていた。細い指、穏やかな目。声を出す前から、この人が部屋の主だと分かった。
リリアは、その顔を肖像画で見たことがあった。
大司教、ヨハン・グレイル。教会の最奥にいるはずの人だった。
ヨハンが、部屋を見渡した。リリア、エルゼ、モル、そして死骸へと、順に視線を移す。すべてを確認してから、リリアに向き直った。
「来てくれましたね」
穏やかな声だった。
「リリア・クレスト」
「大司教」
「ここへ来たということは、理解しているはずです。女神の死骸を。その意味を」
「理解しています」
「なら、話が早い」
ヨハンは部屋の中央に向かった。死骸の前に立った。
「これを見て、あなたはどう思いましたか」
「悲しいと思いました」
「悲しみを感じる余裕がある、ということは、まだ決断していないということです」
「決断はしています」
「受け入れないということですか」
「そうです」
ヨハンは振り返った。
「君が消えれば、十万の民が救われます。これは脅しでも、命令でも、強制でもない。ただの事実です。十万の民が、今この瞬間も苦しんでいる。そのうちの多くは、今年中に正気を失う。君一人が犠牲になれば、その苦しみが一時的に止まる」
「一時的に」
「一時的であっても、止まります」
「根本的には解決しません」
「根本的な解決は、誰にもできません」
ヨハンは死骸を見た。
「女神も、できなかった。できないなら、今できることをする。それが治世というものです」
「でも」
「リリア」
ヨハンが振り返った。目が、穏やかだった。感情がないのではない。感情があって、それを超えたところに来ている人間の目だった。
「君の苦しみは分かります。十六年間、君を育てたのは私たちです。この結末が、君にとって不当だということも分かっています」
「なら」
「分かっていても、変えられないことがあります」
リリアは答えなかった。
ヨハンの言葉には、論理があった。感情だけで否定できない論理が。でも、間違っている。間違っているのに、どこが間違っているかを今すぐ言葉にできない。
「一人の少女が消えて、王国が救われる」
ヨハンが続けた。
「それは悲劇ではなく、奇跡です」
「奇跡ではありません」
「なぜ」
「わたしは奇跡になるために生まれたんじゃありません」
言葉が、出た。
考えて出たのではなかった。胸の中から、そのまま出た。
ヨハンは穏やかに瞬きした。
「では、何のために生まれましたか」
リリアは答えられなかった。
答えを探した。まだ見つかっていない。でも、奇跡になるためではないことは、確かだった。
「儀式の準備を」
ヨハンがセラフィナに言った。
セラフィナが動いた。
騎士がリリアに近づいた。
モルが叫んだ。
「リリア!」
リリアは後退した。壁に当たった。手袋をはめた手が、封印に触れた。
光が出た。
封印が揺れた。
でも、崩れなかった。
騎士に腕を掴まれた。
エルゼが、床から声を上げた。
「リリア」
かすれた声だった。
「離せ」
ガルドが押さえているのに、エルゼが立ち上がろうとしていた。左腕が黒い。足が動かない。それでも、立ち上がろうとしていた。
「エルゼ」
「離せと言っている」
ガルドに向かって言っていた。ガルドは答えなかった。押さえ続けた。
セラフィナが部屋の中央に向かった。儀式の準備を始めていた。
背中に翼のような光が出た。白い光が、部屋を満たし始めた。
リリアは腕を掴まれたまま、光の中に立っていた。
この光が、封印と接続されれば。女神の死骸と繋がれば。自分の心が、消える。
消えることは怖くなかった。
消えたあとのことが、怖かった。エルゼが一人になることが。モルが一人になることが。その怖さを感じながら、リリアは目を閉じた。
受け入れかけた。
そのとき。
モルの声が聞こえた。
「リリア、モルはここにいるもる」
手の中に、温かいものがあった。
モルが、捕まれていない方の手に、しがみついていた。
リリアは目を開けた。




