第十六章 聖女失格
光が部屋を満たしていた。セラフィナの祈りだった。白い翼の光が広がり、封印の記号が呼応して輝き始めていた。死骸の表面が、灰色から白へ変わりつつあった。儀式が、始まっていた。
騎士がリリアの腕を引いた。中央へ向かわせようとした。
リリアは動かなかった。足に力を入れた。壁を背にしたまま、動かなかった。腕が引っ張られる痛みがあった。それでも動かなかった。
「抵抗しても意味はありません」
騎士が言った。
「意味がなくても抵抗します」
リリアは反論した。光がまた強くなった。
そのとき、リリアの右手の中で、モルが光った。白い光だった。モルの体から出る光とは違う。もっと深い、古い光だった。モルが叫んだ。
「見えるもる!」
モルの全身が光った。赤い目が、白に近い色になった。
「女神さまの声が聞こえるもる!」
「モル」
「リリア、繋がるもる。封印と繋がるもる。モルの中の欠片が、封印に触れてるもる」
リリアは手の中のモルを見た。光が手のひらを通して伝わってくる。温かくて、古くて、悲しい光だった。
「何をすればいいですか」
「祈るもる」
「どこへ」
「モルへもる。モルを通して、女神さまへもる」
リリアは騎士に腕を掴まれたまま、目を閉じた。
祈った。
いつもの浄化の祈りではなかった。誰かを救うための祈りではなかった。ただ、モルへ。モルの中に眠っている何かへ。長い時間、封じられていた何かへ。
光が出た。
リリアの背中から、白い翼の光が広がった。
騎士が手を離した。光が眩しくて、目を覆った。
リリアは、どこか別の場所にいた。
部屋ではなかった。光の中だった。白い、広い、何もない場所。
足元に、灰があった。黒い灰が、広がっている。でも、沈んではいない。光の中に、灰が浮いている。
誰かがいた。
遠くに、立っていた。
翼があった。白い翼が。でも、端が黒く変色していた。灰色になっていた。立っているというより、佇んでいる感じがした。疲れた立ち方だった。
リリアは近づいた。
翼の持ち主が振り向いた。
顔は見えなかった。光が強すぎて。でも、悲しい目だと分かった。
女神だと、思った。女神の、残滓だと。
声がした。言葉ではなかった。言葉の前にある何かだった。感情が直接伝わってくるような。
伝わってきたのは、疲れだった。
長い疲れだった。
救いたかった。ずっと救いたかった。でも救えなかった。救えない自分を許せなかった。救えない苦しみを受け取り続けた。人々の恐怖を受け取り続けた。助けてくれという声を受け取り続けた。全部を受け取ろうとした。全部を。一つも取りこぼしたくなかった。
だから、消えた。
リリアは、その疲れの中に立っていた。
知っている疲れだった。
正しくなければ救えない。失敗してはいけない。誰かの期待に応えなければ。完全でなければ。完璧でなければ。そう思い続けた十六年間の重さと、似ていた。
「あなたも、そう思っていたんですね」
リリアは言った。
翼が、揺れた。
「完全に救えないなら、意味がないと思っていたんですね」
翼が、また揺れた。
「でも」
リリアは続けた。
「ミナは、助けてくれたことまで嘘にはしないで、と言いました。完全じゃなくても、救おうとしたことは本当だと。そう言いました」
光の中が、穏やかになった。
「あなたが救おうとしたことも、本当のことです。救えなかったことも、本当です。でも、救おうとしたことが嘘になるわけではないです」
翼が、ゆっくりと動いた。
黒く変色した端が、少しだけ、白くなった。
少しだけだった。全部は戻らなかった。でも、少しだけ。
声がした。言葉ではない何かが、もう一度伝わってきた。
今度は、疲れではなかった。眠りたい、という感触に近かった。
ずっと眠れなかった。眠ることも許されなかった。封じられて、使われることを待たされていた。ただ、静かに眠りたかった。
「眠れます。わたしたちが、方法を考えます。まだ分からないけど、教会に使われる形ではなく、あなたが眠れる方法を、考えます」
リリアがそう伝えると、翼が静止した。
長い間、動かなかった。
やがて、光が弱まった。リリアは部屋に戻った。
部屋は、混乱していた。セラフィナの光が乱れていた。儀式が止まっていた。封印の記号が、揺れていた。ヨハンが、リリアを見ていた。
「何をしましたか」
穏やかな声だったが、その奥に、初めて焦りがあった。
「女神と、話しました」
「話す? あれは死骸です。話せるものではない」
「話しました」
リリアはモルを見た。モルの光が、穏やかに揺れていた。赤い目が、濡れていた。
「ヨハン大司教、女神は、安らかに眠りたがっています。教会に使われたくない。道具にされたくない。ただ、眠りたい」
「感傷的な解釈です」
「感傷ではありません。伝わりました」
「リリア」
ヨハンの声が、低くなった。
「儀式を行います。君が抵抗しても、意識を失わせて行います。そう決まっています」
「決まっていても、やめてください」
「できません」
「なぜ」
「十万の民のためです」
「その十万の民が、わたしが消えることを知ったら、望むと思いますか」
ヨハンは答えなかった。
「知らせずに行うということは」
「知らせる必要がない」
「なぜ」
「救われれば、それでいいからです」
「それは」
リリアは息を吸った。
「それは、救いではなく、管理です」
ヨハンが、初めてリリアを正面から見た。穏やかな目が、少しだけ揺れた。
「賢くなりましたね」
「教えてもらいました。いろいろな人に」
「誰に」
「エルゼに。モルに。ミナに。イリスに。あなたが道具だと思っていた人たちに」
ヨハンは何も言わなかった。
セラフィナが動いた。
「リリア」
セラフィナが、リリアの前に来た。
「わたしは、あなたを好きです。本当に」
「知っています」
「だから、楽にしてあげたい」
「楽とは、消えることですか」
「消えることではなく」
セラフィナの声が、少し震えた。
「あなたが、苦しまずに済むことです」
「苦しまない方法が、消えることだと思っているんですか」
「王国を救う奇跡になれれば、あなたの苦しみに意味ができます」
「意味のある苦しみなら、苦しんでいいということですか」
「そういう意味では――」
「セラフィナさん、あなたが間違っているとは、今も言いきれません。あなたの言葉には、論理があります。でも、わたしは受け入れません」
「なぜ」
「消えたあとのことを、考えたからです」
セラフィナが止まった。
「消えたあと、エルゼが一人になります。モルが一人になります。ミナが、また誰かを失います。イリスが、自分のせいだと思います。それが嫌です」
「感情的な理由です」
「そうです」
リリアははっきり言った。
「感情的な理由です。でも、それで充分です。わたしは奇跡になるために生まれたんじゃありません。誰かのそばにいるために生きています」
部屋が静かになった。ヨハンが、ため息をついた。
「騎士」
ヨハンが呼んだ。
騎士が動いた。リリアは後退しながら、壁の封印に手を当てた。光を入れた。封印が揺れた。今度は少し大きく揺れた。女神と繋がったあとでは、封印の構造が少し分かる気がした。崩せないが、揺らせる。
セラフィナが光を出した。ヨハンが何かを言った。
騎士が走った。そのとき。扉が、破れた。正確には、扉の周囲の石壁が、崩れた。黒い靄が、外から押し込んできた。靄の中から、エルゼが来た。左腕が、真っ黒だった。包帯は消えていた。紋様が、肩を超えて、首の付け根まで来ていた。足が定まっていない。それでも、立っていた。
エルゼは部屋を見た。ヨハンを見て、セラフィナを見て、騎士を見た。
そしてリリアを見た。目が合った。エルゼが言った。
「勝手に救いになるな」
聞こえた。部屋の端まで、はっきり聞こえた。
「あんたは、あたしに救われろ」
リリアは、涙が出そうになった。こらえた。こらえて、頷いた。
「遅かったですよ」
「うるさい」
「心配しました」
「うるさいと言った」
エルゼが靄を広げた。騎士に向けた。ヨハンが後退した。セラフィナが光を出した。エルゼの靄と、光がぶつかった。部屋の中で、白と黒がぶつかり合った。リリアは壁の封印に向かった。エルゼの靄が、部屋を満たしていた。その靄が、封印に触れた。封印が、揺れた。
「エルゼ」
「分かってる」
エルゼが、封印へ靄を伸ばした。
「四つ同時に崩さないといけません」
「一人では無理だ」
「二人なら」
「やってみる」
エルゼが靄を四方の壁へ向けた。リリアが光を四方の封印へ向けた。靄と光が、封印に同時に触れた。封印が、大きく揺れた。崩れかけた。でも、崩れなかった。あと少しだった。あと少し、力があれば。
「モル」
リリアが呼んだ。モルが光った。
「モルも、やるもる」
モルの体から、白い光が出た。女神の心臓の欠片の光が。それが、リリアの光と混ざった。封印が、崩れた。一つ。二つ。三つ。
四つ目が、崩れなかった。ヨハンが、素早く四つ目の封印に手を当てた。法衣の袖から、光が出た。封印を補強していた。
「ここまでです」
ヨハンが穏やかな声で言った。
「リリア。もう終わりにしましょう」
リリアは封印を見た。三つが崩れて、一つが残っている。一つでも残れば、儀式はできる。ヨハンはそれを知っていた。
「大司教」
声がした。扉の方からだった。イリスだった。本を抱えて、入ってきた。顔が青かったが、声は落ち着いていた。
「四つ目の封印は、外から補強しても意味がありません」
「何?」
「封印の構造を調べました。四つが崩れれば、補強しても崩れます。残っているのは、あなたが思っているより脆い」
ヨハンが、イリスを見た。
「異端学者か」
「はい」
「君の研究は、間違っています」
「間違っていません」
イリスはリリアを見た。
「もう一度だけ、力を使えますか」
「使えます」
「みんなで、最後の封印に向けてください」
リリアがうなずいた。エルゼがうなずいた。モルが羽を広げた。
ヨハンが封印の前に立った。身を盾にした。
セラフィナが動こうとした。そのとき。ガルドが、セラフィナの前に立った。
剣を構えていた。セラフィナに向けて。全員が止まった。ガルドの目が、揺れていた。任務の目ではなかった。初めて、人間の目をしていた。
「ガルド」
セラフィナが呼んだ。
「退きます」
ガルドが一歩下がった。セラフィナの前から。ヨハンの前から。リリアたちの前から。
「任務を、放棄します」
セラフィナが息を呑んだ。
ヨハンが、ガルドを見た。
「魔女が正気を取り戻すところを、見ました」
ガルドが言った。
「聖都の地下で。暴走しかけていた者たちが魔女の力で落ち着いた。記憶を削らずに。苦しみを引き受けて」
誰も答えなかった。
「魔女が灰の呪いを起こしたのではないかもしれない。ならば、私が何を憎んでいたのか、分からなくなった」
ガルドは剣を下ろした。
「任務を放棄します。それだけです」
リリアたちは、最後の封印に向かった。
ヨハンは動かなかった。止める言葉も、祈りの言葉も、もう持っていないようだった。
光と靄とモルの光が、同時に封印を打った。封印が、崩れた。部屋が揺れた。エルゼの黒い靄が、死骸からあふれる灰を受け止めた。というより、呑んだ。白くなりかけていた灰が、黒い靄の中に流れ込み、エルゼの左腕へ戻っていく。
腕だけではなかった。肩へ、首筋へ、頬の端へ。黒い紋様が一気に広がった。
「エルゼ!」
「止めるな」
声が、遠かった。すぐ隣にいるはずなのに、灰の向こうから聞こえる声みたいだった。
エルゼの赤い瞳が、少しずつ灰色に濁っていく。
このままでは、エルゼが戻らない。死ぬのではない。倒れるのでもない。灰の中へほどけて、誰かの苦しみを抱えたまま、エルゼという形だけが消えてしまう。
「戻ってきてください」
リリアは祈りの光を強めた。
「あなたまで、灰にならないでください」
「あたしが引き受ければ、終わる」
「終わりません」
リリアは、エルゼの右手を掴んだ。左腕ではなく、まだ温かさの残っている右手を。
「あなたが戻ってこないなら、これは救いではありません」
エルゼの指が、一度だけ力を失った。
リリアは離さなかった。
「一緒に戻るんです」
死骸が、光った。灰色が、白へ変わった。翼が広がった。広がりながら、崩れた。崩れながら、光になった。光が、部屋を満たした。
ヨハンが目を覆った。セラフィナが膝をついた。
リリアは目を閉じなかった。光の中で、翼が最後に一度だけ動いた。
そして、静かになった。光が消えたあと、部屋には灰が残った。細かい、白い灰だった。黒ではなかった。白い灰が、ゆっくりと落ちていた。
誰も動かなかった。
しばらくして、モルがリリアの手の中で言った。
「女神さま、眠ったもる」
小さな声だった。
「眠れましたか」
「眠れたもる。ちゃんと眠れたもる」
モルの光が、消えた。赤い目が戻った。ただの赤い目が。でも、何か変わっていた。深くなっていた。何かを知っている目になっていた。
「モル、大丈夫ですか」
「大丈夫もる。ただ、少し泣きたいもる」
「泣いてください」
モルが泣いた。声を出して泣いた。小さな体が、震えながら泣いた。
リリアは泣かなかった。泣きそうだったが、こらえた。
エルゼが壁に手をついて、立っていた。左腕が黒い。足が震えていた。
リリアはエルゼの名前を呼ぼうとして、声が出なかった。
エルゼは立っていた。立っているのに、そこにいないように見えた。赤い瞳の奥に、灰色の膜がかかっている。左腕だけではない。首筋にも、頬の端にも、細い黒が残っていた。灰の匂いがした。エルゼ自身から。
「エルゼ」
呼ぶと、少し遅れて赤い目がこちらを向いた。
その間が、怖かった。戻ってこないかもしれない、と思った。
「エルゼ」
「動けない」
「分かりました」
リリアはエルゼの隣へ行った。肩を貸した。
「重いぞ」
「知っています」
「それでも貸すのか」
「貸します」
エルゼは、少しだけ体重をかけた。
ヨハンが部屋の中央で、白い灰の中で、立っていた。
儀式は終わった。死骸は消えた。計画は失敗した。それでも、揺れていなかった。
「リリア・クレスト」
ヨハンが呼んだ。
「はい」
「君は、正しかったのかもしれません。でも、間違ってはいなかったとも思っています」
穏やかな声だった。
「それは」
「十万の民を救う方法を探していました。間違った方法だったかもしれない。でも、動機は本物でした」
リリアは答えなかった。ヨハンは、白い灰を見た。
「女神は、眠れましたか」
「眠れました」
「そうですか」
ヨハンは目を伏せた。
「それは、よかった」
本当に、そう思っているように聞こえた。
セラフィナが立ち上がって、リリアを見た。
「あなたを止められませんでした」
「止めなくてよかった」
「それは」
「セラフィナさんが、最後に動かなかったことで、間に合いました」
セラフィナは何も言わなかった。
ガルドが、扉の前に立っていた。剣を持ったまま、下を向いていた。
イリスが本を閉じた。モルが泣き止んだ。白い灰が、まだゆっくりと降っていた。
リリアはエルゼを支えながら、部屋の中を見た。
終わった、とは思わなかった。始まった、とも思わなかった。
ただ、次がある、と思った。
エルゼが言った。
「出るぞ」
「はい」
「足が動かないから、支えろ」
「支えています」
「もっとしっかり」
「これ以上はわたしが倒れます」
「倒れるな」
「倒れません」
モルが頭を上げた。目が赤かった。泣いたあとの顔だった。
「次の村では、甘いパンがあるといいもる」
リリアは笑った。
エルゼは笑わなかったが、肩の力が少し抜けた。
リリアたちは、扉へ向かった。




