第十七章 黒翼の魔女が空を裂く
聖都の空が、黒くなっていた。地下から上がると、夜の聖都に灰が降っていた。白い建物が、黒い灰を受けて、少しずつ汚れていた。封印が崩れたことで、地下に封じられていた灰が外へ漏れ始めていた。風がなかった。音もなかった。ただ、静かに、黒い灰が降っていた。地上には人が出ていた。
灰に驚いた市民たちが、建物から顔を出していた。空を見ていた。聖都で灰が降ることは、今まで一度もなかった。白い都市が汚れていくのを、黙って見ていた。
リリアはエルゼを支えながら、通用路へ向かった。
イリスが先を歩いた。ガルドが後ろについた。剣を収めていた。誰かを守るためではなく、ただ歩いていた。
「ガルド隊長」
リリアが呼んだ。
「何だ」
「なぜ動いてくれたんですか」
ガルドは少しの間、黙った。
「魔女が人を救うところを、見た」
「それだけですか」
「それだけでは、足りないか」
「充分です」
ガルドは答えなかった。
通用路を抜けて、外壁の外へ出た。外の空も、灰色だった。もともと灰が降っていたが、聖都の中から漏れ出した灰が混じって、少し濃くなっていた。
エルゼが足を止めた。
「少し待て」
「何ですか」
「立てない」
エルゼがリリアの肩から手を離した。そのまま地面に膝をついた。
「エルゼ」
「大丈夫だ」
「大丈夫ではありません」
「少し待てば動ける」
イリスが近づいた。エルゼの左腕を見た。黒い紋様が首まで来ていた。
「かなり使いましたね」
「使わなければ間に合わなかった」
「今すぐ倒れることはないですか」
「ない」
「本当に」
「今は、ない」
イリスは外套のポケットから小さな瓶を取り出した。
「これを飲んでください。灰の侵食を一時的に遅らせる薬です。完全ではないけど、今夜を乗り越える助けになる」
「何でそんなものを持っているんですか」
「異端学者だから」
エルゼは受け取った。中身を飲んで、顔をしかめた。
「不味い」
「薬は大抵不味い」
「これは特別に不味い」
「文句を言えるくらい元気があるなら大丈夫です」
モルがエルゼの膝の上に乗った。
「エルゼ、生きてるもる?」
「生きてる」
「よかったもる」
「あんたに心配される日が来るとは思わなかった」
「モルはいつも心配してるもる」
「そうは見えなかった」
「見せてなかっただけもる」
エルゼはモルを見た。何か言おうとして、やめた。
ガルドが立ち止まった。
「私はここまでだ」
全員が振り返った。
「騎士団の宿舎に戻ります。任務を放棄した以上、始末書を書かなければならない」
「それは」
「自分でやることです」
ガルドは剣を見た。それからリリアを見た。
「聖女候補でなくなったリリア・クレスト」
「はい」
「君は正しかったのかもしれない。でも、私にはまだ、全部は飲み込めていない」
「飲み込まなくていいです。今夜のことだけで、充分です」
「エルゼ・ヴァルト」
ガルドがエルゼを見た。エルゼが上を向いた。
「君の力が、人を救うのを見た。それは事実だ。魔女の力だとしても、それは事実だ」
エルゼは答えなかった。
「家族の仇だと思っていた。今も、簡単には消えない。ただ」
ガルドは目を逸らした。
「間違っていたかもしれない、とは思っている」
エルゼは、少し間を置いた。
「それでいい」
短く言った。
「すぐに全部変わらなくていい。間違っていたかもしれない、と思うことが、今日の限界なら、それでいい」
ガルドは頷かなかった。ただ、踵を返した。白い鎧の背中が、灰の中に遠ざかった。
リリアたちは、聖都の外壁沿いを歩いた。
市街地から離れた場所に、古い民家が何軒か並んでいた。イリスが顔見知りの家を知っていた。一夜の宿を借りた。家は小さかったが、暖かかった。
家の主人は何も聞かなかった。食事を出して、部屋を貸して、それだけだった。この地域では、追われている人間が来ることも珍しくないのかもしれなかった。
エルゼが横になった。すぐに目を閉じた。
リリアはその隣に座った。
エルゼの左腕を見た。包帯がない。紋様が首まで来ている。イリスの薬で侵食が少し落ち着いているが、引いてはいない。
「包帯はありますか」
イリスが布を渡した。リリアは丁寧に巻いた。首の付け根から、手首まで。エルゼは目を閉じたまま動かなかった。
「痛いですか」
「慣れてると言う気にはなれない」
「正直に答えてくれてありがとう」
「……少し痛い」
「薬は効いていますか」
「効いているのかどうか分からない。ただ、さっきより楽だ」
「それなら効いています」
エルゼは目を開けた。天井を見た。
「リリア」
「はい」
「今夜、部屋にいるのか」
「いますよ」
「そうか」
また目を閉じた。
それだけだった。何を確認したかったのか、リリアには完全には分からなかった。でも、いますよ、と答えたことで充分だったらしかった。
エルゼの呼吸が、やがて静かになった。
モルがリリアの隣に来た。
「リリア、眠らないもる?」
「もう少しここにいます」
「眠れないもる?」
「眠れるとは思います。でも、もう少し」
モルはエルゼを見た。
「エルゼ、大丈夫もる?」
「今夜は大丈夫です。明日のことは、明日考えます」
「左腕、もっと黒くなるもる?」
リリアは答えに詰まった。正直に言うべきか、分からなかった。
「分かりません。でも、これ以上使わせません」
「止められるもる?」
「止めます。エルゼが聞かなくても、止めます」
「どうやってもる」
「体を張ります」
「リリアが?」
「わたしが」
モルはしばらく考えた。
「それは効きそうもる」
「効かせます」
「エルゼも、たぶん嫌じゃないもる」
「そうだといいですが」
「絶対そうもる」
モルが断言した。リリアは少し笑った。
イリスが隣に来て、座った。
「明日、何をするか考えていますか」
「まだです」
「考えてもいいですか。一緒に」
「お願いします」
イリスは本を開いた。
「教会は今夜の一件で、大きく揺らぐと思います。ヨハンが計画を失敗した。封印が崩れた。聖都に灰が降った。市民は見ていた」
「すぐに何かが変わりますか?」
「すぐには変わりません。でも、嘘の一つが崩れました。魔女が灰の呪いを起こしたという嘘が、今夜少し、ほころびた」
「ほころびだけでは」
「ほころびが積み重なれば、崩れます。時間がかかる。でも、動き始めた」
リリアは外を見た。窓の向こうに、灰が降っていた。
「灰は止まっていません」
「止まっていないです」
イリスは、淡々と頷いた。
「王国が完全に救われたわけでもない」
「そうです」
「教会の罪が、全部明らかになったわけでもない」
「まだこれからです」
リリアはエルゼを見た。眠っている顔を見た。
「グリムベルの記録があります。施設の記録があります。礼拝堂の記録があります。ノアの祖父が命がけで隠したものがあります」
「使えます」
イリスが、即座に言った。
「使い方が分からないです、わたしには」
「私が使います。それが私の仕事です。記録を読んで、整理して、世に出す方法を考える。研究者の仕事です」
「一人でできますか」
「一人ではやりません。ノアに頼みます。ガルドが動けば、証言が取れるかもしれない。セラフィナが教会の中から変わろうとするなら、内側からの声もある」
「セラフィナさんは」
「今夜の最後、あの人は動きませんでした。止めなかった。それが何を意味するか、自分でも整理できていないと思います。でも、揺れていた」
リリアは頷いた。
「私たちは、それぞれの場所で、できることをします。私は記録を使う。あなたたちは」
「灰に沈んだ土地を、巡ります」
リリアは告げた。
「救えなかった人たちを、拾いに行きます」
イリスはリリアを見た。少し間を置いた。それから、うなずいた。
「それが、一番いい仕事だと思います」
夜が深くなった。イリスが別の部屋へ行った。
リリアは一人、エルゼの隣に座っていた。モルは鞄の上で丸くなっていた。
外の灰は、まだ降っていた。リリアは手袋を外した。手のひらを見ると、右手がまだ少し熱かった。今夜、封印を打ったときの熱さが残っていた。
白銀の髪が、肩に落ちた。頭巾を外していた。聖女服の裾は切れていた。銀糸の刺繍は、ほとんど消えていた。
聖女候補ではなくなった。教会に育てられた、正しい少女ではなくなった。
でも、救おうとしていたことは、本当だった。それは消えていない。
エルゼが、少し寝返りを打った。左腕が布の上に出た。包帯の端が、黒くなっていた。
リリアは包帯の端を直した。エルゼは起きなかった。眠ったまま少し眉を寄せて、また静かになった。
モルが目を開けた。
「リリア、眠るもる?」
「もう少ししたら」
「一つ聞いていいもる?」
「はい」
「女神さまと話したとき、何を感じたもる?」
リリアは少し考えた。
「疲れを感じました。長い、疲れを。それから、眠りたいという気持ちを」
「怖かったもる?」
「怖くなかったです。悲しかったです」
「悲しかったもる」
「似ていると、思ったんです」
「何と」
「わたしと。完全に救えないなら意味がないと思っていたこと。全部を受け取ろうとしたこと。そういうことが、似ていると」
モルは大人しく聞いていた。
「でも、ミナのことを思い出したら、言えたんです。あなたが救おうとしたことも、本当だと」
「女神さまに言えたもる」
「言えました」
「女神さまは、何か返してきたもる?」
「言葉ではなかったけど、少し楽になった、みたいな感じがしました」
モルが目を細めた。
「よかったもる。女神さまが、楽になれてよかったもる。モルは、ずっと悲しんでるのが辛かったもる。どうしてあげることもできなくて」
「モルが守っていてくれたから、今日につながったんです」
「モルは何もしてないもる」
「覚えていなくても、守っていてくれていました。ずっと」
モルは答えなかった。前足で顔を覆った。泣いているのかもしれなかった。
リリアはモルの頭を撫でた。
夜明け前に、エルゼが目を覚ました。
リリアはまだ起きていた。
「眠っていないのか」
「少し眠りました」
「少しだけか」
「いろいろ考えていました」
「何を」
「これからのことです」
エルゼは上体を起こした。左腕を確認した。包帯が巻かれていた。黒が滲んでいたが、昨夜より少し薄かった。イリスの薬が効いているのかもしれなかった。
「灰の土地を、巡ります。エルゼと、モルと。救えなかったものを、拾いに行きます」
「決めたのか」
「決めました」
「あたしに相談せずに」
「エルゼも同じことを考えているはずだと思ったので」
エルゼは少し黙った。
「間違っていましたか」
「……間違っていない」
リリアは頷いた。
「聖都を出たら、まずどこへ行きますか?」
「グリムベルへ戻る。ノアに記録を渡して、イリスと繋げる。それから」
「ミナの村へも行きたいです」
「遠回りになる」
「それでも行きたいです」
「……行く」
エルゼは短く言った。モルが鞄の中で、もぞもぞと動いた。
「二人とも、決めたもる?」
「決めました」
「モルも行くもる」
「当然です」
「甘いパンのある村を選んで回るもる」
「それは選べません」
「交渉できるもる?」
「できません」
「じゃあ、甘いパンがあったら教えてほしいもる」
「それならできます」
モルが鞄から顔を出した。夜明け前の薄い光の中で、赤い目が光った。
「出発はいつもる?」
「夜が明けたら」
「朝ごはんは」
「家の主人に頼んでみます」
「頼んでほしいもる」
エルゼが立ち上がった。足が、昨夜より安定していた。壁に手をつかずに立てた。
「イリスに挨拶する。ガルドには」
「もう会えないかもしれません」
「そうかもしれない」
「でも、また会える気がします」
「根拠は」
「ないです」
「なら言うな」
「でも、そんな気がします」
エルゼは窓の外を見た。
灰が、まだ降っていた。
でも、空が少しだけ明るくなっていた。夜明けが来ていた。
「行くぞ」
エルゼが言った。
「はい」
リリアが立ち上がった。手袋をはめ、外套を羽織った。頭巾を被り、鞄を持った。
モルが肩に乗った。リリアたちは扉へ向かった。




