第十八章 あなたを救えない救済なら
夜明けの聖都は、静かだった。
外壁を出て、リリアたちは北へ向かった。イリスとは夜明け前に別れることにした。イリスは記録を抱えて、地下街へ戻ると言った。ノアと連絡を取り、記録を整理する。時間がかかっても、やる、と言った。
「また会えますか」
リリアが聞くと、イリスは眼鏡を押し上げた。
「会えると思います。私はそういう予感を信じる方なので」
「研究者なのに」
「研究者でも予感は持ちます」
「そうですか」
「モルの世話を頼みます」
イリスがモルを見た。モルが羽を広げた。
「世話はいらないもる」
「甘いものを切らさないようにしてください」
「それは世話もる」
「頑張ります」
イリスはエルゼを見た。何か言いたそうだったが、言わなかった。代わりに薬の瓶をもう一つ渡した。
「使いすぎないでください」
「分かっている」
「分かっていても使いすぎるから言っています」
エルゼは受け取った。
イリスが去った。本を抱えて、灰の中を歩いていく背中が、すぐに見えなくなった。
街道を外れて、林の中を歩いた。聖都が遠くなった。灰は相変わらず降っていた。ただ、質が少し違った。黒い灰の中に、白いものが混じっていた。女神の死骸が崩れたことで、灰の成分が変わっているのかもしれなかった。
モルが空を見た。
「白い灰もる」
「気づきましたか」
「女神さまの灰もる」
「そうかもしれません」
「悲しいもる?」
リリアは空を見た。白と黒が混じった灰が、静かに降っていた。
「悲しくないです。女神さまが眠れたなら、それでよかったと思っています」
「モルもそうもる」
モルは空を見たまま、しばらく動かなかった。それから前を向いた。
「次の村では、甘いパンがあるといいもる」
「あるといいですね」
「絶対あるもる」
「なぜそう思うんですか」
「予感もる」
「イリスが言っていましたね。研究者でも予感を持つと」
「モルは研究者じゃないもる。でも予感はあるもる」
エルゼが前を歩きながら言った。
「うるさい」
「エルゼも予感があるもる?」
「ない」
「じゃあ、何を思ってるもる?」
「何も」
「嘘もる」
「うるさい」
モルはエルゼの外套の裾を見た。
「エルゼの外套、お守りがついてるもる」
「関係ない」
「子どもたちにもらったやつもる。大事にしてるもる」
「関係ないと言った」
「大事なものがあるのに、何も思ってないわけないもる」
エルゼは答えなかった。
リリアはエルゼの外套の内側を思い出した。子どもたちにもらった小さなお守りや布切れが、いくつも縫いつけられていた。あれは、エルゼが救った子どもたちからもらったものだろうか。それとも、救えなかった子どもたちが残したものだろうか。
どちらでも、大事にしていることは同じだった。
昼過ぎに、小さな村に差しかかった。
通り過ぎようとしたとき、声がかかった。
「もし、旅のお方」
老婆が井戸のそばに立っていた。
「この先の道は、昨日から灰が濃くなっています。遠回りですが、東の道を行った方が安全です」
「ありがとうございます」
リリアが礼を言うと、老婆はリリアを見た。
「聖女さまでいらっしゃいますか」
「違います」
「でも、白い服が」
「旅人です」
老婆は少し困った顔をした。
「うちの村にも、灰蝕症の者が二人います。聖女さまがいらっしゃるなら、お力を借りられればと思って」
リリアは立ち止まった。エルゼがリリアを見た。
「どんな状態ですか?」
リリアが老婆に尋ねた。
「まだ初期です。紋様が出始めたくらいで」
「一人で対処できますか」
エルゼに向かって尋ねた。エルゼは少し考えた。
「初期なら、引き受ける量は少ない。やれる」
「左腕は」
「問題ない」
「本当に」
「やれると言った」
リリアはエルゼを見た。包帯の端を見た。昨夜より黒みが薄い。イリスの薬が続いている。
「わたしも使います」
「浄化するか」
「します。でも、今日は少し試したいことがあります」
「何を」
「エルゼの力と組み合わせることを、もう少し意識的にやってみたいです。女神と繋がったあとで、少し分かったことがあります」
エルゼはリリアを見た。
「根拠は」
「あります。少しだけ」
「少しだけか」
「今日は少しだけです」
エルゼは老婆を見た。
「案内してくれ」
村の外れの家に、灰蝕症の者が二人いた。一人は中年の男だった。首筋に紋様が出ていた。もう一人は若い女性だった。手の甲に紋様が出ていた。二人とも意識があり、苦しんでいたが、暴走はしていなかった。
エルゼが先に動いた。男の近くに膝をついて、左腕の靄を出した。紋様に触れさせた。苦しみを引き受けた。男が楽になった顔をした。
その間に、リリアが手袋をはめた手を男の上に翳した。
祈りを出した。いつもの浄化ではない。エルゼが引き受けた苦しみの隙間に、光を入れた。灰が浮いた部分へ、光を送った。押し込むのではなく、包むように。
紋様が、薄くなった。消えきらなかった。でも、かなり薄くなった。
「記憶は」
男が目を開けた。リリアを見た。
「名前は分かりますか」
「……ヴィラン。ヴィラン・トレスだ」
「奥さんの名前は」
「ジェーン。子どもが二人いる」
消えていなかった。
リリアは息をついた。完全ではない。紋様が残っている。でも、記憶が削れていない。
「もう一度、続けます」
エルゼがまた靄を出した。リリアがまた光を送った。
二度目で、紋様がほとんど消えた。エルゼが腕を引いた。包帯の端が少し黒く滲んでいた。でも昨日より少なかった。二人の力を合わせることで、エルゼの負担が減っていた。
「次の人を」
若い女性は、男より早く終わった。
三度やりとりして、紋様が消えた。女性は泣いた。怖かった、と言った。ありがとうございます、と言った。
村を出るとき、老婆が食料を持ってきた。
「お礼です。たいしたものではありませんが」
「ありがとうございます」
干し肉と、丸いパンが入っていた。パンに、干し果物が練り込まれていた。
モルが鼻を動かした。
「甘いもる」
「甘いパンです」
「予感が当たったもる」
「当たりましたね」
モルは満足そうに羽をぱたつかせた。エルゼが呆れた顔をした。
老婆がエルゼを見た。
「魔女さま」
「魔女でいい。さまはいらない」
「魔女さんが、救ってくださったのですね」
「祈りの人が救った。あたしはついでだ」
「そんなことはないと思います」
「そんなことだ」
「でも」
老婆はエルゼの左腕を見た。包帯の黒いところを見た。それから、深く頭を下げた。
エルゼは何も言わなかった。
リリアは、エルゼの横顔を見た。無愛想のままだった。でも、耳が少し赤かった。
夕刻になった。林の中で火を起こした。
二人と一匹――いや、三人で食事をした。干し肉と、甘いパンを分けた。モルは甘いパンを先に食べた。エルゼが干し肉を渡すと、それも食べた。
「今日の浄化、どうだったか」
エルゼが尋ねた。
「よかったと思います。記憶が削れませんでした」
「あたしの負担も、前より少なかった」
エルゼが、自分の左腕を見ながら言った。
「気づきましたか」
「気づいた。なぜ減った」
「押し込むのではなく、包む感じにしました。エルゼが引き受けたあとの隙間に入る感じで」
「感覚の話か」
「感覚の話です。うまく説明できません」
「でも、機能した」
「機能しました」
エルゼは干し肉を噛みながら、火を見た。
「今日が毎回できるわけではない」
「分かっています」
「状況によっては、あたし一人でやる場面も、あんた一人でやる場面もある」
「それでも」
「それでも、組み合わせられるなら、組み合わせた方がいい」
「そう思います」
エルゼが、リリアを見た。
「リリア」
「はい」
「今日、老婆に聖女かと聞かれたとき、違うと答えた」
「答えました」
「正しいか」
リリアは少し考えた。
「聖女候補ではなくなりました。でも、救おうとすることをやめたわけでもないです。だから、どちらでもある気がします」
「どちらでもある」
「変な答えですか」
「変ではない」
エルゼはまた火を見た。
「あたしも、魔女と呼ばれることをやめるつもりはない。でも、魔女として人を滅ぼすために生きているわけでもない。どちらでもある」
「そうですね」
「だから、どちらでもあっていい」
リリアは頷いた。
モルが、二人の間に座った。
「モルはどちらでもあるもる?」
「モルは何ですか」
「旅のマスコットもる」
「そうですね」
「女神さまの使い魔もる」
「そうですね」
「甘いものが好きな生き物もる」
「そうですね」
「全部同時もる」
「全部同時ですね」
モルは満足そうにした。エルゼが「うるさい」と言った。モルが「図星もる」と言った。
夜になった。火を小さくして、三人で横になった。
リリアは眠る前に、空を見た。灰が降っていた。白と黒が混じった灰が、静かに降っていた。眠れそうだった。今夜は、すぐに眠れそうだった。
エルゼが呼んだ。
「リリア」
「はい」
「今日の浄化、よかった」
褒めてくれたのは、珍しかった。
「ありがとうございます」
「礼はいい」
「それでも言います」
「……そうか」
また静かになった。
モルがリリアの鞄の上で丸くなった。羽を体に巻きつけていた。
リリアは目を閉じた。今日、二人の灰蝕症を、記憶を削らずに治した。完全ではない。時間がかかった。エルゼの負担もあった。でも、できた。
できないことが、できることになった。
それが積み重なれば、いつか。
考えながら、眠った。
翌朝、三人は再び歩き出した。グリムベルへ向かう道に戻った。ノアに記録を渡し、イリスへ繋ぐ。それが今の仕事だった。
林を歩きながら、リリアは考えた。救えなかったものを、拾いに行く旅。完全には救えない。でも、今日より明日、少し良くなるかもしれない。積み重なれば、いつか。いつかが来なくても、今日救えた人がいる。今日の記憶が削れなかった人がいる。
それが、今日の全部だった。
「エルゼ」
「何だ」
「グリムベルのあと、ミナの村へ行きましょう」
「遠回りだと言った」
「言いました」
「それでも行くか」
「行きます」
「……分かった」
エルゼは前を歩き続けた。リリアはその背中を見た。黒い外套が、灰の中で揺れていた。内側に、子どもたちのお守りが縫いつけられていた。
モルが肩の上で言った。
「ミナの村に、甘いパンはあるもる?」
「分かりません」
「前回はあったもる?」
「見ていませんでした」
「確認してほしかったもる」
「次回はします」
「頼んだもる」
「うるさい」
リリアが笑った。
灰が降っていた。白と黒の、混じった灰が。
三人は歩いた。




