最終章 世界を救い直す旅
グリムベルに着いたのは、三日後だった。
廃町は、来たときと変わっていなかった。黒い灰の中に、石壁の残骸が沈んでいた。噴水の台座が、灰色の空の下に立っていた。音がしなかった。
ただ、一つだけ違っていた。広場の中央に、小さな鉢植えがあった。枯れた草の間に、一本だけ、緑の芽が出ていた。
「これは」
リリアが近づいた。鉢植えの縁に、手書きの文字が書いてあった。読めないほど小さかったが、名前らしかった。
「ノアが植えたんだろう」
エルゼが言った。
「ここに植えるんですね」
「ここに植えた意味があるんだろう」
リリアは芽を見た。灰の中に、緑の芽が一本。細くて、頼りない。でも、確かにそこにあった。モルが降りてきて、芽に近づいて匂いを嗅いだ。
「生きてるもる」
「生きています」
「嬉しいもる」
「そうですね」
ノアは噴水の台座のそばにいた。いつもと同じように、瓦礫の上に腰かけていた。三人が来るのを、見ていた。驚いた様子はなかった。来ると思っていたのかもしれなかった。
「戻ってきた」
エルゼに言った。
「記録を持ってきた」
エルゼが外套から紙の束を出した。施設の記録、礼拝堂の記録、グリムベルの書記が残した記録。全部まとめて、ノアに渡した。
「これを、イリス・ヴェルンへ届けてほしい。場所は地下街だ」
「聖都の」
「そうだ」
ノアは紙の束を受け取った。重さを確かめるように、両手で持った。それからリリアを見た。
「聖都で何があった」
「女神の死骸が、眠りました」
「眠った」
「封印が崩れました。儀式は止まりました。灰は止まっていません。でも、教会の嘘が一つ、ほころびました」
ノアは空を見た。灰が降っていた。白と黒の混じった灰が。
「白い灰が混じってる」
「女神の灰です」
「女神が死んで、灰になった」
「眠って、灰になりました」
「違いがあるか」
「あると思います」
ノアはしばらく空を見ていた。それから、紙の束を外套の中にしまった。
「届ける。ただし、すぐには行けない」
「分かっています。急かしません」
「ここに残らなければならない理由が、まだある」
「ここは、ノアにとって大事な場所ですか」
ノアはリリアを見た。少し間を置いた。
「故郷だから」
それだけ言った。
エルゼが、広場の鉢植えを見た。
「あれを植えたのか」
「そうだ」
「何の芽だ」
「麦だ。育つかどうか分からない。灰の中では育たないかもしれない。でも植えた」
「なぜ」
ノアは答えなかった。少しの間、沈黙した。
「誰かが植えないと、ここはただの廃町のままだから」
エルゼは何も言わなかった。
リリアも言わなかった。
モルが、鉢植えの方を見て、小さな声で言った。
「育つといいもる」
グリムベルを出たのは、昼過ぎだった。ノアが見送った。手を振らなかった。ただ、立って見ていた。それだけだった。リリアは振り返りながら歩いた。ノアの姿が小さくなった。廃町が遠くなった。灰色の空の下で、石壁の残骸がひっそりと立っていた。
その中央に、鉢植えが一つあった。緑の芽が、一本。
ミナの村へは、さらに二日かかった。道中、灰蝕症の者が一人いた。老人で、道の脇に倒れていた。エルゼとリリアが合わせて浄化した。紋様が薄くなった。完全には消えなかったが、老人は立ち上がれた。次の村まで歩ける、と言った。
「名前を聞いてもいいですか」
リリアが尋ねた。
「ゴーランだ。靴作りをしている」
「大事にしてください、ゴーラン」
「ありがとう、旅の人」
老人は歩き出した。曲がった腰で、ゆっくりと歩いた。
リリアはその背中を見た。
完全ではない。まだ紋様が薄く残っている。でも、歩けた。歩いていった。
モルが肩の上で言った。
「よかったもる」
「よかったです」
「また会えるもる?」
「分かりません」
「会えるといいもる」
「そうですね」
ミナの村に着いたのは、夕刻だった。村は、前に来たときより少し明るかった。灰は降っていたが、村人たちが外を歩いていた。柵の修繕が進んでいた。子どもの声がした。
井戸のそばに、ミナがいた。今日は石畳に絵を描いていなかった。代わりに、木の枝で何かを作ろうとしていた。小さな家の形に、枝を組んでいた。うまくいかなくて、何度も崩れていた。それでも繰り返していた。
リリアが近づくと、ミナが顔を上げた。
一瞬見て、それから立ち上がった。
「リリアお姉ちゃん!」
走ってきた。リリアにぶつかった。リリアは受け止めた。白銀の髪が揺れた。
「また来てくれたの?」
「来ました」
「エルゼさんも来たの?」
「来ました」
ミナはエルゼを見た。エルゼは少し離れて立っていた。ミナが駆けた。エルゼの外套の裾を掴んだ。エルゼが止まった。
「この間はありがとうございました」
「礼はいい」
「お母さんの歌、思い出せました」
「そうか」
「また歌えます」
「そうか」
エルゼは下を向いた。ミナの頭を、少しだけ撫でた。
ミナが笑った。
夕食を、村長の家で御馳走になった。温かい料理だった。野菜と豆の煮込みで、少し薄味だったが、久しぶりに座って食べる温かい食事だった。
モルが器に顔を突っ込もうとして、エルゼに止められた。モルが抗議した。エルゼが無視した。リリアがモルの分を小皿に分けた。モルが満足した。
食事のあと、ミナが隣に来た。
「リリアお姉ちゃんは、これからどこへ行くの?」
「灰のある場所を、回ります」
「ずっと旅するの?」
「しばらくは」
「危なくないの?」
「危ないこともあります」
「怖くないの?」
リリアは少し考えた。
「怖いこともあります。でも、一人じゃないので」
「エルゼさんと、モルと一緒だから?」
「そうです」
ミナは頷いた。
「お母さんの歌、聞いてほしい?」
「聞かせてもらえますか」
ミナが歌った。
ことばのない旋律だった。短くて、揺れるような歌だった。前に聞いたときと同じ歌だった。でも今日の方が、少し長かった。一節のあとに、もう少し続いた。
完全ではなかった。途中で止まった。でも、前より長く続いた。
「少し戻ってきました」
「うん。少しずつ戻ってくる」
「全部は戻りませんか」
「分からない。でも、今あるぶんで歌える」
ミナはそう言って、また少し歌った。
エルゼが、席から立って、外を見ていた。背中を向けていた。聞こえていないふりをしていた。でも、聞こえていると、リリアには分かった。
翌朝、出発した。ミナが見送りに来た。村長も来た。浄化を受けた男たちも来た。
「また来てください」
ミナが言った。
「来ます」
「約束?」
「約束します」
「エルゼさんも来る?」
「来るよ」
エルゼが短く言った。珍しく、すぐに答えた。ミナが嬉しそうにした。
「モルもまた来るもる」
「モルも来てね」
「甘いパン、用意しておいてほしいもる」
「頑張ってみる」
「頑張ってほしいもる」
エルゼが「うるさい」と言った。ミナが笑った。
三人は歩き出した。
村が遠くなっていった。ミナが手を振っていた。小さな体が、灰の中で揺れていた。
リリアは手を振り返した。エルゼは振り返らなかった。でも、歩く速さが少し遅かった。それが振り返らない代わりの何かだと、リリアには分かった。
林に入った。灰が降っていた。白と黒の混じった灰が、木の葉の上に積もっていた。
「次はどこへ行くもる?」
「まだ決めていません」
「灰の濃い場所もる?」
「灰蝕症の人がいる場所へ行きます」
「どこにいるもる?」
「探しながら行きます」
「長い旅もる」
「長い旅です」
「モルは平気もる。旅は好きもる」
「最初から好きでしたか」
「最初は鞄の中が好きだっただけもる。でも今は旅も好きもる」
「よかったです」
エルゼが前を歩きながら言った。
「あんたたちの会話はいつも長い」
「エルゼも話せばいいですよ」
「話すことがない」
「ありますよ」
「ない」
「エルゼが楽しいと思うことを話してください」
エルゼは少し黙った。
「楽しいことは、特にない」
「では、嫌でないことは」
「……そうだな」
エルゼはまた黙った。リリアは待った。急かさなかった。
「歩くことは、嫌でない」
「そうですか」
「目的があって歩くことは、嫌でない」
「今は目的があります」
「ある」
「よかったです」
また無言になった。
しばらく三人で歩いた。林の中は静かで、枯れ葉が足の下で音を立てた。灰が葉から落ちた。
「リリア」
「はい」
「今日の浄化は、明日も試せるか」
「試せます」
「昨日より、うまくなると思うか」
「なると思います。少しずつ」
「少しずつか」
「少しずつです」
エルゼは前を向いたまま、少し間を置いた。
「それでいい」
昼になった。林を抜けると、道が分かれていた。右は次の町へ。左は小さな集落へ。
エルゼが右を見てから、左を見た。
「どっちだ」
「集落の方が、灰の匂いが強いもる」
「左か」
「左もる」
「そっちに灰蝕症がいると思うか」
「匂いがするもる。でも、まだ遠いもる」
「行けるか」
「行けるもる」
エルゼが左を選んだ。リリアが続いた。モルが肩の上で前を見た。
道が細くなった。灰が濃くなった。木が少なくなって、空が広く見えた。
灰の空だった。見慣れた空だった。でも、今日は少し白い。女神の灰が混じった、白と黒の空だった。その空の下を、三人は歩いた。
夕刻になった。集落に着く前に、野宿の場所を探した。林の際に、風を避けられる場所があった。火を起こした。
食事は、ミナの村でもらったものだった。豆のパンと、塩漬けの野菜だった。
三人で食べた。モルが豆のパンを食べながら言った。
「甘くないもる」
「甘くはないですね」
「でも、悪くないもる」
「よかったです」
「次の村に甘いパンがあればいいもる」
「モルは毎回それを言いますね」
「毎回言うもる。毎回あるといいと思うもる」
「諦めないですね」
「諦めたら終わりもる」
「それは本当のことだ」
エルゼがそう言うと、モルが少し誇らしそうにした。
リリアは火を見た。
今日も、一日歩いた。誰かを救えたわけではない。でも、明日に向かっている。明日の集落に、灰蝕症の人がいるかもしれない。いなければ、またその先へ行く。
救えないものの方が、多いかもしれない。間に合わないことの方が、多いかもしれない。それでも、今日より明日、少しだけ良くなると信じて、歩く。
それが、三人の旅だった。
夜が深まった。モルが眠った。エルゼが目を閉じた。
リリアは少しだけ、起きていた。空を見た。白と黒の混じった灰が、音もなく降っていた。星は見えなかった。でも、雲の向こうに月があるのかもしれなかった。
エルゼが、寝返りを打った。左腕が布の上に出た。包帯の端が、今日は昨日より白かった。侵食が、少し落ち着いていた。
リリアは、その腕を見た。黒い紋様が残っていた。消えていなかった。消えることはないかもしれなかった。でも、今日は昨日より少し薄かった。
少しずつ、と言った。
エルゼも、少しずつ。リリアは目を閉じた。
眠る前に、ここまでの旅で残ってきたものを思い出した。ノアの鉢植えの芽。ミナの歌。ゴーランという名の老人が立ち上がった顔。
救えなかったことも、あった。間に合わなかったことも、あった。でも、今までにあったことは、全部本当のことだった。それで、よかった。
夜明け前に、モルが動いた。鞄の上で丸くなっていたモルが、目を開けた。
誰も起こさなかった。ただ、空を見た。灰が降っている空を、じっと見ていた。
それから、言った。
「次の村では、甘いパンがあるといいもる」
誰にも聞こえないくらい、小さな声で。
でも、リリアには聞こえた。眠ったふりをしながら、聞こえた。エルゼにも聞こえたかもしれない。エルゼは動かなかったが、口の端が、ほんの少し動いた気がした。
夜が明けた。三人は起き上がった。火を消して、荷物をまとめた。
モルが肩に乗った。エルゼが先を歩き出した。リリアが続いた。
灰が降っていた。白と黒の混じった、静かな灰が。
三人は、黒い森の向こうへ歩いていった。
救いきれなかったものを、今度は三人で拾いに行くために。
まだ間に合うものを、見つけるために。
聖女でも、魔女でも、使い魔でもなく、ただ三人で歩いていった。
(了)




