20話 崖っぷち
「陽介!」
裕太の声に陽介は我に返った。
怒れるキリコが目前に迫っていた。この世のものとは思えない冷気が、陽介の心臓を鷲掴みした。何も考えられなかった。
陽介の手が弛んだおかげか、斉木がようやく現実に戻り、もがくのをやめた。
キリコがゆっくりと陽介の額に手をかざした。
その手に、周囲の霧が渦を巻いて吸い込まれていく。指の倍ほども伸びて歪んだ爪が、ゆらゆらと蠢いていた。
お客さんこりゃまた貧弱な手相ですな生命線が見当たらんぞ人様に迷惑をかけんようになはい次の方…
壊れたリカちゃん電話が、勝手に陽介の中でがなりたてている。
次の方って言ってるじゃろがあんたもしつこいねえはい、つぎのかたどうぞ!
ぎゃああああ。振り返った斉木が絶叫した。
次の方はいないのお客さんが最後みたいそしたら私も最後かねえじゃあさようなら…
キリコの手に力が入り、指がわずかに広がった。指と指の間からキリコの顔が覗いている。目をつぶって精神を集中しているようだ。
やられる。
陽介が身を固くした瞬間、体が乱暴にがくんと後ろに引っ張られた。裕太とセイジが、斉木ごと陽介をキリコから引き剥がしたのだ。
同時にキリコの手から強烈な光が迸った。
ガツンという衝撃と共に、陽介の世界は真っ白になった。
あれほどうるさかった風の音も聞こえない。
上下左右の感覚もなくなっていた。
陽介の頭上にチラリと地面が見えた。
落ち葉を剥ぎ取られて剥き出しに近い地面が、回転しながら急速に陽介に接近している。
どんどん大きくなっていく。
あ。地面だ。
陽介はその光景を初めはぼんやり眺めていたが、稲光のように理解の光が走った。
僕は弾き飛ばされたんだ。このままだと頭から落ちる…
陽介は咄嗟に体をひねった。
陽介の反応は早すぎることはなかった。体が回りきった瞬間、陽介は背中から地面に墜落した。巨大なハンマーで殴られたような衝撃に、陽介は、肺の中の空気全てと胃の中のものを叩き出された。喉が焼けるように痛んで、目の前が真っ暗になった。
もうボロボロだよ。ちょっと一休みしなきゃ…
陽介は遠のく意識の中でそんなことを考えていた。しかし、陽介の中で、何かが異議を唱えた。初めは小さかったその声も、陽介の世界を覆う暗闇の量に反比例して、徐々に大きくなっていった。
起きろよ。今がチャンスだぞ。ほら起きろって。
初めは無視していたものの、しまいにはうるさいぐらいにこだまするその声に、陽介は暖かな安らぎを諦め、しぶしぶと現実世界に戻ることにした。
陽介は、そろそろと体を動かして、左肩以外はどこも一応は動くことを確認しながら、ゆっくりと起き上がった。左肩は完全に使い物にならなくなっていて、左腕の扱いには細心の注意が必要だった。またしても目の前には色とりどりの渦巻きが回っていたが、頭を振って追い払った。
まず陽介の目を捕らえたのは、すぐそこで唐突に地面が終っていることだった。目の前に広がる霧の淵に、陽介は一気に目が醒めた。
そう、キリコ!
こんなところまで飛ばされたんだ。あいつ本当にヤバイぞ。寝ている場合じゃない。早く逃げなきゃ!
みんなはバラバラに倒れていた。幸いなことにみんな崖の上にいるし、これだけ飛ばされたのだから当然かもしれないが、キリコの姿は見当たらなかった。雨も風も弱まっているし、霧も流れていない。ということは、キリコはまだ近くには来ていないということだ。
よし。
ひょっとしたら、キリコは、僕達を崖の下まで突き飛ばしたと思っているかもしれない。裕太とセイジが僕達をキリコから引き剥がしてくれたお蔭で、僕達はそこまで飛ばされなかっただけだ。キリコは目をつぶっていたから、それは知らない可能性が高い。そして、さらに上手くいけば、僕達をやっつけたと思って、別の獲物を探しに行ったかもしれないぞ。
チャンスだ。
でも、あんまりのんびりしている時間はないかもしれない。だって、もし仮にそうだとしても、僕達が死んだか確認しに来るかもしれないし、別の獲物を探しにこっちにくる可能製だってある。それに、キリコの前から裕太とセイジまでいなくなってるのは、どう考えてもおかしい。
でも、チャンスだ。
この隙に洞窟に逃げれれば…。
陽介は、大急ぎで一人ひとり起こしてまわった。
一番心配なのはセイジで、立ち上がるなり崩れ落ちてしまった。右の靴の中に卵でも入れているように大きくびっこを引いているが、裕太の肩を借りればなんとか動けそうだ。反対に斉木は、なぜか怪我ひとつしていなかった。みんな一様にずぶ濡れで、泥まみれで、あまりの寒さにみじめに震えていた。
今のうちに洞窟に逃げ込もう。
陽介の言葉に、みんな肯くことすらせずに、セイジを担ぐように走り出した。
急に雨脚が強くなり、あっという間に横殴りの雨になった。
キリコがこっちに近づいてきているのかもしれない。
陽介は後ろを振り向くのが怖かった。恐怖が陽介の全身を熱く焼いていく。普段からは予想もつかない、見境がない力が陽介を駆り立てた。
裕太がひょいとセイジをおんぶし、陽介の隣を追い抜いていった。
置いて行かないでよ。
陽介は全力疾走で裕太を追い抜いた。腕を大きく振ったはずみに左肩の骨がギリギリと軋んで痛みが破裂したが、陽介は出来るだけそれを無視して走った。
危うく通り過ぎるところだった。
陽介は後ろ向きに地面に這いつくばって、ようやく止まった。ここがこの崖を登った地点。ここから降りるのが一番だ。
みんなが追いついてきた。
真空状態にいるかのようにみんな息遣いが荒い。担がれてきたはずのセイジまで肩で息をしていた。あんなに寒かったのに、みんな首筋から湯気を上げている。
さあ、ここからが最大の難所だ。
陽介は足を傷めているセイジを見やった。
セイジは裕太の背中から、食い入るように霧がたなびく崖を見下ろしていた。
雨水がそこかしこで小さな急流を作って流れ落ちている。落ち葉はとんでもなく滑ることだろう。人を背負ったままでは無理だ。
「さあ、行くぞ」
裕太がセイジを背負ったまま一歩踏み出した。
無茶だよ。
陽介の無言の抗議に、裕太は厳しい顔で陽介を咎めた。取りつく島もない。
裕太、ひょっとしてさっきのつぐない…
陽介の思考を、キリコの雄叫びが遮った。先程、陽介達が倒れていたあたりからだ。四人は一斉に急斜面を下りはじめた。
登るより下る方が百倍も難しかった。リズミカルに横から殴りつける雨と、上から潤滑油のように流れくる泥水の中では尚更だった。2mも下らないうち、一番上にいた斉木が、けたたましい叫び声と共に、大量の落ち葉を道連れに滑り落ちてきた。その真下にいた陽介はとても支えきれず、その下の裕太とセイジも巻き添えにした。
みるみるうちに崖の頂上が離れていく。
ドン。体が分解するかと思われるぐらいの衝撃と共に、陽介の落下は止まった。斜面に突き出ている岩に引っ掛かったらしい。陽介が見まわすと、みんなそこで止まっていた。崖の天辺が霧の向こうにまだ見えることから、滑り落ちたのはたいした距離ではないと知れた、が、セイジは足を抱えて悶えていたし、裕太は額から血を流しながら唸っていた。
「ご、ごめん」
下敷きになった二人に、斉木がおろおろと声をかけた。陽介は何か言おうとしたが、その前に、霧が真上に昇っていることに気付いた。
まさか。
ゆっくりと見上げると、崖の天辺からキリコが顔を覗かせるところだった。今の叫び声を聞きつけたに違いない。霧でかなりぼやけてはいたが、陽介はキリコがニンマリ笑った気がした。
あ、あ、あ…
キリコの余裕たっぷりの微笑みに、陽介の時間が凍結した。が、キリコの時間は明らかに動いていた。風が上下左右から陽介達を弄ぶ。
他の三人もどうやら気付いたようだ。しかし、狭い岩棚に閉じ込められ、下は崖に近い急斜面。逃げ場はなかった。
キリコがふわりと崖の上に浮かんだ。
ゆっくりと降りてくる。
陽介は身動きも出来ず、全ての終焉が近づくのを、ただ見守っていた。




