19話 霧の向かう先
「帰ろ」
少し落ち着いた陽介は、左肩を押さえながらゆっくり立ちあがった。
いつのまにか雨がまた降りだしている。
頬を撫でる風が冷たい。風も強くなってきたようだ。
一面の霧が連綿と流れていく。ある霧は固まって、ある霧は薄く広がりながら、まるで生き物のように進んでいった。
何気なく霧を目で追っていた陽介は、あっと叫んでその場に座りこんでしまった。
キリコ。
霧が行き着く先はキリコだった。
崖の向こう、5m先の空中にキリコは音もなく浮かんでいた。
小さな男の子の姿からは想像もつかない、すさまじい形相で陽介を睨みつけている。殻をむかれたゆで卵のようにヌメヌメ光る黒目のないその目に、細かく血管が浮き出ていた。固く握り締められた手がわなわなと小刻みに震えている。
キリコがだしぬけにカッと口を開いた。青白い顔を引き裂く深紅の穴から、空気の振動が感じ取れるほどの大音響が迸った。
突然霧が逆流し、陽介達を飲みこんだ。
轟音と共に風が荒れ狂う。
突風に巻き上げられた落ち葉が、四方から陽介達めがけて襲いかかった。
陽介の目に、耳に、口に、濡れた落ち葉がまとわりつく。呼吸もままならない。
逃げろ。
陽介の頭はそう命じたが、体が言うことをまるで聞かなかった。陽介はまばたきすら出来ず、ただキリコを見つめていた。心臓だけが激しく跳びまわり、陽介は体中の血管でそれを感じた。
逃げろ早く逃げなきゃ今度こそヤバイって。
しかし陽介の散々痛めつけられた体は、休息を断固として要求し、ピクリとも動かない。意志の力を総動員しても、痛めていない方の腕で風から顔を守るのが精一杯だった。
しかし、裕太が、舞い狂う落ち葉をものともせず、短く一歩前に出て叫んだ。
「消えろバケモノ」
ダメだ裕太。逃げるんだ。陽介の制止は声にはならなかった。
「消えろ、涼平は死んだんだ」
裕太の言葉に、嘘のように風がやんだ。
場違いな開放感が陽介を包む。
陽介が目を上げると、キリコは無造作に一本の花を差し出していた。
ヒマワリ。
陽介には意味が分からなかったが、裕太は殴られたかのようによろよろと後ろにさがった。
それを見たキリコが高らかに笑い声を上げた。年老いた猫を思わせるしゃがれた笑い声。
キリコは笑いながらヒマワリをひきちぎって、肩越しに虚空へ投げ捨てた。
風が復活する。
横なぐりの雨。
再び落ち葉が舞いあがり、無数の弾丸となって陽介達をなぶった。
陽介は風に流されそうな裕太の手を捕まえた。乱舞する落ち葉から裕太は顔を守ろうともしていない。
「裕太!」
陽介は立ち上がって裕太の手を握り締めた。
有り難いことに、裕太も我に返ったように握り返してきた。
目と目が合った。
大丈夫、普段の裕太だ。
落ち葉が陽介の頬をかすめて飛び去っていく。
よし、逃げよう。
陽介は裕太の手を引っ張り、振り向くなり駆け出した。もつれる足を立て直そうと、三塁側バッティングコーチのように、空いている手をぐるぐる振りまわす。
とたんに肩に激痛が炸裂し、陽介はバランスを崩して裕太ごと地面に転がった。十歩も進んでいない。
裕太がしきりに手を引っ張ってきて、陽介は自分が倒れたまま意識を失いかけていたことに気付いた。目の前の、赤、緑、青の渦巻きを通して、霧が地面を舐めるように自分を追い越していくのが分かった。頭に警戒信号が閃いたが、今の陽介には、とてもそれを即座に分析することはできなかった。
陽介は、裕太とセイジに抱え起こされ、引っ張られるまま走り出した。
朦朧とした頭の中で先程の警戒信号が執拗に点滅している。陽介には、それが何か大切なことだという確信があった。
逃げなければいけないことも、襲いくる無数の落ち葉も思考を邪魔したが、陽介は走りながら必死に点滅する警戒信号を頭の中で追いかけた。
霧が転んだ僕の目の前を追い越していった。霧が追い越していった…ああ、もう。
陽介は、全力疾走に喘ぐ口の中に飛び込んだ落ち葉を、唾と共に吐き出した。微かな苦味が陽介の口に残った。
危なかった、のかもしれない。陽介は苦味を追い出すべく、唾を苦労して集めながら気付いた。
タイミングがずれていれば、吸う息と一緒に葉っぱが肺まで入っていた可能性もあった。むせ返って転げまわる自分のイメージが陽介の足を止めかけたが、手を引っ張る裕太とセイジに催促される前に、再び陽介はスピードを上げた。
落ち着け、じっくり考えるんだ。葉っぱは口で止まったじゃないか。まだツキが残っている。いいか、霧が僕を追い越していったんだ。つまり、霧は前に流れているということだ。それがどうした。違う、頭を使え。霧の性質を考えろ。霧は音を吸収する。霧は洞窟には入ってこない。霧はキリコに向かって流れる。そして今、霧は前へ…。
「ダメ!」
陽介は、両手を引っ張る裕太とセイジに全力で逆らった。
またもや肩で猛烈な爆発が起こったが、陽介は歯をくいしばって、裕太とセイジをその場に留めた。陽介達の少し前方に、異様に濃い霧の塊があった。
「そっちはダメ!」
前を走っていた斉木が振り向いて、急ブレーキをかけた。
しかし、ぬかるんだ地面は斉木の体重を支えきれなかった。
ジャンプする直前のスケート選手のように、斉木は奇妙な表情を顔に張りつかせたまま後ろ向きに滑って、霧の塊の中に突入していった。
ぎやああああ。
一拍おいて、斉木の絶叫が響き、消えた。
霧の塊が消えて、斉木の姿が浮かび上がった。ニタニタと笑うキリコに抱かれていた。自分の倍はあろうかという斉木の体を、キリコはぺらぺらの反物を扱うかのように軽々と抱えている。
斉木の目がクルっと回って、キリコと同じ白目になった。がっくりと頭が落ちて、口から涎が一筋、垂れて落ちた。
死んだ、のか。
「僕の友達を返せ」
突然、陽介はキリコに突っ込んでいった。激怒していた。恐怖心はどこかに消えていた。ボロキレのような自分の体のことも忘れていた。空中の無数の落ち葉を無視して、陽介は突っ込んでいった。
僕の友達。僕の大切な友達。
次々と斉木の姿が思い出された。
控えめに一歩下がっている斉木。おずおずと提案する斉木。でも、いつもはっとする内容だった。ちょっとしたことで心から喜ぶ斉木。どうしてもっと喜ばせることを考えなかったんだろう。陽介を絶望の深淵から引き上げてくれた斉木。弱い自分をさらけだしてまで僕を慰めてくれた。斉木は常に僕を見ていてくれた。でも、僕は斉木のこと、軽く見ていた。これから埋め合わせをしようと思っていたのに。これからが大切だったのに。
ああああああ。
陽介は叫びながらキリコに体当たりした。自分の口から叫び声が出ていることも、目から涙が流れていることも気付かなかった。
が、陽介がキリコに迫った瞬間、キリコは斉木を地面に投げ捨て、軽々と後ろに飛び去った。咄嗟のことに陽介はバランスを崩し、斉木もろとも地面に激突した。
陽介が重い水枕のような斉木の体からなんとか起き上がろうとした時、突然斉木の体に力が入り、陽介は地面に押しつけられた。
え?
斉木は寝転がったまま、戸惑う陽介にしゃにむに殴りかかってきた。
生きてる!
「助けて! キリコに捕まった!」
腕をぐるぐる回して殴りかかってくる斉木の姿に、馬乗りされた陽介は全身の力が抜け、あまり痛くもない斉木のパンチを当たるに任せた。
バカ。
後で思いっきりからかってやるからな。
陽介は上半身を起こして、暴れる斉木を力いっぱい抱きしめた。




