18話 結束
斜面は思いのほか登りづらかった。
気をつけていないと、足元の濡れた落ち葉ごと滑り落ちてしまう。
気持ちばかり焦って三歩登っても、ずるずると二歩落ちていく。
仕方なく陽介はペースを落とした。
自分を追い越して昇っていく霧を無視して、陽介は斜面に抱きつくようにゆっくりと這い上がっていった。しかし、その間にもどんどん時間は過ぎていく。気持ちは焦るばかりだ。
そうやって陽介が少しずつ登っていくと、そこかしこに同じように誰かが滑り落ちた跡があった。
間違いない。裕太はここを登ったんだ。
陽介のペースが上がった。息を切らしつつも、とにかくよじ登った。
急げ。
陽介が泥だらけになって崖を登りきると、霧であまり遠くまでは見えないが、そこは開けた台地になっていた。
「裕太ー」
陽介が叫ぶと、右手の方、ちょうど洞窟の上あたりで動きが感じられた。へたり込んでいる斉木を置き捨て、陽介は走り出した。
いた。
裕太だ。
泥だらけになった裕太が真っ青な顔で崖の方を向いて立っていた。こちら側の頬に落ち葉が一枚貼りついている。
キリコは見当たらなかった。
陽介はほっとしたが、とたんに足が止まってしまった。
また邪魔だって言われたらどうしよう。なんでお前が寄ってくるんだ、あっち行ってろよって言われたらどうしよう。嫌な予感が入道雲のように陽介の中で成長した。
セイジが陽介に追いつき、陽介の隣で立ち止まった。
と、その時、裕太がそのまま崖の方へふらふらと歩いていった。
危ない!
陽介は洞窟周辺の岩だらけの急斜面を思い出し、何も考えずに再び崖に沿って駆け出した。
「ゆううたああー」
陽介の叫びも裕太の耳には届いていないらしい。裕太の足取りは変わらず、崖の縁まであと僅かだ。
陽介は、破裂しそうな肺も、鈍く痛む肩もすべて無視して裕太めがけて走った。が、まるで半クラッチのまま加速しようとする車のように、思うようにスピードが上がらない。
もっと速く!
陽介は突如として密度を増した空気の中、全精力を傾けて前へと進んだ。
裕太が崖の直前で立ち止まり、何かを求めるかのように手を前に伸ばした。お願いだからそのまま!
陽介の願いも虚しく、裕太は虚空へ一歩を踏み出した。
陽介は跳んだ。
ありったけの力を全力疾走の勢いに加えた、おそらく生涯最高のダイブ。
裕太の体がゆっくりと斜め下へ落ちて行く。
陽介は空中でちぎれんばかりに手を伸ばした。
届いて神様お願い届いて…
届いた! 陽介の右手がしっかりと裕太のウィンドブレーカーのフードを掴んだ。
ドサッ。
そのまま陽介は肩から斜めに地面に落ちた。痛めている方の肩だ。激痛が走る。
しかし陽介は手を離さなかった。裕太が宙吊りになった。
陽介は裕太を引きずり上げようともがいて愕然とした。
文字どおり崖っぷちだったのだ。あと少し角度が悪かったら、あと少し勢いがあったら、あのダイブは陽介も崖下へと落としていただろう。なんと危なかったことか!
しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。
実際、裕太ごと落ちてしまわないため、陽介は猛烈に忙しかった。
体をずらしてなんとか足場を確保する必要があった。今にも離してしまいそうな裕太のフードを両手で掴む必要もあった。それも今すぐ!
しかし、陽介の左腕はいうことを聞いてくれなかった。
少しでも動かそうとすると、肩が鋭く痛んで目の前が真っ白になった。そのたびに裕太のフードを掴んだ右手を離してしまいそうになる。
離すもんか。絶対、離すもんか。
が、徐々に力が尽きかけているのが、陽介は自分でも分かった。
フードを掴んだ指が徐々に開きかけたその瞬間、セイジが助けに入った。
遅れて斉木も駆けつけた。
助かった。
陽介は力なく地面に横たわった。
裕太の引き上げは、ほとんどセイジと斉木の力ですることができた。陽介は肩をそっといたわりながら、九死に一生を得た裕太を見つめた。
裕太は相変わらず真っ青な顔をしていた。頬に貼りついていた落ち葉はもうない。
冷たい風が裕太の塗れた髪をかすかに揺らしている。
霧が静かに流れていく。
みんなの見守る中、裕太はゆっくりと口を開いた。
「涼平…」
陽介は目の前が真っ暗になった。
視界がぼやけて、自分が泣いているのが分かった。何も言えなかった。
「ふざけんな!」
突然、セイジが裕太の横面をはたいた。
* * *
セイジは猛烈に腹が立っていた。
それまでなよなよしたヤツだと思っていた斉木の頑張りに、セイジは心の奥で感動していた。
傷ついた陽介にオレは何も言えなかったけど、アイツは自分をさらけ出してまで陽介を元気づけた。すごいヤツだ。
そして、あんなに裕太にひどいことを言われた陽介が、その裕太を救うために崖目指して跳んだことに、セイジは心をひどく揺さぶられていた。どう考えても無茶な行動だったけれど、その勇気はすごい。
セイジは自分と父親の関係を思わずにはいられなかった。
どうせ無視されるからということで、きちんと話しかけもしない。会話がないから何を考えているかもわからない。何を考えているか分からないから、相手の行動に腹も立つ。こっちが苛立っているから、相手も苛立って無視が始まる。
悪循環だった。
セイジは、筋道立ててそれを理解した訳ではなかったが、今、なんとなくそれが分かった。
キリコと出会った時に見えた光景が頭にちらつく。このままだと、そのうちあれが現実になるかもしれない。
オレもオヤジにちゃんと何かを話してみようかな、そうセイジは考えはじめていた。
その矢先だった。陽介に助けられた裕太は、自分のあやまちを悟って泣いて謝る、当然のことのようにセイジはそう予想していた。
が、裕太の口から出てきたのは、死んでしまったらしい弟の名前が一言。
セイジは分からず屋の裕太に猛烈に腹が立った。
セイジはもう一度裕太の横面をはたいた。
裕太は心ここにあらず、といったようで、セイジにはたかれるままになっている。陽介と斉木が唖然としているのは目の端に映ってはいたが、そんなのはどうでもいい。
半ば裕太へ、そして自分でも意識していなかったが、半ばは父親に向けて、セイジは怒りを爆発させた。
* * *
「おい、お前分かってんのか」
陽介が呆然と見つめる中、セイジは裕太に声を張り上げた。
裕太はまだぼうっとしている。
セイジはますます怒って言った。
「相手から無視されるのがどんなにつらいか、分かってるかって聞いてるんだ」
視線を逸らせたままの裕太を、セイジは乱暴に肩を掴んで揺さぶった。
「陽介はお前だけを見てきたんだ。お前があんな仕打ちをしても、陽介は体を張ってお前を助けたじゃないか。そりゃお前の弟のこと、オレ達は知らない。でもな、そんな陽介を無視するなんてあんまりだ!」
セイジは裕太の手を握り締め、声を落として続けた。
「頼むから陽介を見てやってくれよ。陽介本人を。陽介が考えた今日の待ち伏せ、すごかったよな。あんなの考え出せるの陽介だけだって、お前は言ってたよな。それに陽介の考え方、一番分かってるのいつもお前じゃんか。オレ、お前らの間には入れないっていつも感じてたよ。なあ裕太、思い出してくれよ。そして、あの頃のお前に戻ってくれよ」
セイジは泣いていた。
陽介は初めて見るセイジの涙に、なんて言ったらいいのか分からなかった。
自分も泣いた。
自分のためにここまでしてくれる友達がいる、それが無性に嬉しかった。
誰かの手が陽介の肩に置かれた。
裕太だった。
裕太の目に光が戻っていた。
「…何て言っていいか分からない。頭の中、ぐちゃぐちゃだ。でも、でも、これからも友達でいて欲しい。俺が悪かった」
陽介は、何も言えずに、何遍も肯き、そしてニッコリ裕太に笑いかけた。




