11話 予感
「あれの裏側だよ」
セイジは、深い霧の中に黒く浮かび上がる祠を指差した。
大きな杉の木に囲まれた小さな祠で、手前にはこぢんまりとした鳥居が、静寂の中で艶めかしく朱色に浮かんでいる。
「なんだ、ここなら知ってる」
陽介はその小さな祠に見覚えがあった。
夏休みの前、裕太と風来坊ごっこで通ったことがある。
風の吹くまま足の向くままをモットーに、時々枝を放り投げ、その枝の向いた方角へ向かうという陽介オリジナルの遊びである。
さすらいの風来坊の気分を満喫できるのだが、想像力の乏しいセイジにはあまり受けがよくなく、また、何よりさすらうべき見知らぬ土地がなくなってきたことで、最近はすっかりやらなくなってしまった。
前回ここに来た時、この場所は、陽介の目にはなんの変哲もないただの風景としか映らなかった。しかし今回は違った。なによりこの静けさだ。
こんなに静かな場所って今まであったかなあ、そんな考えが頭をよぎり、陽介はこれまでの静かな場所を思い起こしてみた。
が、ここ以上に静かな場所は思いつかなかった。
このあいだの親戚のおじちゃんのお葬式だって、外ではセミが鳴いていた。今日学校で山田先生の質問に裕太が答えられなかった時だって、今思えば隣のクラスから笑い声が聞こえてた――ちらっとうらやましいって思ったっけ。
そう、これまでで一番静かな場所かもしれない。
裕太が腕を振るたびに着ているナイキのウィンドブレーカーが擦れてシュッシュッと音を立てるにもかかわらず、セイジが時折一人でクスクス笑っている――何がおかしいんだ?――にもかかわらず、斉木がかなり大きな声でハアハアやってるにもかかわらず、だ。
この霧の中で物音を出しているのは陽介達だけだった。
他には一切ない。
深い霧が音をすべて吸収してしまっているのかもしれない。
陽介はそっと息を吸いこんで、指をパチンと鳴らしてみた。
パチンという音はちゃんと聞こえた。
でも、例えば大声で叫んだとして、それは誰かにちゃんと届くのだろうか。友達と一緒にいるにもかかわらず、陽介は不安を感じ始めていた。
「いや、ここじゃなくって、この奥。すごいんだから」
これから案内する場所がそんなにすごい場所なのだろうか、一人クスクス笑いながら、セイジはそんな陽介の思いにはお構いなしに鳥居をくぐり祠の脇を抜けて、霧に煙る裏手の木立の中へスタスタと入っていった。
陽介は、突然、セイジにストップをかけたい衝動に駆られた。
ねえ、今日は誰か大人のそばにいようよ。
しかし、そんな女子みたいなことはもちろん言い出せず、陽介はワンテンポ遅れてセイジの後を追った。気のせいか、一段と霧が深くなってきたようだ。陽介の脳裏に先程のキリコの話がちらっとよぎり、陽介はあえて別のことを考えることにした。
真紀子。
バッグは無事見つけたけど、家にかえってまた怒られてるんじゃないかなあ。あんまり怒られてないといいんだけど。
陽介は、真紀子がバッグを探しに公園に戻ってきた時の泣き顔を思い出し、胸がキュンとなった。
え、ちょっと待ってよ。僕は真紀子のことなんか好きじゃないぞ。あんな気取った告げ口野郎なんか大っ嫌いだ。明日顔を見るなり、オエッてやってやろう。やめたやめた、あんなヤツのことなんて考えるのも吐き気がするや。
陽介は足元に注意を集中することにした。
周囲が杉林から雑木林へと変わり、気をつけていないと、時々現れる半ば落ち葉に埋もれた倒木や落ちた枝につまずく可能性があった。
そっと周囲を見まわすと、深い沈黙に沈んでいる周囲のおぼろげな木々が、ぐるりと陽介達を取り囲んでいる。陽介達自身が立てる音を除くと、完全なる無音の世界。
キリコ。
陽介の頭に突然その言葉が甦った。
そんなのいる訳ないじゃないか。
念のため陽介は振り返って後ろを確認した。水墨画のような風景の他は、異常がなかった。しかし、さっきと木々の配置が違うのではないだろうか。
ダルマさんが転んだ。
背を向けている間に、そっと木が近寄ってくる。霧に隠れ、節くれだった枝を広げながら…。木に捕まったら僕の負け。いつもはもう一回鬼をやれば済むけど、今回は…。陽介は頭を振って、もう周りを見るのは止めることにした。
林に入る前に陽介が感じた不安は、弱まるどころかますます強くなっていた。
一人で先頭を行くセイジが時折クスクス笑うほかは、いつのまにか誰も何も喋らなくなっている。半ば無意識のうちに、陽介は足元だけを見ながらも仲間との距離を縮めていた。
斉木はかなり怖がっているようだった。
キリコの話が頭にあるのだろうか、自分がよそ見をしていたせいで木の枝に近寄りすぎ、枝の先端が肩に触れた時などは小さな悲鳴をあげたくらいだ――つられて陽介も悲鳴をあげそうになった。
そして裕太も、もちろん表には出さないが、どうやら内心ビクビクしているらしい。
陽介にはそれが分かった。
裕太の無理している時の癖で、手が握りこぶしになっていたからだ。
前回裕太の手が握りこぶしになっていたのは、音楽の時間、独りで歌わされたときだった。合唱しないで口をパクパクして誤魔化していたのが山田先生に見つかり、罰として皆の前で歌わされたのだった。あれはひどかった、と陽介は思う。そもそも合唱なんて男のやることじゃない。しかし、手を握りこぶしにしながらも、裕太は堂々と歌ってのけた。
その前に裕太の握りこぶしを見たのは、夏、プールの時間。ドッジボールだろうがサッカーだろうが、陸上では無敵の裕太も、水泳だけは苦手だった。カワウソのように泳ぎが得意なセイジに挑発されて競争することになったとき、飛び込み台に立った裕太の手は握りこぶしになっていた。
そう、裕太の手が握りこぶしになっているのは、裕太が無理をしている証拠だ。
「ね、来年の夏、ここにカブトムシ取りにこない?」
陽介が裕太にそっと声をかけてみた。
「あ、うん、そうだね」
裕太の気のない返事に、会話はそれ以上続かず、陽介は再び足元を見ながら歩きつづけた。




