第四節 水の中の一歩
四月の終わりが近づき、新緑の色が一段と鮮やかさを増していた。頬を撫でる風は心地よく、春の余韻を残しながらも、確実に初夏の足音を運んでくる。
中学校生活にも少しずつ慣れてきたさちは、放課後の時間をとても大切に感じていた。女子水泳部の練習も本格的に始まり、日々の忙しさのなかに、確かな充実があった。
更衣室で、さちは注文していた新しい水着に袖を通す。以前スイミングスクールで使っていたものより着心地がよく、動きやすい。しかし、肩から背中、腹部にかけては、鍛えてきた筋肉の陰影がしっかりと浮かび上がっていた。
「やっぱり、全部は隠しきれないね……」
ユキが苦笑しながら言うと、ハルが軽く腕をのばしてさちの肩を軽く叩く。
「でも、それって頑張ってきた証だよ。これからもっと強くなっていくんだから、自信持ってこ!」
「うん。誇っていいと思うよ」とユキも笑った。
そこへ、リンが鏡の前でくるりと一回転してポーズをとる。
「みんなとおそろい、似合ってる……かな?」
3人は同時に頷いた。
「似合ってるよ、リン。肩も腹筋も引き締まってて、かっこいい!」
「リンもずっと鍛えてきたからね。すごく頼もしいよ」
「これからも一緒に、がんばろう」
リンは照れながらも、うれしそうに笑った。
「ありがとう。私、みんなみたいに泳げるようになりたいの」
「……ていうか、リンって、泳げるの?」と、ハルがふいに尋ねた。
リンはちょっと照れたように唇をすぼめる。
「実は……あんまり。っていうか、ほとんど泳げないの。今までフォームの勉強ばっかりで、水の中で実際にやったことは少なくて……」
「じゃあ、タイム測ってる合間に、私が教えてあげるよ!」
さちが即座に申し出ると、ハルもユキも頷いた。
「いいね、それ!」
「リンのペースで、少しずつ覚えていこう」
「ほんと? ありがとう、うれしい……!」
「今日から“リンの特訓コース”開講だね!」
ハルが笑って手を差し出すと、リンはうれしそうにハイタッチを返した。
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プールサイドに集合すると、部長の小野寺瑞希がいつものように明るい声を響かせた。
「それじゃあ、準備運動からいくよー!」
部員たちは号令に合わせて身体を動かす。その一つひとつの動きの中に、少しずつ部活らしい一体感が芽生え始めていた。
「今日は今の自分の実力を知る日。50メートル、タイムを測るよ! そこから目標を立てていこう!」
1レーンでは先輩たちがウォームアップ。2レーンで公式のタイム測定、3レーンではさちたち新入部員が交代で泳ぐ。4レーンではリンともう一人の初心者の子がフォームの練習に励み、時折、瑞希がフォローに入っていた。
3レーンで泳ぐさち、ハル、ユキは、これまで積み重ねてきた体幹トレーニングと技術を活かし、美しいフォームで水をかいていく。その姿は、見ているだけで爽快感を与えるものだった。
「……すごいね、あの3人。フォーム、きれい」
「筋肉のつき方も、本格的……」
「小学生だったって信じられないよ」
周囲の新入部員たちがつぶやくのを、リンもそっと聞いていた。そして、水の中で力強く泳ぐ仲間たちを見つめ、自分もプールに入る。
だが、思うように体が浮かず、水をかく手が空を切るように滑っていく。
「……うまく、いかない……」
悔しさをにじませたリンに、瑞希がそっと声をかけた。
「大丈夫。あなたはもう、立派に“アスリートの身体”をしてる。身体はちゃんと応えてくれるよ。焦らず練習を重ねれば、きっとできるようになるから」
リンはその言葉に力強く頷いた。
「……私も、あんなふうに泳げるようになりたい」
その瞳には、しっかりとした意志が宿っていた。
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やがて、タイム測定が始まった。最初に飛び込んだのは、さち。
水面に飛び込む瞬間、胸の中でそっと誓う。
(もっと速くなりたい。ふたりに、追いつきたい――)
プールの水面が割れ、さちの身体が滑らかに進んでいく。積み重ねてきたトレーニングの成果が、力強さと美しさとなって現れていた。
泳ぎ終え、肩で息をつくさちに、ハルが声をかけた。
「かなり速くなってたよ。タイム、前よりすごくいい!」
「……うん。でも、まだまだ。2人には、全然かなわない」
悔しさと目標が入り混じったその表情に、ユキがそっと微笑む。
「でも、確実に前に進んでるよ。一緒に頑張ろう」
さちはうなずき、息を整えながら静かに言った。
「……絶対に、追いつく」
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その後、さちは4レーンへ移動し、リンの練習に付き合う。
「力を抜いて、水に体を預ける感じ。ほら、こうやって……」
「うん……ありがとう、さち」
「水をしっかり押すように……そう、それ!」
リンの背を支えながら、フォームを確認するさち。呼吸のリズムが少しずつ重なり、水の中に静かな一体感が生まれていく。
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練習を終えた4人は、更衣室で体操服に着替え、誰に言われるでもなく、プール裏のスペースへ向かった。
「今日もやるよ、チーム・トレノ!」
ハルの合図に、さち、ユキ、リンが笑顔でうなずく。腹筋、腕立て、ストレッチ――それぞれの身体と目標に合わせたメニューをこなしていく。
その様子を、瑞希はプールサイドの端からそっと見守っていた。
(……本当にすごい子たちだな)
静かに漏れたその言葉には、心からの敬意と希望が込められていた。
(きっとこの子たちなら、この部に、新しい風を吹かせてくれる)
瑞希の視線の先、夕陽が水面に反射して、きらきらと揺れていた。
少しずつ風があたたかくなり、空気には春から初夏へ向かう気配が漂っている。
カレンダーはまもなく五月を迎えようとしていた。
少女たちの挑戦もまた、新たな段階へと歩み出していた。




