第五節 絆にとける甘い日、春を待つ空
二月十日の翌日。放課後のトレーニングに、いつもとは少し違う空気が流れていた。
「……来たみたいだね」
ユキが視線を向けた先には、昨日の体育館裏で想いを伝えた男子水泳部員の姿があった。やや緊張した面持ちで、彼はまっすぐ立っている。
「こんにちは。……あの、見に来てもいいって言ってたから」
「ええ。見に来たんだ。……なら、見ていくといいわ」
表情を変えず、ユキはすぐにトレーニングへ戻る。トレノの5人も、いつも通り黙々と身体を動かし始めた。
腕立て、スクワット、プランク、腹筋──お馴染みのメニューが静かに進んでいく。
男子生徒はしばらく黙って見つめていたが、やがて小さく手を挙げた。
「僕も……やってみてもいい?」
ユキが軽く頷く。
「いいわよ。一緒に、どう?」
「うん!」
そうして参加してみたものの──
「……はぁ、はぁ……これ、毎日やってるの……?」
息を切らして座り込む彼の姿に、ユキは淡々と答える。
「ええ。小学生の頃からずっとね。もう慣れちゃったけど」
その口調のまま、少しだけ口元を和らげるユキ。
そのとき、ストレッチを終えていた澪がふと思いついたように口を開いた。
「ねえ、そういえば……男子と女子でメドレーリレー対決、やってみたら面白いかもね」
「えっ、対決……?」
「いいですね、それ!」
まひろが嬉しそうに反応し、さちとリンも「やってみたい!」と声を上げる。
「先生に相談してみるよ。いつものトレーニングの成果も見せられるし」
「……その前に」
ぽつりと、まひろが言った。
「……バレンタイン、ありますよね」
一瞬にして場が静まる。男子生徒も固まった。
「え、でも……学校に持ち込んじゃダメなんじゃ……?」
「持ち込みは禁止。でも放課後に学校の外で渡すのは別」
ユキがあっさりと説明し、男子生徒の方へ目線を向けた。
「でも、見つめられても、あげないからね?」
一瞬赤くなって視線を落とす彼の仕草に、思わず笑いがこぼれる。
──そして、2月14日、日曜日。バレンタインデー。
澄んだ空の下、トレノの5人はリンの家に集まっていた。
広くて明るいキッチンに、まひろとリンが立ち、テーブルには材料がずらりと並ぶ。
「まずは下準備だね」
「はーい!」
レシピ本を見つめるユキは、真剣そのもの。
「……分量、きっちり計ってね。0.5グラムの誤差もだめ」
「う、うん……このくらい?」
「まだズレてる。ほら、見て」
ユキの細やかな指示のもと、ハルとさちは真剣に作業に取り組む。
「さすが冷静なリーダー……」とまひろが笑えば、
「まひろもリンも、包丁の使い方プロ級だね」とさちが感心する。
しっとりビターなチョコブラウニーと、可愛らしい型抜きクッキー。
香ばしい香りが部屋中に広がり、焼き上がったブラウニーを冷ます間に、ラッピング作業に取りかかる。
「よし、あとはカードだね!」
5人は小さなメッセージカードに想いを込めて、それぞれ包みを完成させていく。
──ラッピングが終わったあと。
テーブルに余ったお菓子を並べ、ホットミルクを片手に味見タイム。
そのとき、さちがそっと立ち上がった。
「ねえ……実は私、今日いちばんに渡したいの、みんななんだ」
差し出された手作りのブラウニーとクッキー。
「わたし、最初は不安だった。でも、ハルとユキが声をかけてくれて、リンとまひろも……。本当にありがとう」
照れくさそうに微笑むさちに、4人は笑顔を返す。
「……それ、私も思ってた!」
「私も!」
次々に、さちの手へチョコが渡されていく。
「うう……泣かせにきてるよね……」
「泣いても、いいよ?」
「やだー! 余ったのもう一個食べるー!」
「でも、全員同じ味だよ?」
ハルのひと言に、笑いが広がった。
寒さの残る午後。5人の間には、甘くあたたかな絆があった。
──そしてその夜。
さちは、真由美にチョコを手渡した。
「えっ、ママに?」
「うん。いつもありがとうって言いたくて」
真由美はそれを胸に抱きしめ、そっとさちを抱きしめ返す。
「……もう、こんなにしっかりして……ママの方が泣いちゃうよ」
ハルとユキは、それぞれたくみとあかねにチョコを渡した。
「はい、ありがとうのチョコ」
「……こういうの、弱いんだって。ありがとな」
「ママからはもらえないから、余計に嬉しいよ」
照れながら渡す双子に、あかねは穏やかに笑った。
「二人とも、いい顔してる。ほんと、成長したね」
リンは、キャサリンとビデオ通話をつないでいた。
「Mom、チョコ作ったよ! 明日渡すから楽しみにしてて!」
『Oh honey, that’s so sweet! I’ll be home soon. We’ll share it with Dad, okay?』
「うん! パパにも渡すんだ!」
画面越しの笑顔が、距離も時差も越えてつながっていた。
──こうして、バレンタインデーは静かに、あたたかく幕を閉じた。
贈り合ったのは、チョコだけじゃない。
言葉と、想いと、絆。
その甘さはきっと、春の少し手前の空に、ほんのりと溶け込んでいた。




